21、大団円は希望的観測だ

 ざわつく教室、教壇の横に立つ担任。そして教壇には漁火。一か月前に見たのとまったく同じ光景が、眼前に広がっている。

 今日は漁火いさりびの教育実習の最終日だ。それはつまり、入れ替わりの最終日をも意味している。一か月間、1ーAを混乱の渦に巻き込んだ彼女が最後に壇上で何を語るのか。いつもは担任の雑談めいたホームルームを適当に聞き流している俺も、今日ばかりは教壇に注目せざるを得ない。


 入れ替わりが起きた直後に、漁火に入れ替わりを起こした目的は聞いた。しかし、一か月経って彼女の心情に変化が起きたかもしれない。その辺りをきちんと聞いておく必要がある。俺や七海ななみと違い、漁火を直接問いただすまでは至らなかったクラスメイトたちも、多かれ少なかれ同じような思いを抱いているだろう。彼女が口を開くと同時に、教室は水を打ったかのように静まり返った。


「一か月という短い間でしたが、大変お世話になりました。特にこのクラスでは、私の実験にお付き合い頂くことになりましたね。そのために、迷惑をかけてしまいました。深いな思いをした人もいると聞いています。申し訳ありませんでした」


 深く頭を下げる漁火は、迷惑を~のくだりでちらりと俺のほうを見た。俺はできる限り睨みつけてやったが、効果があったかは定かではない。少なくとも、俺が良く思っていなかったことは理解していたらしい。その事実でほんの少しだけ、溜飲が下がる。


「1-Aの皆さんに薬を飲んでもらったときは、ああするしか方法はないと思っていました。今でもその考えは変わりません。しかし、今後別の環境で実験する際に備えて、より理解が得られる方法を模索するつもりです」


 まだ件の薬を別の所で実験するつもりなのかと思い、げんなりする。しかし漁火は実験者だ。やはり己の欲求に基づき実験するのをやめられないのかもしれない。彼女はちらりと手元の腕時計を見やる。


「皆さんは、あと五分ほどで元の身体に戻るでしょう。最初は少し、身体のだるさがあるかもしれませんが本来の自分の身体に慣れるまでの間だけですから。すぐになじむはずですので安心してください。それでも具合が悪いという人は、後で化学準備室に来てください。しばらくの間は待機しているようにしますから」


 視線を正面に戻した漁火は、クラス全体を見渡した。


「入学早々、私の実験に巻き込んでしまい重ねてお詫びします。しかし、皆さんの高校生活はこれからです。大変なこともたくさんあったかと思いますが、今回の経験を糧に充実した日々を過ごしていただけることを願っています」


 いけしゃあしゃあと、と思うが漁火の本心だろう。彼女がこの薬を作った真意は、自らの高校時代に後悔の念があったからだ。

 ふと、漁火は不器用な人なのかもしれない、という思いがかすめた。とんでもない薬を作る技量を持っていながら、対人コミュニケーションについての理解は乏しい。薬を使うことでしかコミュニケーション促進を図れないくらいに。そう考えると、彼女が少し哀れな気がした。


「確かに、入れ替わりは大変なこともありました。しかし、私自身は苦労より楽しさのほうが勝っています」


 クラスの皆が一斉にこちらを向いた。俺の隣で七海が、にっと笑みを見せている。こんな表情をする俺を見るのも今日で最後かと思うと、少しだけ妙な気分になった。少なくとも、俺の両親は残念がるだろう。


「入れ替わりが起きた直後に野間のまくんも言っていましたが、男女が入れ替わるなんて機会、そうそうあるものじゃありません。確かに過程はちょっと不親切でしたし、楽しさより苦労が多かったペアもいました。なのでクラスの意見としてお礼を言うのは違うかなと思います。でも、私個人としては感謝しています。今後の高校生活が楽しくなりそうですから」


「そう言ってもらえると、救われた気持ちになります」


 七海の方を向いた漁火は、胸に手をやって頭を下げる。その仕草はいかにも男装の麗人といった雰囲気で、さまになっていた。本人は見た目で損をしていたというようなことを言っていたが、得をした面もあるのだろう。そう思うと、やはり釈然としないものが残る。すると七海がこちらに椅子を近づけ、耳打ちしてきた。


「当然、大河たいがは思うところがあるだろう。でも最後くらい気持ちよく送り出そうじゃないか。漁火先生がつくった盛大な舞台が、大団円の内に幕を閉じる。そのアシストくらい、してもいいんじゃないかという気がしてな」

「大団円、か」


 俺はそれとなくクラスを見渡す。無表情で座っている高嶺たかみね(の姿をした虎門こもん)や、何が楽しいのかにこにこして教壇の方を向いている野口のぐち(の姿をした野間)。入れ替わった当初は怒りしかわかなかったが、男女逆転した環境に慣れつつある自分もいた。

