第18話 《複製禁止》




 男子寄宿舎と女子寄宿舎の間に挟まれて、小さなラウンジがある。

 大理石の張られた床は適温に保たれた床暖房になっており、漆喰の壁にはレプリカなのだろう、ルネ・マグリットの有名な作品である《複製禁止》が飾られている。鏡に向かった男の後姿が鏡にも映っているという、あの絵だ。絵の下におかれたモダンなブラックの暖炉もムダがなく、部屋全体の色調がモノトーンで統一されている。バーカウンターも設置され、ビリヤード台もおかれている。

 そして、ラウンジ奥には三つの扉がある。その奥は、いずれもチェスルームになっていた。

 休日の朝、いつも早く目が覚める巡理は、たまたま誰もいなかったラウンジに足を踏み入れ、一番奥にあるチェスルームのひとつに入った。

 扉をくぐると、真正面の壁は一面、床から天井まで続くガラス張りの窓になっている。差し込む日差しは暖かい。

 部屋の中央に洒落たテーブルセットがある。丈の低いテーブルをはさんで二脚のイスがおかれている。テーブルは、その上にチェスボードをひとつ、やっと載せられるサイズで、四角い。もちろん、おかれているのはチェスボードとチェスの駒だ。

 足音を立てぬように、巡理はテーブルに近づくと、イスに腰をおろした。窓に向かってのんびりと座る。ほお、と溜息がもれた。

 チェスの駒たちは、整然とスタート位置に並べられていた。巡理が座った側には、黒の陣営が設置されている。窓を背にする上座側に座れば白の陣営になるつくりだ。

 白の陣営に手を伸ばし、ビショップの前に位置するf2のポーンをf4に動かす。これは、十朗のクセの手だ。それから、自分の前にいる黒の陣営のg8にいるナイトを、h6に飛ばした。それは巡理のクセの手。

 その瞬間、まるでデジュヴュのように、初めて十朗と会った時のことを思い出した。

 記憶の中の二人の間にも、一台のチェスボードがおかれていた。


          †


「……うっ――」


 ずきずきと、後頭部を捻りあげるような痛みで目がさめた。

 どうやら自分は寝台の上に横たわっているらしい。白い糊の利いたシーツにくるまれている感触。シーツ越しに感じる、分厚いスプリングと柔らかな羽毛布団。

頭痛のひどさで目を開ける気になれず、しばらくそのままでいた。すると。


「ああ、気がつきましたね」


 突然、思いもよらないほど近い位置から、そんな声を浴びせかけられた。驚いて、無理やり目蓋をひきあげる。

 そこには一人の白い女がいた。ベッドのすぐ側にいる。その顔の位置から判断して、どうやらパイプ椅子にでも腰をおろしているらしい。


「よかった。気分はどうですか?」

「――最高といったら嘘になる程度には頭痛がする」


 この答え方に満足したのかどうかは知らないが、女は「ふふ」と声に出して笑った。


「無理もないでしょう。あなた、もう丸一日眠っていたんですよ」


 それこそ、思いもよらない言葉だった。そんなに長く眠っていたのか? ということ以前に、一体いつから自分が眠っていたのかがわからないのだから、困惑しないはずがない。


「ここは?」

「――もしかして、何もおぼえていないんですか?」

「いや……。ちょっと待って。待って」


 本当に、ひどい頭痛だった。頭を抑えながら身体をおこすと、女は立ち上がって、サイドボードにおいていた水差しを手にとり、中身をグラスに注いで手渡してくれた。

 女の姿をようやく目で確認する。ひだのゆれる白いフレアースカートに白いタートルネックのセーター。同じく白いリボンで結わえたセミロングの髪。白一色だけを身にまとう、全体がやわらかいつくりをした女だった。歳は、自分と十ほど違うだろうか。一世代違う印象をうける。物腰や仕種もまたやわらかい。グラスに水を注いだ指先の白さと、セミロングの髪の艶の光もまたやわらかい。


「どうぞ」

「――ありがとう」


 こくり、と一口飲み下す。清涼な感触が咽喉のどを滑り落ちて、ようやく人心地ついた。


「螢、だよね? ――柏木かしわぎ ほたる


 女は静かに微笑むと、「はい」と答えた。


「では、あなたは誰ですか?」


 続いた奇妙な螢の問いに、一瞬言葉を失う。が、自分が誰かと問われて答えられないはずがない。


「私は――メグリ。そう、仁名 巡理だ」


 螢が、ふと真顔になる。


「ヨシナ・メグリ、ですか」

「そうだ。あんたたちがよく知っているはずの、あの子の、双子の姉だ」


 と、突然螢は立ち上がり、それまで自分が座っていた椅子を壁際によせた。


「立てますか?」

「なんとか」

「では、重要なお話があります。こちらへ」


 有無を言わさぬ調子で、螢は扉のほうへ歩いてゆく。歩みに澱みはない。仕方なく寝台から降りる。シーツの擦れる音に紛れさせて、小さな溜息を吐いた。

 螢の手が、壁に埋め込まれた赤い四角のボタンを押す。ふぃんっ、という軽い音と共に、扉が横滑りした。まるでSF映画のセットのようだ。

 部屋を出しなに、それまで自分がいた部屋がどんなものだったのか確認しようと振り返る。そこにあるのは、寝台とサイドボードとイス一つきりだった。十畳ほどの広さの中に、三つの家具が所在なげにたたずむばかりだ。


