第15話 あの目




 ここの夜の闇は深い。

 まるでゼリー状に固められた、温かいコールタールの底に閉じ込められて、ふるりふるりと揺すられているような気さえする。


 アイザワ・トモエは、寄宿舎の塔屋に続く廊下を一人で歩いていた。

 寄宿舎の造りは、全体的に西洋建築的で、とても彼女好みだった。天井も高くて息苦しさを全く感じない。木製の手すりにそっと手を這わせながら、しずかに塔屋へと向かう。

 コールタールの闇が満ちた、ここの夜。

 一人で部屋にいると、たまらなく不安になることがある。なぜかはわからない。ただ、無性にいたたまれなくなるのだ。

 ここにいるのが嫌なわけではない。むしろ永久にここへ留まり続けたいくらいだ。なのに、不安は消えない。

 この施設の周囲を取り巻くのは確かにゼリー質のコールタールの闇だ。しかし、本当にそのはるか向こう側までが完全な闇なのだろうか?

 もしかしたら、この全ての向こうには、オレンジ色をした光が見えるのではないだろうか?

 漠然とした想像はやがて推測となり、膨らんだ妄想は確信となった。

 みたい。オレンジ色の光がみたい。

 きっと、寄宿舎で一番高いところに昇れば、何か見えるのではないだろうか。そう思ったらいても立ってもいられなかった。ネグリジェの上に薄物一枚肩に羽織っただけといういでたちで、アイザワ・トモエは部屋を出た。鍵をかけたかどうかは記憶になかった。でも、どうでもいいような気がしていた。すでに闇の向こうに見えるはずと思い込んだオレンジ色の光の虜になっていた。

 長い廊下を、窓の外だけ見つめながら進む。窓の向こうには闇がある。彼女は夢心地で進む。きっともうすぐ何かが見える。この不安を拭い取ってくれる何かが私を待っている。

 と、視界の隅で何かが動いた。そっと目を窓から外し、廊下へと動かす。


 廊下の中ごろに、一人の少女が立っていた。


 その身体はモノトーンの色彩に包まれていた。漆黒のウェービーヘア。黒いタートルネックのセーターに、ウォッシュアウトしたホワイト・ジーンズ。死者のように赤みが一切ささない白い肌、鋭い眼差し。


「こんばんは。アイザワさん」


 心なし予想よりも低い、落ち着いた声。


「あなた」


 彼女は確か……。

 記憶の中をさぐる。たしか最終で到着した子だったはずだ。名は……。


「何を求めても、むだよ」

「え」


 その唐突な少女の言葉に、一瞬気を奪われた。

 夢の中を進んでいたような、ぬるい曖昧さは完全に奪われてしまった。

 それが、その後の展開の全ての原因だった。


「ねえアイザワさん。この闇の向こうには、ただひたすら膨大な闇があふれかえっているだけよ。希望も展望もなにもない。ここは自分以外の全てのものを拒絶している。だから、ここの外側には、ここに拒絶された、ここ以外の、無闇矢鱈な空洞があるだけ」

「なに? なにを言っているの?」

「ここは、自分の生きる世界を逃げ出した者が寄せ集められた心の墓場。私の世界に何の了承もなく勝手にテリトリーを広げた、凝った、美しい、だけど不躾な箱庭」

「何を言っているの……」


 そういいながら、アイザワ・トモエは一歩後ずさった。心が激しくざわめく。

 いけない。このまま彼女の言葉を聞いていてはいけない。もしこのまま続けたら、自分は聞きたくもない事実を聞く羽目になってしまう。


(――事実?)


 自分の心をよぎった言葉に、アイザワ・トモエははっとした。

 なんだろう、この全身が粟立つような恐怖は。

 巡理は、彼女の目の前で一通の封筒を取り出した。そこから一枚の紙を取り出し、かさかさと広げる。


「アイザワ・トモエ」


 名を呼ばれた。ただそれだけのことで戦慄する。

 取り出された書類に落とされた、巡理の目。暗い影を頬に落とす長く硬質な睫毛まつげ


「あなたは、子どものころから注目を浴びていたヴァイオリニストだった。順調に音楽科のある高校を経て、有名音大に入学し、一年生の時に日コンの一位に入賞し、ガラコンサートに出た」

「いや……」


 巡理の目が、アイザワ・トモエの目を射る。


「そして、あなたは酷評をうけた」

「やめて! 聞きたくない!」


 彼女は両手で耳を塞ぎ、しゃがみこんだ。


「あなたの記事を書いたのは、あなたが敬愛していた音楽書評家だった。西島という名のね。そして、あなたはその記事をみつけて絶望した。他の誰からの酷評もあなたはこれまで厭わなかった。それだけの強さを持っていた。他人からの絶賛も批判もこき下ろしも、あなたには何の関係もなかった。ただ一人、西島に認められることさえできればいいとさえ思っていた。とうのあなたがそのことに気付いていなかったにしろね」


