第二章 逢瀬

 気持ちの良い朝だった。空はどこまでも快晴で、冬らしいグラデーションがかった色合いだった。街には時折落ち葉や鳥たちが飛んでいき、風情のある景色であった。


 いつも通り、午前七時にまずい朝食が来て、午前九時に定期検診であの医者が来て、午前十一時にはまずい昼食が来た。基本的に食って寝る。けれども全く太らない。肉体はずしんとどこか重くなるばかりだけれど何も変わることはない。

 この日は昼食を食べたあとに腹痛が訪れ、トイレで吐いた。吐瀉物が便器の水に勢いよく当たってそれが跳ね返った。喉の奥の方でしみるような痛みと苦しみがあった。胃の奥の方から何か嫌な風味と血の匂いがした。とても味わいたくないものだった。もうこんな思いが最後まで続くのなら、いっそのこと死なせてくれ、本気でそう思った。


 だけれど、午後一時の約束が会ったから、重い体を引きずり起こして、また点滴のつかみに頼って、僕はエレベーターホールへと向かった。

 昨日に比べるとまた少しおぼつかなさが増していた。けれども、誰彼何も言わない。所詮自分など患者のうちの一人に過ぎないのだから。

 エレベーターの急降下は、今日の自分にとっては辛すぎるものだった。胃が少し持ち上げられ、慣性の法則か何かで最後には地面に叩きつけられた気分になった。また吐きそうになって、でも耐えて、胃の辺りが苦しく自分に押しかかる。そんなところだった。


 ようやくの、やっとの思いで一階につくと、昨日の図書コーナーとは少しズレたあたりにあるカフェに、彼女が見えた。カフェ、といっても全国チェーン展開されているそんな特別感のあるものではないのだけれど。しかし、こちらに笑顔で手を振る彼女を見ていると、来てよかったな、あるいは来てくれてありがたいなという感情がそこはかとなく湧いた。

 やはり遠巻きに見た彼女は小さく見えた。それは患者服のせいかもしれないし、病気で縮んだのかもしれないし、始めからそうだったのかもしれない。けれどもそんなことはどうでも良かった。小さくても、彼女が放つ雰囲気と言い表情は、いつも、といえど見ている間は大きく感じたからだ。


 「おーい、こっちこっち!」とそれから彼女は馬鹿みたいに大きく手を降って、馬鹿みたいな大声を出した。周りの視線が、瞬間的にこちらに集まった。勘弁してほしいなと思いつつ、僕はカフェの中に入り席に座った。

 「君、常識ってのを知ってるのかい? あんなことされたら、恥ずかしくて溜まったものじゃないよ」開口一番、僕はそう言った。

 「だって、君が手を降ってくれなかったから」彼女はまるで怒られた小学生みたいに、もじもじしながら続いて言った。

 「まあいいけど。いや良くはないけど、僕はああいうのが苦手なんだ。だから本当に勘弁してほしい」

 「まあ、君そういうの苦手そうだもんね〜」とそれから彼女はまた笑顔を貼り付けながら、僕を嘲った。

 「そうだ、僕はああいうの苦手なんだ。だから勘弁してほしい」僕はその挑発に乗って、そういうふうに言った。

 「はいはーい、善処しまーす」彼女は昨日と同じく、一文節ごとに伸ばし棒をつけて言った。それから、

 「とりあえず、注文しなきゃね」と言った。一番知性を感じる発言だった。

 それから僕らは、同じホットコーヒーを注文した。というよりかは、それしか注文できなかった。僕らはもう、甘いものだったりを好きに食べられる体じゃなかったのだ。


 それらが届くまでの間、彼女はまた話し始めた。

 「君、恋ってしたことある?」意外にも、彼女はそれを少し赤めいて、けれどもあまり見せない寂し気な顔で聞いてきた。どう返答するのが吉か、分からなかったけれど、

 「恋、か。逆に僕がしたことあるように見える?」と僕は逆張って質問した。すると彼女は、

 「こんなに陰気な君が、恋なんてしたことあるわけないじゃん! そうに決まってるな〜」と馬鹿にするように言った。間違えてないのが、少し悔しかった。

 「そうさ、こんなに陰気な僕が、恋なんてしたことないに決まっている。本当に、したことないんだ」すると彼女は、

 「そっかそっか。じゃあ、今はどうなの?」と更に聞いてきた。

 「僕は生まれてから生涯独身のままだよ。もう死ぬけど」僕は言った。

 「そっか。まあそうだよね、もう死んじゃうんだもんね」彼女はまた少し寂しげな顔を見せながら言った。しかし、彼女が見せる寂しげな顔の意図が、僕にはまだよく分からなかった。僕自身、彼女はすごく強い人間だと思っていたからだ。


