20、大河になるのは楽しいよ
数日前、七海の家に来た当初は向かい合って座っていたのだが、教え合うには隣合っていたほうが楽だと気付いた。以降は横並びになるのがスタンダードになった。
「
「それならよかった。だが、七海も別に言うほど英語が苦手なわけじゃないだろう。俺は大したことはしていないぞ」
「ほらまた謙遜する」
七海は横でにやりと笑う。俺がしないであろう彼女の笑い方にもだいぶ慣れてきた。
「俺は普通に勉強しているだけだから。お互いのためになるんならそれでいいだろう」
「だね」
頷いた七海はすぐにノートに目を向ける。俺もそれを見て自分のノートを開いた。
一般的な勉強会がどのように進むものなのかは知らないが、俺たちの場合は各々が自分のやりたい勉強を黙々と進める。そして、わからないところに出くわしたときだけ声をかけて、解決策を考える。女子と二人きりで勉強というと、野間あたりはお色気イベント的なものを想像するかもしれないが、俺たちの間にそんな雰囲気は一切ない。
いくら中身が七海だとわかっていても、横にいるのは俺の姿をした人間だ。俺相手にドキッとするなどまずありえない。かなりのナルシストでもない限り色気など感じないだろう。
そんなわけで今日も淡々と勉強を進め――英語の場合は俺から七海に質問することはまずないので、特につっかえることもなくはかどる――、ひと段落ついたところで横を見やる。七海はまだ勉強をしているようだが、教科書の開かれているページ的にもうすぐ終わりそうだ。
「どうしたんだい? 何か間違っているところがあった?」
俺の視線に気づいたのか、七海が顔をあげて様子を伺ってくる。勉強の邪魔をしてしまったようで申し訳なく、俺は首を横に振る。
「いや。後で聞きたいことがあるから進捗状況を確認していただけだ。もうすぐ終わるんだろう? それまで待つよ」
「妙に思わせぶりじゃないか。気を取られて集中できなくなりそうだ。その話、すぐに終わるなら先に聞こう」
七海はシャープペンシルを置いて、身体ごと俺のほうを向く。本当に邪魔をしてしまったようだが、そういえば彼女は己の好奇心に赴くまま行動するタイプの人間だった。好奇の対象が俺の言動に向いてしまった以上、再び勉強に意識を向けるのは難しいだろう。俺は謝るのをやめて、聞きたかったことをぶつけることにした。
「率直に言って、七海は俺と入れ替わってどう感じる? 生活していてきついとか、クラスでコミュニケーションが取りづらいとか、困っていることはないか」
しかし、そもそも俺だって七海と入れ替わっている。俺には虎門ほど強いポリシーがあるわけではないから七海について深く考えず生活しているが、彼女の方も同じとは限らない。入れ替わり期間が半分を過ぎた今になって、ようやくそこに思いが至ったのだ。いまさらではあるが、俺の身体で生活することに不便さを感じているのなら、そして俺のふるまい次第で変えられる内容なら、俺は生活改善の努力をするべきではないのだろうか。
わりあい真剣に聞いたつもりだったのだが、七海はふっと笑う。
「入れ替わって三週間でそれを聞くかい。だいぶ今さらな質問じゃないか?」
「悪かったな。気が利かなくて」
「いや。お互い特に問題なく生活できていたから、そういう疑問が俎上に上がることはないと思っていたよ。
七海の言葉で、先日彼女の弟の
「そういうわけじゃない。ただ、俺に直せることがあったら直したほうがいいと思ってな。それによって七海の生活のしやすさが変わるなら」
俺の言葉に、七海はふーんと相槌を打つ。面白がっているような雰囲気は先ほどと変わらない。
「さっきも言ったが、お互い特に問題なく生活できているだろう? だから、私は今のままでいい。トイレも入浴も、十分の入れ替わりの間で済ませられるしな」
「女子の風呂が十分間で終わるとは思わなかったぞ」
「さすがに湯船に入っていたら難しいな。シャワーだけなら何とかなる。私は短髪だからね。まあ一か月の我慢だ。
言われてみれば、長髪の
「他にも、俺の見た目で他の人と話すのが難しいとか、そういうのはないのか?」
「いや、無いね」
さらに深堀りを試みた問いかけは、即座に否定された。
「並木は無難な人間関係を築いていただろう。だから男女問わず、深すぎず浅すぎずで接することができる。私もそういうタイプだからな。中身と外側のギャップがあまりないんだろう。クラスでのやり取りは入れ替わり前と何ら変わりなくできているよ」
「そうか」
「あ、ただ華や
思い出したように付け加えた七海は、少し穏やかな表情になっていた。
「並木のおかげで、華と話す機会が増えたよ。それに、元々後ろの席だった月乃とも
「確かに、高嶺や
俺は教室の風景を思い出す。最近、七海は野口と一緒にお昼を食べていることが多い。三日に一回くらいは俺と高嶺・虎門がいる進路室に顔を出すが、彼女らと親交を深めている様子は見て取れた。
「まあ、大変だと思えば大変だと感じることもあるだろうが。私は楽しいと思うことのほうが多い。入れ替わりがもう少し続いてもいいとさえ思っている」
「それは駄目だろ」
「並木はそう言うよね」
即座に否定した俺を見て、七海はにやりと笑う。
「何より、入れ替わりがなければ並木とも、君の家族とも話をすることはなかっただろう。
「姉さんと? いつの間に」
確かに次姉は七海のことを気に入っている様子だったが、連絡先の交換までしていたとは。下手したら入れ替わり解消後も、俺のことをチクられる可能性があるわけだ。顔をしかめる俺に構わず、七海はわざとらしく手を叩く。
「ああ、そういえば山吹さんに、並木のことは名前で呼んでほしいと言われていたんだった。メッセージで“並木君”と書いていたら、“わたしも並木だよ”って言われたからね。だから今後は大河と呼ぶことにするよ」
「……わかった」
「不満そうだな」
七海が俺の顔を覗き込んでくる。別に、何と呼ばれようと構わない。だが女子から名前で呼ばれるとなると、普通の友人より一歩距離を詰められたような感覚に陥る。恋愛をするつもりはない、ゆえに女子とは一定の距離感をもって接したい俺にとって、名前呼びはグレーゾーンだった。
しかし七海になるべく過ごしやすくしてもらいたいという話をした手前、拒否するのは躊躇われた。しかも次姉の話まで持ち出されているから、ここで俺が断ったら次姉から小言を言われるのは目に見えている。総合的に判断して、受け入れたほうがいいと判断した次第だ。
「別に、好きに呼んだらいい」
「ありがとう。私のことも名前で呼んでいいんだぞ」
「気が向いたらな」
俺の話が終わったことを悟ったのか、自分が言いたいことを言って満足したのか、七海は残り少なさそうな英語の課題に戻る。俺も学習計画を立てるべくスケジュール帳を開いた。めいめいの勉強の時間がまた戻ってきた。
七海のことは異性として考えていない。しかし、二人で並んで勉強しているこの時間が居心地の良いものであることは、否定しがたい事実だった。
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