第17話 人間の構成要素
いつからこうなったのかは、もう覚えていない。
ただ気付くと、夜に人目を避けてステルと会うようになっていた。
場所は決まってコンピュータールーム。ステルはいつも窓際でぼんやりと紫煙を燻らせている。
「そういえば、今日、ここを使わせてもらいました」
十郎がそう断ると、ステルはちらとだけ視線を投げ、ふ、と紫煙を窓の外へと吐き出した。
「ええ、知っていますよ。スタジオの一室のモニター電源が点いたままになっていたから」
「あ、ごめんなさい」
「次回から少し気をつけて」
十朗はステルの横顔をながめながら、所在なさげにイスの一つに腰をおろす。
「チェロパートの出来上がり具合はどうですか? 皆の音に変化は?」
「まだ全員が模索中といったところでしょうか。さすがに宮川君の飲み込みは早いようで、他のメンバーが置いてきぼりを喰ってるなぁというのが正直な感想です。もちろん、俺も置いてきぼりを喰ってる一人なんですけど」
ステルは、吸い込んだ煙を吹きながら、ふっと笑った。
「そうでしょうね。彼は特別だから」
「特別?」
「彼は、宮川君は、必然によって選ばれた人間だから。だから誰よりもこの第五を理解していなければならない。本人も、きっとそのことを理解しているんでしょう。わたしはそう思っています」
「必然、というのは、天賦の才ある人だから、という意味ですか?」
ステルは微笑みながら首を横にふった。
「いえ、そういう意味ではなく。勿論すばらしい弾き手なのは間違いありませんが、これは、今ここで、彼が第五を弾くという意味において、必然だという意味です」
「――コンの言うことは時々難しい」
「そうかも知れませんね」
ふと、笑っていたその顔が真顔になった。
「彼とあなたは、まるで双子のように似ていますね、そういえば」
双子のように似ている。それは無理もない感想だと思う。しかし、それに呼応するような言葉を聞いた気がする。あれはどのタイミングだったろう? ――ああ、そうだ、宮川が言ったのだ。
――こんなに似てる双子なんかいませんよ。
そうだ。確かに、宮川はそう言ったのだ。
あれは、一体どういう意味だったのだろう? あの時は単純に聞き流したけれど、その言葉の意味を冷静に考えてみると、何か異様に不自然ではないか? ようやくそのことに気付いた十朗が、前後の状況がどうだったのかも含めて考え込んだその時だった。
「あなた、兄弟はいますか?」
突然の質問だった。
「え」
「兄弟ですよ。兄弟」
「ああ、きょうだい……一応、いるにはいますが」
ステルは横顔だけでふっと微笑んだ。
「わたしには妹がいるんです。共に生まれてくることができなかった、双子の妹が」
「――……。」
十朗は何もいえず、ステルの目をただ見つめた。
共に生まれてくることのできなかった双子の妹。純粋にその一言を聞いただけならば、恐らく妹は死産だったのだろうと受け取れる。だが、十朗の耳に入る時、それはひとつの意味としてしか届かなくなる。――それは、まるで。
巡理のことじゃないか。
ステルは静かに窓の外を見つめている。遠い何かを、じっと見つめている。
「どうして、こんな質問をしたと思いますか?」
「――……。」
答えられなかった。答えなくても、すでに答えは出ているような気がした。
「わたしは、この妹のことを心の底からうとんじていました。そして、他の何よりも、誰よりも愛しました」
静かな、ささやくような声で紡がれた答え。
それはまるで、巡理の心そのもののような言葉だった。
双子の妹を心の底から嫌悪し、比較されることを憎んだ巡理。そして、やはり他の何よりも、誰よりも彼女のことを愛した巡理。
心が麻痺してゆく。
ステルの仄白い肌も、硬質な
「――なにをかんがえていますか?」
「巡理のことを」
すでに、心を覆うものなど何もなかった。十朗はすでに、ステルの前では、自分の心が紡ぐ思いそのものを言葉にすることしかできなくなっている。
ステルの目が十朗の目を射抜く。ステルの目は、手の届かない深い沼のような、底の見えない目だ。
「わたしは、彼女に似ている?」
「ええ。何もかも。その目も、繊細な心も、共に生まれることのできなかった双子の妹を深く愛しながら深く憎む心も。何もかもが」
「そう。――そうでしょうね」
ステルは、すっと目蓋を閉じた。
「可哀想な子」
ぽつりと、つぶやく。
ステルのつぶやきは、誰に対して向けられた言葉だったのだろう。巡理に対してか、それとも、自分の妹に対してのものか。
唇から離れるフィルター。ふっと、吐き出されるのは、恐らく紫煙の形をとった溜息なのだろう。
「――わたしは、とても山深い集落に生まれたんですよ」
「集落?」
「その集落には、主家筋となる家が三つあり、わたしの生家はそのうちの一つにあたりましたが、なぜか代々肉親の運に恵まれない。父も母も、わたしたちをおいて行ってしまった。でも、わたしは不幸ではなかった。わたしには双子の妹がいたから」
父にも、母にも、見捨てられた子ども。
十朗は混乱した。
その言葉もまた、巡理に通じるものだった。
ステルが知るはずのない、巡理からこそ出るべき言葉だ。
しかし、ふと、それよりも十朗の思考が何かにひっかかった。
先、彼女は双子の妹は共に生まれてくることができなかったと言ったはずだが。どういう意味だろう? やはり実際には誕生しなかった妹という存在を、架空の心の慰めにしたという意味だろうか? 十朗がそれを問おうと唇を開きかけたその時、ステルの眼差しと質問がその問いを殺した。