「行きましょう」


 螢は、開けられた扉の向こう側、つまりは廊下に立ち、じっとこちらを見ていた。

彼女の後に続くと、背後で扉の閉まる音がした。

 廊下は、薄緑色のリノリュウム製だった。中央に白ラインが入っている。壁は白。これは恐らく漆喰だろう。律儀に廊下の左側を歩く螢の後に従い、とりあえず左側を歩いた。歩きながら、彼女が日本、もしくはイギリス文化圏に属しているか、この建物の存在している場所がそのいずれかの文化圏の性質を色濃く有しているのだろう、ということを思った。別に、大して確認するような事項ではないのだけれど。

 廊下の端にまで行きつくと、突然、目の前に広大な庭が広がった。まぶしさのあまり、目の前に手をやる。

 目が元に戻るまでまってから、そっと、そこに広がる光景を見る。それは、一見すると植物園の温室にも見えた。緑と花の庭は、巨大な半円形をした、ガラス張りのドームに囲われている。ちょうど、ガラス製のサラダボールに覆われたようなものだ。自分たちがいるのは、そのサラダボールを取り囲む形でしつらえられている通路なのだった。


「ここは?」

高海沢こうみざわ科学研究所です」

「――〈イーシァン〉の関連施設なのか?」

「いいえ」


 と、螢は頭を左右に振るった。


「違うのか」

「敵ではありませんが味方でもありません。現時点では、利害関係が一致した協力関係にあるといえるでしょう。仕事の対象物が共通しすぎていて、互いの利権範囲をいかに広げるかに昼夜を割いている、といっても過言ではないですね。相互に妥協と談合を繰り返す毎日です。癒着面が多すぎて、正直に申し上げて閉口しています」


 螢は左右両方に続いていたその通路を左に曲った。廊下、と呼ぶにはためらいを感じるぐらいの広さがある。いくつか長椅子や小型のテーブルもおいてあり、性質的にはラウンジといったほうが近いだろう。

 歩きながらドームをながめる。通路はサラダボールの上のほうにあって、円の周りを、くるり、と取り囲んでいる。円の反対側を見ていると、今自分たちが歩いている通路の下に、三本ほど同じような通路が見えた。どうやら、ここは五階に位置しているらしい。

 しばらく歩いて、さっき出てきた廊下から、ちょうど90度の位置まで進んだところで左に伸びている廊下に折れた。進む廊下は、一本道になっている。正面から、強過ぎる光が差し込んでいた。直接網膜を焼く。


「先に少し予告をしておきますが」

「え」

「これから行く部屋には、今後あなたと組んで仕事をする、あなたのパートナーがいます」

「――え?」


 思いもよらない言葉に、思わず立ち止まってしまった。


「そんな話は、聞いていないけれど」

「そうでしょうね。今、はじめてあなたのお耳に入れたことになるはずですから」

「そんな人間、必要ないんだけど」

「そうでしょうか?」


 螢は意味ありげに微笑んだ。


「彼は、あなたにとって、とても重要な意味を持っているはずですよ」


 思わず笑いがもれた。


「悪いけれど、事前情報から大体イメージさせてもらったような事態なんだったら、他人と組んでやれるような、そんな生易しい仕事じゃないと思うけれど。それに、他人に期待しても相応の結果なんかそうそう出るもんじゃない。結局時間のムダになるのがオチじゃないか?」


 螢は小さく溜息を吐いた。


「随分、狭量な人間関係しかイメージなさらないのですね」


 むかり、と一つ、腹の中であぶくがはじける。


「今まで、ずっと自分のことは自分で始末をつけてきたんだ。それであんたに迷惑をかけたおぼえもないけれど」

「あの方があなたの半身だとは、とても思えない御性質のようですね」

「――……。」


 螢の言う、あの方というのが、自分の双子の妹を指していることは明白だった。

 唇を噛みしめていると、螢は苦笑をもらした。


「そんなお顔をなさらなくても、よろしいではありませんか」

 巡理は無言を貫いた。

 彼女に比べられ、お前は劣性な存在だと目の前に突きつけられることは、巡理にとって耐え難い苦痛だった。

 螢がちらりと振り返り視線をくれる。


「あなたは――あの方を、憎んでいるのですか?」


 溜息を吐いて、巡理は視線を床に落とした。


「……それこそ、一言で片付けられるものじゃないだろう」


 愛しいからこそ、収集のつかないことや場合がある。愛しさが深ければ深いほど、それは憎しみに転換されてしまう。二つの思いは、比例して増加する。巡理はこれまでもずっと、二つの思いが深さと強みを増し、濃度を濃くするたびに、コントロールできない自分の激しさを持てあましてきたのだから。


「それで、あの子は今どこに」

「これからあなたと組んで仕事をする者と、共に棲んでいますよ」

「それ、どういう」

「どうもこうも、言葉通りですよ。心配されなくとも、すぐにお逢いになれます」

「まさか、今、ここにいるのか?」


 螢は、首を横にふった。


仁統みすみ様は、今こちらにはいらっしゃいません」

「――……みすみ」

「ここです」


 ふいに螢が立ち止まった。そこは角部屋の前だった。廊下の端は、床から天井までのガラス張りになっている。陽光のまぶしさは、そのためだったのかと知る。

 螢の手が、壁の赤いボタンにのばされる。

ふぃん――、と、宇宙センターなどで聞けそうな音を立てて、セラミックス風の自動ドアが横滑りして開いた。




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