2.アンパサン・オン・ザ・チェスボード

第16話 ソナチネ





 翌日、アイザワ・トモエは姿を消していた。朝の全体ミーティングがメインホールで行われた時に、十朗はそのことを知った。それで、巡理が〈ドリフター〉のリリースをまず一件片付けたことを確信した。

 しかし、誰も何も言わない。ただ空席のヴァイオリン席がそこに存在しているだけだ。

 ここは、そういう世界なのだろう。メンバーが一人欠けていても誰も気付かない。そういう構造になっているのだ。空席のイスがありはするけれど、それはそういうものなのだ。そこには、はじめからそんな人間はいなかった。そういうことになるのだ。

 十朗に何の相談もなく、いきなり巡理がリリースを行ったことに対する戸惑いはあったが、結果的にこの事実を知ったことで、巡理の仕事が格段にやりやすくなることもわかった。

 誰が欠けても、誰も騒がない。

 だから、思う存分に仕事ができる。

 朝のミーティング後、各パートが割り当てられた部屋に移動する直前、ホールと練習棟を結ぶ回廊で、巡理が一人立ち尽くしていた。明らかに十朗を待っていた顔だ。巡理は、背もたれ代わりにしていた回廊の柵から身体を離す。十朗はゆっくりとその隣で立ち止まる。


「納得していない?」


 開口一番の巡理の言葉に、十朗はワザと「なにが?」と逆に問うた。


「勝手に仕事をすすめたことよ」


 十朗は首を横に振った。


「納得はするさ。無理やりにでもな。色々と都合がいいこともわかったし」

「そうね」


 二人、練習棟に向かってゆっくりと歩く。外はほんのりと白んで明るいが、やや肌寒いのは変わらない。


「じゃあ、何が納得できない? 納得できていないことがあるんでしょう?」

「不安にさ」

「不安?」

「ああ、不安だ。ここの連中が抱いている不安だ」

「それは前にも聞いたわ」

「俺自身が抱えている不安もある」

「あんたが抱えている不安?」

「この仕事に対する不安。メグに対する不安。自分に対する不安だ」


 はっきりと巡理に対して不安感があることを口にしたにも拘わらず、巡理は静かに歩くきりだ。それから少したって、ようやくぽつりと「……あんたは、不安なのね」とつぶやいた。


「ああ、不安だよ。あらゆることが不確定で前例がなくて、正直発狂しそうなくらいだ」

 わかっている。本当はわかっている。

 本当は、自分が答えなど求めていないことを。

 十朗自身がその答えを拒絶しているのだ。知りたくないのだ。理由など聞きたくないのだ。

 不安の正体など、知りたくないのだ。

 それが、取り返しのつかない何かをもたらしそうで。


「ねぇ、十朗」


 静かな巡理の声。それは鼓膜をふるわせるのではなく、そっと十朗の心をなでてゆく。


「――……。」

「焦る必要なんか、全く無いのよ。あなたがすることはいつもと同じなの。なんの心配もしないで、いつもと同じように仕事をすればいいの」


 十朗は立ち止まり、巡理も立ち止まった。


「ほんとうに、変わらないのか。なにも」

「そう、なにも」


 巡理は、ふわりと微笑んでそっと手を伸ばし十朗の髪をなでた。

 十朗は、信じられない、という顔で巡理を見た。巡理は、ただ黙って微笑む。

 巡理が自分から十朗の髪をなでたのだ。

 自分から、人に触れたのだ。

 十朗は知っている。

 なぜ巡理が、人との接触を嫌悪するのかを。その理由を。



 一日の練習を終えて、夕食をとり終えた午後。十朗と巡理は中央館のコンピュータールームに入った。巡理がひとつ仕事を終えた。それは十朗の仕事のはじまりを意味する。

 左側の部屋の扉をあけて中に入る。入り口のすぐ近くにスイッチがあり、それを押すと電灯がともる。何度かの明滅をくりかえして、ようやく奥までが照らし出された。

 ひとつのスタジオを選ぶと、十朗から先に中へ入った。申し分ない設備だ。部屋の電灯をつけ、パソコンの電源を入れ、手近なところにあったアコースティックギターを手に取るとパソコン前のイスに座る。そのころになってようやく、巡理がスタジオ内へと脚を踏み入れた。