 急に沈黙が流れ出したからか、彼女は焦って言った。

 「君も何か、話題ないの?」言った、というよりは要求、してきた。こんな僕にそんな都合よく良い話題を出せるわけがなかった。けれども一つ、言えることがあった。

 「一つだけ、話題っていうか君に聞いてみたいことがある」僕はそう彼女の顔を見計らって言った。

 「え、私に質問!? 君もたまには私を喜ばせられるようなこと言えるんだね」彼女はいとも簡単に笑顔になった。まるでインターネット上を交差する、絵文字みたいに。

 「君に聞いてみたいことがあった。まだ出会って二日しか経っていないけれど、今のところ僕は君の笑顔ばかり見ている。僕らもう死まで秒読みの人間だ。なぜ君はそんなに笑えっていられるのさ」僕は聞いてみたいこと、気になっていたことを一息に訪ねた。すると彼女は、ほんの一瞬だけ俯いた。けれどもすぐに笑って、言うのだった。

 「怖くないよ。だって、怖がったって何も変わらないんだもん。それより私達がやるべきなのは、今この瞬間を楽しむことじゃない? 後先の事はどうにでもなるんだから」

 彼女が笑いながら言ってくれたそれは、間違っていないと思った。その上に、核心を突いていたようにも思った。確かに僕らは、後先の事を考える時期じゃないんだ。今見るべきなのは、いま流れ続けているこの一瞬なのだ。


 タイミングよく、コーヒーが到着した。苦くも香ばしい香りが、僕らの鼻腔をくすぐった。彼女はそのコーヒーの香りに、また笑顔になっていた。僕らはその後も、時間の限るまで他愛のない雑談をそのコーヒーの香りの中でした。本当に他愛もない話ばかりだった。けれども気づけばまた昨日と同じように、午後四時、少しずつ空が暗がり始めていた。

 夕陽が昨日と同じく僕の頬を照らして、

 「そろそろ、行こう」話を切り止めるようにそう言った。

 「あ、もうこんな時間かー」彼女は惜しそうに言った。

 「君といると、時間が速く流れる。退屈で死にそうだった僕にとって、やはり君の存在は大切なんだと思う」僕は小恥ずかしながらに、でも彼女の先程の言葉を思い出し、今言っておきたいことを言った。彼女はそれを聞くと、

 「私も」といつもの笑顔に似合わず、なんとも言えない複雑な表情を貼り付けて、言うのだった。


 僕は受付で料金を支払うと、彼女と別れた。彼女は料金を支払おうとしていたが、僕は病人だったとしても、一人の男として譲れなかった。それから、昨日と同じく、午後一時、ここで会う約束を取り付けられた。だが、別に良いというか、むしろ楽しみでもあった。僕はまたおぼつかない足取りで、エレベーターホールへと向かった。振り返ると、やはり彼女がいた。手を大きく振って、ひどく笑って彼女はそこに佇んでいた。僕は昨日よりも少しだけ大きく、手を振り返した。また彼女は、昨日よりも大きく、飛び跳ねては笑った。まるで幸せで、恋人ごっこみたいで、馬鹿らしかった。けれどもそれで良いと思った。僕らはまだ出会って二日だけれど、死ぬまで、きっとこうなんだろうとどこかで思ったからだ。

 彼女は元気そうに手を振っていた。しかし僕は見逃さなかった――彼女は笑いながら大きく咳き込んでいたのだった。


 エレベーターに乗って、急上昇が始まると、一方僕の体調はおかしくなった。胃はひどく気持ち悪くて、全身の倦怠感はまるで鉛の肉体かと思わせるほどに酷かった。今、どう生きるかということ以上に、今を精一杯生きられないという気持ちが芽生えてしまった。コーヒーの香りが、かすかに鼻を内側からかすめた。

 エレベータの扉が開く。窓越しに見えた夕暮れの空が見える。僕らの死期を悟らせる。

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