第四章 砂糖

 三月。暖かな陽が街を包んだ。春の陽気が、もう、すぐそこまで来ていた。あの日以来、僕は彼女と会っていない。もう二度と、これから会うこともない。

 会いたいと思う気持ちは、やはりどこまでも伸びた。たまに、やはり彼女はどこかで暮らしている、そんな気がした。けれども、受け止めなければならない、新しい生活を生き抜かねばならない、と自分に言い聞かせた。今度は、自分が我慢する番なのだから。


 僕の癌は、肝臓、小腸におけるものはすべて消えた。奇跡だった。医者もその時は酷く不思議がっていた。残るは胃の癌だけだった。しかし、これも摘出すれば完全に治ると言われている。

 体調も良くなってきたので、僕は彼女がいた病室を訪れることにした。足取りも以前とは全く異なっていて、スムーズに歩くことができている。

 病室内。彼女のベッド。もうネームプレートは外されていて、そこに彼女の痕跡はもうない。思わず、涙が零れそうになる。現実は、やはり彼女を殺したのだ。しかし、それはおそらく仕方のないことだったのだ。だから余計に、泣きたくなってしまう。

 けれども、泣くわけにはいかない。あの日、君が言ってくれた「まるで、砂糖みたいだね」その意味が、わかったからだ。


 それから僕は病棟一階の売店で、角砂糖を一つ購入した。もとよりお金がなかったから、おそらくこれで、僕の貯金額はほとんどなくなっただろう。けれども、それでも良かった。

 僕は彼女の病室に戻ると、その角砂糖を彼女のベッドのテーブルの上に置いた。近くの窓からは、桜の花びらが、暖かな陽の光とともに入ってきていた。これからの未来に希望を抱けるかわからない。僕がよく生きるかわからない。けれども。

 角砂糖に、一枚の花びらが乗った。


 砂糖というのは、いずれ崩れてしまうかもしれない。あるいは、あり等によってどこかに持っていかれてしまうかもしれない。けれども、今すぐではない。この角砂糖の時間分だけ、僕が覚えている時間分だけ、おそらく永遠になるのだろうけれど、彼女は生き続ける。彼女という存在を忘れないために、彼女という存在と共に生きるために、僕は今日も角砂糖を置く。言葉と一緒に。甘い時間を、静かに、思い出しながら。

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