「こんなところがあったのね」


 巡理があたりを見回しながら、部屋の中央で立ち止まる。


「誰から聞いたの? こんな部屋があるって」

「――さあ、誰だったかな。何人かが言っていたから、誰かってことはないよ」

「ふぅん」

「適当に座ってくれ。アイザワのデータの叩き台を確認してほしい」

「わかった。譜面見せて」


 アイザワのデータは、すでにそろっていた。螢から送られてきた封筒に入っていた書類が、そのまま彼女のデータを作るための基礎情報となる。アイザワのリリース時に発覚した、いくらかの追加情報は、すでに巡理から聞き出してある。先の夕食後、部屋でざっと準備した仮譜面を取り出すと、十朗は譜面台の上に広げた。巡理がそれに目をやる。


「珍しく仕事が速いわね。これからもこの調子でどんどん進めてくれるとありがたいんだけど」

「そのつもりだよ。どうだ? だいたいこんな感じだろ?」

「そうねぇ……」


 十朗は、主旋律のイントロをギターで奏でた。ハ短調のライン。少し軽い印象の曲にまとまっている。繊細なソナチネ。彼女のイメージそのままだ。

 巡理がリリースを終えた〈ドリフター〉の情報を、正確にデータ化することができるのは、恐らく本人自身と十朗だけだ。

 〈ドリフター〉のデータは、言葉ではなく音で記録するシステムになっている。

文書で残されたデータは、一言で言えば不完全すぎたのだ。文書データは、コンピューター環境や言語、文字コードが変わることによって、完全なユビキタスからは程遠いものになってしまう。データはいつでもどこでも誰でも使用でき、理解できるものでなくてはならない。

 かつては文書データで事足りた時期もあったが、仕事の仕組みが対〈ドリフター〉のものとなってから、データ記録方式は基礎から変わった。データ形式を言葉ではなく音にしたのは、ソースを音状にしておけば、あとは各自が理解できる言語や視覚・聴覚情報にコンバート(変換)して確認すればいいからだ。〈ドリフター〉に対応するためには、十朗たちのようなリリースの実務を行う者たちに、より精密な形で情報が伝わらなければならず、また正確なデータを残さなければ、この繊細な仕事をこなし続けるのは実際無理に等しかったからだ。

 無論、関係者以外に情報をもらすことは一切赦されない。データを格納したサーバーへのアクセス制限は絶対的で、データをコンバートする方法は実務者しか知らない。コンバート・アプリケーションをインストールしたクライアントをもたないものはデータに触れることすらできないのだ。その上〈ドリフター〉のデータをサーバーへアップデートできるのは螢一人だけである。十朗や巡理がデータを作成した後、螢へデータを渡し、螢がサーバーへのアップデートを実行した時点で、はじめて業務は完了となるのだ。

 システムが変更されたのは、自分と巡理がチームを組んだ直後だった。かつての第一システム期から現行の第二システム期に移行して、すでに四年近い月日が流れていた。


「まって、今のは」


 巡理からストップがはいる。


「どこだ」

「伴奏のところ」


 いいながら、一つの音符を指さす。


「ここはGにしておいて」

「――かなり不協和音になるぞ。確かに、そこはちょっと迷ったけれど」

「昨日本人と話をしてわかったのよ。だからGにしておいて」

「了解」

「ああ、主旋律なんだけれど」

「わかってる。ヴァイオリンでいくんだろう? 並走してるラインはオレのチェロでいいんだな? それ以外でやるなんていったら納得しないぞ?」

「ええ、もちろんよ。それでお願い」


 引き続き幾度かの修正と手直しが行われてから、各旋律と編曲方法、使用楽器について打ち合わせて、その日の作業は終了となった。作業はおよそ二時間近くに及んだ。

 スタジオを出しな、十朗はぽつりと問うた。


「次は、誰の予定だ? あの後、何通か書類が螢から送られてきてるだろ?」

「ええ。来た書類から進めるつもりよ」

「――待ったなしだな」

「ええ。時間が惜しいから」


 コンピュータールームの窓は、今日もブラインドが上げられたままになっている。窓の向こう側は、既にコールタール状の闇だ。その闇の中へ、巡理の視線は向けられている。十朗へ向けられた小さな背中が、闇の上に浮き上がって見える。


(時間が惜しい、か……)


 十朗は、ただそっと目蓋をふせた。

 それは、この時間が終われば、自分たちの時間もまた終わることを互いに踏まえた上での言葉だったから、十朗の胸は、重く密やかに歪んだ。




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