第三章 初恋

 あれから三ヶ月がたった。あの日出会ったのは十一月のことだったので、もう二月になっていた。街は節分ムードで盛り上がり、僕の病院は高齢者が寒さにやられて死人続出で、忙しさという意味で盛り上がっていた。 そんな中でも、僕と彼女はお互いにあのカフェやあるいは敷地内の庭園に行ったりして、お互いの存在を求めあっていた。僕たちは、お互いの存在を確認することで、毎日をだらだらと生きていたのだ。いや、生きられていたのだ。


 毎日他愛のない会話をしていた。けれども僕たちは、そんな他愛のない会話に救われていた。いつ死んでしまうかわからないからこそ、「今日は晴れだね」とか「今日の朝食は不味かった」とか「退院したらディズニーに行ってみたい」とか、そんな言葉たちに励まされていたのだ。


 雨が降っていた。その日は、冬に似つかない雨が、東京の街を襲った。僕の病室からも、その様子は一望できた。雨は、空も街も僕もすべてを真っ黒に染めた。窓ガラスには、爪で引っ掻いたみたいな水滴の跡が、いくつもできていた。

 僕はまたいつもと同じように午前中をやり過ごすと、また、いつもと同じように午後一時の約束を果たしにエレベーターホールへと移動した。


 胃の癌はあれから、肝臓、小腸にも転移した。生還は、正味絶望的な状況だった。こう歩けているだけで不思議なものだった。本当ならば、痛すぎて歩けない。確かに体は痛くて重い。けれども歩けているのは、やはり彼女のおかげなのだろうか。それとも単にまだピークではないためなのだろうか。だがそんなことはどうだって良かった。大切なのは、今どう生きるかだけなのだから。


 半ば引き攣るような足取りで、僕はエレベーターに乗る。毎日経験した急降下は、未だに苦しいものがあったが、流石に慣れてきた。エレベーターを降りると、いつもと同じように彼女の姿がどこかしらに見える。今日は、受付近くの窓際にいた。

 その窓からは、病院内の庭園や菜園、湿度が低ければ近くの町並みも見ることができる。しかし、今日は雨が降っていたのでさすがに叶わなかった。視界の隅に、彼女がまた見えた。


 思えばある時から、僕がエレベーターを降りても、彼女は手を振らなくなった。笑顔をこちらに向けるだけになった。正確に言うと、彼女は手を振れなくなったのだ。僕の癌が二箇所に転移したように、彼女の肺がんも、彼女の腕の骨や脾臓に転移していた。現実は、僕らをじわじわと殺しにきていたのだ。


 腕のなくなった彼女は、今日も笑っている。――笑顔だけは、いつも捨てないで、限りなく生きる希望を、見捨てていなかった。僕が死にたいと思ってたまにそれをこぼすと、彼女は珍しく怒るものだった。彼女にとって、生きようとするその姿勢が、自分にとっても周りにとっても、大切だったのだ。


 しかし、人は変わる。彼女もあの日からだいぶ変わった。幼稚園児のようにはしゃぎまわる彼女の姿は、もうなくなった。彼女は本来の大学生らしい落ち着きを取り戻した。取り戻したと言うよりかは、そう変化したといったほうが多分正しいんだろう。けれどもたまに見せる駄々や寂しげな顔は今もなお健在で、彼女ほど強い女性がどうしてと思うこともあった。しかし、人には耐えきれないものがあるんだと思うことにした。


 「こんにちはー! 藍原くん」彼女は気づけば僕を名字で呼ぶようになっていた。僕はまだ「君」と呼ぶことしかできなかった。「水葉」と呼んでやれれば、どれだけ彼女が喜んでくれるかは、見当がついていたのにだ。

 「相変わらず君は元気だ」僕はいつもと同じようなセリフを言った。

 「雨にも似つかず、君だけは太陽みたいだ」とにかく彼女を上機嫌にさせる、それだけが僕の役目だといつからかそう思っていた。

 「ありがとう」そう言って、彼女は少し寂しげな顔をした。いつもなら、笑ってそういうか、あるいは僕の揚げ足を取るというのに。窓の外を眺める彼女の哀愁漂う顔が見えた。それはどことなく抱いた不安を、助長させた。けれどもそれは、次に言った彼女の言葉で、杞憂から現実に変わった。


 彼女は窓の外の暗い庭園を背景に、

 「宣告された」手短に、そう言った。不安は、爆発していた。けれども僕は、何とも言うことができなかった。ただ呆然と――こうも簡単に変わってしまうのか、それだけだった。

 「膵臓に転移したんだ」膵臓、転移したら完治はもう難しいと言われている内臓。それが示す事実は、多分たったの一つだった。

 「明日から、もうここにはこれない。専門的な治療をするんだ」僕はどこか覚悟していた。


 「そっか」僕はそれ以上に何も言うことができなかった。その三文字も、酷く弱々しく、震えていた。この期に及ぶ「転移」なんて、もう悲しいことじゃなかった。だが僕は、多分、泣いていた。視界が歪んだ。歪んだ先に、彼女の寂しそうな顔が見えた。なぜ悲しいのか――もうわかり切っていたんだと思う。だから、なのかもしれない。最後の日になるであろう今日に、僕が身を顧みずに決意したのは。