 そして、俺が最も懸念していた虎門と高嶺の関係も、悪いものではなかったようだ。あの二人とはほぼ毎日、昼食を共にしているがだんだん距離感が近くなっているのが感じられる。時折俺がいていいものかと、居心地が悪くなるくらいだ。虎門も高嶺も、少しずつ変わってきているのかもしれない。


「確かに、漁火から見れば大団円、なのかもしれないな。だが俺たちにとっては違う。むしろ俺たちの高校生活はここからが本番だ。自分の暮らしが充実したものになるか否かは、今後のふるまいによって変わる。漁火は途中でいきなり現れた劇薬に過ぎない」

「劇薬、か。言いえて妙だな。確かに漁火先生は持ってきた薬も、存在自体も劇薬だったのかもしれないね」


 七海は面白そうに微笑む。


「ともかく、俺たちサイドからみて今回の件を大団円として片づけられるかは、まだわからない。すべては元に戻ってからだ。きちんと元通りになることを確かめるまでは、安心できない」

「ああ。大河はそう言うよな」


 隣で深く頷いている七海から、俺は教壇へと視線を戻す。漁火は時計から顔をあげて再び教室中を見渡した。


「あと数秒で薬の効果が切れます。皆さん、椅子に座って目を閉じてください。一瞬浮遊感がありますので、なるべく身体を動かさないように」


 入れ替わったときのことを思い出して、俺は素直に漁火の指示に従う。不用意に動いて元に戻れなかったら最悪だ。クラス全体が静寂に包まれたのち、例の浮遊感が押し寄せる。頭がだんだん霧がかかったようになり、一瞬身体が空に浮く錯覚に陥る。


「では皆さん、目を開けてください」


 目を開けたとたん、俺は席一つ分隣にずれていることがわかった。机の上には七海の筆箱とノートが置かれている。視線を横に動かすと、本来の姿に戻った七海と目が合った。


「いつも十五分休憩の間は戻っているが。今はちゃんと『自分の身体に帰ってきた』感じがするね」

「ああ、確かに」

「久しぶりのオレの身体だ! もう、十分間を測らなくてもいいってことだよな?」

「はい。もう大丈夫です」


 おそらく野間は俺に話しかけたのだろうが、声が大きかったので漁火が返事をした。野間はよっしゃあと握りこぶしを作っている。

 野間と野口は割とうまくやっている雰囲気だったが、やはり思うように身体を動かせないストレスはあったのだろう。正直野間とはそこまで仲良くなかったので気を使ってやる必要性も感じていなかったが、七海が昼休みにフォローに入っていた印象だ。クラスに安心感を伴った喧騒が戻ってきたところで、漁火は再び頭を下げる。


「それでは、一か月間ありがとうございました」


 クラスメイト達は元に戻った身体を調べることに夢中で、漁火の方を誰も見ていない。それでいいと思っているのか、彼女はひっそりと教室から出て行った。


「とりあえず無事に戻ったみたいだから、大河の懸念は薄れただろう?」

「いやまだだ。十分経って元に戻らないことを確かめるまでは、安心できない」

「大河は心配性だな」


 七海はにやりと笑う。俺の顔で見慣れた笑い方だが、やはり本人の姿かたちでやったほうがさまになる。


「まあ、今日はどのみち私の家に荷物を回収しに来るだろう? もし入れ替わりがまた起きたとしても、何とかなるさ」

「七海は楽観的すぎると思うぞ」

「いや、漁火先生は自分の研究内容を偽装することはしない。だからこの薬の効能は真実だろう。私はそれを信じる」


 七海は机に手を伸ばして、自分のノートと筆箱を回収した。次いで俺の鞄を手渡してくるので受け取り、彼女の鞄を代わりに差し出す。


「それに、少なくとも華が変わるきっかけを作ってくれたのは間違いなく漁火先生と、あの薬のおかげだ。そこには感謝しているんだよ。彼女は名前の通り、もっと華のある人だから」


 お互いの私物の受け渡しをしつつ、七海は呟く。確かに、高嶺はこうした入れ替わりがなければ虎門や俺と関わることはなかっただろうし、それを利用してトラウマを克服する動機も湧かなかったに違いない。高嶺に関しては、プラスに働いたのかもしれない。


「まあせっかくできた縁だ。これからもよろしく頼むよ、大河」

「ああ」


 高嶺のことを考えていて軽く相槌を打ってしまったが、これからもよろしくというのは、どの範囲のことを指しているのだろう。深く問おうとすると七海は立ち上がった。


「じゃあ帰ろう。いったん私の家に。先のことはそれから考えよう」

「わかった」


 先ほど七海が言った通り、俺の私物の一切合切は七海の家に置いてある。先ずはそれらを回収するところからだ。

 俺たちはようやく、普通の高校生活を始めることができそうだ。

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