「ねぇ。あなたのご両親は?」
「親、ですか?」
「そう。あなたの母親。それは、だれ?」
「俺の……」
俺の母親。
俺を産んだ女。俺を十月十日胎の中に抱えていた女。
「それは……」
十朗は口をつぐんだ。
答えたくないのではない。答えられないのだ。十朗には、母親と呼べるものがなかった。
ステルは、淋しげに微笑んだ。
「そう。答えられないんですよ、あなたには」
十朗の中に、むかりと反発の泡が沸く。
「――どうして、あなたにそんなことが断言できるんですか」
我知らず反発が沸く。言葉の内に、どうしても厳しいものが籠る。しかし、ステルは全く意に介さない。涼しい顔で、窓の外に灰を捨てる。
「あなたは自分の母親が誰か知らない。誰が自分の母親になるはずだったのかを知らない。本当は気付いているけれど、気付いてはならないから気付かないフリをしている。ただそれだけのことなんですよ」
十朗は頭を横に振った。
「言っている意味がわからない」
「じゃあ、別の話をしましょうか。以前あなたに質問しましたね。人間がどうやって創られているのかという質問を」
「――その答えは、まだ出せていないです」
「大丈夫。元々あなたに答えが出せるとはわたしも思っていないから」
「――……。」
ステルのあまりの物言いに十朗は言葉を失ったが、しかし何も言い返せない。ステルは、ただ静かだ。静かに事実を断言する。ゆっくりと、もたれかかっていた窓際の柱から離れ、十朗が座るほうへ近づく。そして、机をひとつ間に挟んで、その前に立つ。煙草を、いつもの通り右手の中指と薬指の間にはさみながら、両手を机につく。軽く前かがみになって、十朗を見下ろす。さらりと、ステルの髪が流れ落ちる音がする。
二人の視線が、目と鼻の先で絡み合う。
「まず、単純に分割するところから考えます。人間の構成要素を大きく二分すると、肉体と精神に分けられる。これがひとつになって人間ができあがる」
「――それは、なんとなくわかります」
「では次に、肉体は大きく二分すると、父親の遺伝子と母親の遺伝子に分けられる。これが一つになって肉体となる」
「それも理解はできます」
「では次に。心や魂と呼ばれるものを大きく二分すると、何から成立していると思いますか?」
「わかりません」
それこそ、全くわからなかった。ステルはふわりと笑った。
「肉体が、二つのものが一つのものとなることで成立するのと同じに、心や魂と呼ばれるものも、二つのものが一つとなることで成立するんですよ。――一つは、輪廻転生した魂。そしてもう一つは、母体がその人生で影響を受けた他人の精神。このふたつが結びついて、新たなスピリッツが成立する」
「どういう――ことですか?」
意味が、わからなかった。
「女性は生きることによって、あらゆる人間から影響を受ける。その中で、非常に強い影響を残した精神と、輪廻転生した魂が上手く結びついた時に、やっと新たなスピリッツができあがるのです。それが肉体と結びついて、新たな人間が創られる。大抵は、その配偶者の精神がそれに該当する。つまり、男というものの解脱が難しくなる。佛教で女人を禁じられる理由は、恐らくそこにあると、わたしは考えていますが」
ステルは、ふいと体をおこして十朗から離れた。再び窓辺へと歩いていく。華奢すぎる背中が、逆光に暗く染まる。思い出したように口元に運ばれたフィルターの金が、窓から差し込む光を反射させる。
十朗の認識は混乱を極めた。
いつかの宮川の言葉がよみがえる。ステルは何も難しいことは言っていない。至極単純なことしか言っていない。それはわかる。わかるのだ。しかし、彼女がいうことの内容を一つ理解するたびに、十朗の中に積み上げられてきたものがひとつ、またひとつと瓦解していく。何も難しくはない。なのに理解することで十朗の思考は混乱し、どんどんと麻痺させられていくのだ。
なんなんだ、これは。
一体何がおきているんだ。
「――その前に、教えてください、ステル。宮川君は俺と彼の容姿についての話をしていた時、「こんなに似ている双子はいない」と言ったんだ」
「確かに、あなたたちは双子じゃないですね」
背中を向けたままステルは振り返らない。その背中に向かって、十朗は頭を横にふった。
「問題はそんなことじゃないんだ。彼は「こんなに似てる双子なんかいませんよ」と言ったんだ。俺と宮川君は確かに似ている。だけど多分宮川くんが言っていたのは容姿のことじゃなくて、俺と宮川君の、何か人間としての本質部分のことのような気がするんだ。そして、それを問題にするのなら、あなたと巡理はそれ以上だ。あなたと巡理は容姿以上に心が似すぎている。ものを思う背景が似すぎている。宮川君の言った、こんなに似ている双子はいないという言葉は、裏を返せば「双子といえど結局別人に過ぎない。そして世の中にはまるで同じ人間ではないかと思わせるほど似ている者同士がいる」ということになってしまう」
ステルは満足そうに肯く。口元に金色のフィルターを運ぶ。
「あなたはやはり、すばらしく勘が鋭いですね」
「――双子でなくて、あらゆることが似通ってしまう関係というのは、一体なんなんだ?」
「それは……」
ふっと笑うステルの唇の端から、白い煙がもれた。
「寄生するものと、されるものの関係である場合だけでしょうね」
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