 「行こう」僕は重い体を引きずりながら、彼女の片腕を掴んで、引っ張った。目指すは、病院の外だった。彼女は抵抗せずに、僕に引っ張られるがままについてきた。幸い、病院内は雨のせいか人は少なかった。誰にも多分、気づかれなかった。


 ――雨の中、暗闇に包まれる都心。それは僕らの心を表しているものだったと思う。病院の広い敷地を抜けると、僕らはどこかへともなく走った。走ったと言うよりかは、速度的には歩いたに近かっただろう。

 服はビシャビシャに濡れて、それらは僕らの体を徹底的に冷やした。それでも僕らは走った。体はむしろ暑がり、悲鳴を上げ始めていた。けれども。


 ――見れなかったものを見るために、できなかったことをするために、僕らは生きる。

 それがたとえ、一つの規則を破ったり、多くの人に迷惑をかける展開になっても。僕らは、


 気づけば新宿まで来ていた。といっても、三百メートルほどしか移動していない。だが、僕らからした三百メートルは、 三百キロメートルと等しかった。

 僕らは迷った子羊のように、久々な新宿の街を歩いた。下から見た街の景色。電光掲示板や山手線、行き交う車たち。何より、活発に生きる若い人々の声。そんなハイテクな都市を包む何もかもに、僕らは魅了されていた。そこに言葉はなかった。代わりに、砂糖のように甘い時間、それだけがあった。


 雨の中、僕らは山手線の高架下でやっと雨に濡れなくなった。僕らの体は冷えていて、たまに通る列車の放つ熱で、なんとか温まろうとしていた。だが、それは不可能だった。 思えば必然的なことだったのかもしれない、その後僕らがした行動は。僕らは、 気づけば眼の前に温もりを感じていたのだ。


 雨の街での抱擁。思えば、彼女とこんなにも密接に触れ合ったのは、これが初めてのことだった。冷たく濡れた患者服越しに、彼女の温もりを感じていた。その時僕は思わず「好きだ」と言った。彼女も言った「私も」と。周囲の目線など、気にしなかった。僕らがしたいことをする、これから生きられた分を今使い果たしても良い。もはやここで死んでも良いと思うくらいに。 僕がここまで生きた理由、多分それは、眼の前にいる女性のためだったんだとその温もりの中で気付いた。

 「好きだ」甘い言葉以外に、このロマンティックな情景に似合うものはなかった。僕らはずっと抱き合っていた。互いの体温を、互いの温もりを求めて。


 充分に温まりきった頃、僕は手を離した。本当は話したくなかったけれど、もうじきで病院の職員が来る、そう思ったからだ。新宿駅前の時計はもう、午後六時を指していたのだ。寒く風が吹き荒れたけれど、お互いの温もりのお陰で、僕らはきっと大丈夫だった。 もう会えなくなってしまうかもしれない。少なくとも、明日から彼女と会うことはできない。ここまできて、恥ずかしがる必要はなかった。僕は眼の前の、「初恋」の女性に向かって、言葉を紡ぎ出した。


 「君があの日話しかけてくれたから、僕は今日まで生きられたんだと思う」彼女は静かに、頷きながら聞いてくれた。

 「僕は心底、自分の人生に絶望していた。けれどもこの三ヶ月間、君が僕に話してくれたから――」僕は改めて彼女を見つめた。

 「楽しかったんだ、幸せだったんだ、辛くなかったんだ」彼女はその時、はっと、目を上げた。

 「こんなことを言ったら、君に呆れられるかもしれない。僕が期待する反応をしないかもしれない。でも、君はあの時、今を生きなければならないって言ってくれたから、僕は言うよ」僕は息を吸い、近くに病院の車が見えることにも気を留めずに、雨の都心の中で言った。彼女はその言葉を聞くと、静かにうなずいてくれた。

 「水葉。君は、僕の初恋の人だ」

 それから、僕らはまた互いに抱いて、そしてそっと口づけした。言葉は、いらなかった。それだけが、あまりにも重要だった。

 「まるで、砂糖みたいだね」彼女は小声で、そう言った。その時の僕に、その意味は分からなかった。けれども、それでも良かった。眼の前にいる女性と過ごしている今、この瞬間を、噛み締められたのなら。


 すぐ、病院の車は訪れた。車内で、僕らが言葉を交わすことも、何かすることもなかった。言うなら彼女は、我慢していた咳を何度も、強く、カラカラした音を立ててしていた。病院の職員は、不機嫌そうな顔を存分に呈していた。ほんの少しの罪悪感が湧いたが、これで良かったんだ、そう思った。

 病院に着いて、僕がエレベーターホールに向かっていき最後、後ろを振り返ると、もう彼女の姿は見えなかった。けれども、僕はどこかで充足感を感じていた。雨の満ちた都心の中でも、彼女の温もりと、彼女の言葉と、彼女の返事とが、僕の中でこだましていたからだ。

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