 巡理は、アイザワ・トモエに近づく。彼女のすぐ手前で足をとめる。静かに、しゃがみこんだ少女を見下ろす。

 小さくちいさく縮こまった身体を、巡理は愛おしいと思った。愛おしく、そして憎らしく嫌悪した。


「あなたはあの日、絶望し、街を徘徊していた。そして、ほぼ無意識の状態で、踏み切りを越えてしまった」

「――そうよ」


 アイザワ・トモエは、静かに顔を表にあげた。


「――私は、踏み切りを越えてしまった。あの、かんかんと鳴る音を聞きながら、もう、弾けないことを思い知っていた。でも、私はヴァイオリンが弾きたかったのよ。魂の全部でヴァイオリンを弾くことで生きていたのよ。でも、私は踏み切りを越えてしまった。もう、ヴァイオリンが弾けないのよ。私は、自殺してしまったから、もう、あんなに弓を走らせた腕も、弦をなで続けた左手のタコも、なにも私は持っていないのよ! もう、ここでしか、私はヴァイオリンを弾けないのよ! ここにいたいのよ!」


 その魂の叫びをも、巡理は愛おしく思った。そして憎らしく嫌悪していたのだ。

 だから、その事実を告げるのだ。


「あなたは死んでいない」


「――……。」

「あなたは、あの時、助けられたんだよ。あなたの後に踏み切りに駆け込んできた男に抱きかかえられて、線路から転がり出たの」

「私が、いきている……」

「男は、あなたと一緒に飛んだ。あなたはそのままこん睡状態におちいって、意識不明のまま病院のベッドに横たわっているの。今もそうなのよ」

「私が、いきて」

「あなたを助けた男は、時間があればいつでもあなたのところに通ってきて、あなたの目覚めを待っている」

「どう、して」

「彼はね、あなたの「我」に気付いてしまったんだよ。日コンに出た時、あなたは西島の評価を期待して、音楽のためではない、他者評価を望んでしまっていた。彼だけは、そのことに気付いたんだよ。それだけ、あなたの音を愛していたからね」


 アイザワ・トモエは巡理の目をみた。

 何者にも惑わされない、強かな、冷徹な、だけどとても繊細な、慈愛に満ちた眼差しだった。


「あなたは、西島に絶望させられたかも知れないけれど、西島はあなたの音を愛していたからあなたを酷評したんだ。そして、あなたを踏み切りから救って、毎日あなたが目覚めるのを待っているんだよ」

「西島さんが……あたしを助けた……」

「そうだよ。あなたは、こんなところにいる理由なんか、何一つ持っていないんだよ」


 巡理のその言葉を待っていたかのように、彼女の身体が半透明に薄まってゆく。巡理は、それを最後まで見届ける。それはいつものことだ。〈ドリフター〉が仮想世界から去っていく時、決まって彼らはこんな風に薄まって、姿を消すのだ。見慣れた風景に、巡理の心がゆるんだ。

 その瞬間だった。

 アイザワ・トモエの目と巡理の目が合う。

 アイザワ・トモエの目の色に巡理ははっとした。


 それは、あの目だ。

 いつもと同じあの目だ。


 巡理の背中をぞっとしたものが走る。

〈ドリフター〉たちは、世界から消えていく刹那、いつもこんな目で自分のことを見る。

 彼女の身体はどんどん薄さを増してゆき、ついにその姿は巡理の目の前で掻き消えた。

 どくどくと、激しい勢いで脈打つ胸を右手で押さえながら、巡理はその瞬間、はじめてそのことに気付いた。

 これまで巡理は、その瞬間彼らが見せる目に宿るものを、悲しみだと思っていた。渇望が生み出した理想世界から問答無用で追い返す、冷酷で容赦のない自分に対する、憎しみと悲しみだと。

 だけれど、今の巡理は、そうではないのだということを知っている。排除される自身へ向けての憐憫、そこから発露する憎しみ。そんなものではなかったのだ。

 それは本当は、巡理に対する感情に満ちていたのだ。

 これまでの、視界の狭まった精神状態で見ていた時ならば気付かなくてもムリなかったろう。人の望みを否定し断ち切る自分に憎しみは向けられても仕方がないと思っていたから。そして、そんな感情を向けられることに対する自衛手段として、彼らの眼差しを意図的に無視することはムリないことだったろう。でも、今は違う。本当のことを知った今、巡理はまっすぐな心で〈ドリフター〉の目を見ることができる。だから、気付いた。彼らの目に宿るもの。それは、



 ――哀れみだ。



 巡理に対する、ただ静かな哀れみなのだ。


 ひらり、とどこかから舞い落ちる一枚の花弁。


「――まずは、ひとりめ」


 小さくつぶやくことで、巡理は心を閉ざした。そして、アイザワ・トモエが自分の世界に帰ったことを確認する。

 巡理は、床に落ちたその花弁に何気なく目を落とし、そしてその花弁が舞い込んできたのであろう窓に目を向けた。そして、目を見張った。

 窓は、固く閉ざされていた。

 そして、そこに、一人の男が映っていた。

 黒いマントらしきものを羽織った、若く美しい黒髪の、白人と思しき青年だった。

 ガラス窓に反射している角度から見て、彼が立つのは巡理の立つ廊下の曲がり角あたりということになる。慌てて振り返る。そして、ちらりとだけ捉えた黒い影。


「待ちなさい!」


 叫びながらその姿を追った。思う以上に廊下を長く感じる。やっとの思いで曲がり角を折れたが、すでにその先へとつづく廊下には誰も存在していなかった。


 ――黄色人種のクセをして、白人よりも白い皮膚だ。


 遠い、古い記憶が脳裏を過ぎる。しかしただ過ぎるだけだ。

 ただ、静かな闇と白い一枚の花弁だけが、巡理の傍に残されていた。




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