第10話 オフィーリア
晩餐会が終わり、宮殿へ戻ってからもオフィーリア様は物憂げだった。
肉料理で胃もたれを起こしたのか、モーガン夫人の言葉を気にされているのか分からないけれど、椅子の肘掛けにもたれたまま、開いた窓から夜の外をぼんやり眺めている。
サイドテーブルに置いた燭台の火が、暖かい色で室内を照らしている。
私は袖をまくり、オフィーリア様の足もとに跪いた。
椅子から垂れている両足から小さなパンプスを脱がせて、彼女の踵を支え、水を張った桶の上で足先からくるぶしまで洗い流す。
白い足首がとても細いので、やさしく指を這わせた。
オフィーリア様は裾を持ち上げて、じっと私の手もとを見つめている。
「オフィーリア様とロゼッタ王女は同じ年でいらっしゃいますから、立場が違えば友人になれたかもしれませんね」
雰囲気を和ませようとして、明るい声で話しかけた。
すると、オフィーリア様は「いやよ」ときっぱり答えた。
「あの子、おとなしそうに見えて、びっくりするほどプライドが高いのよ」
「そうなんですか?」
「食事が始まる前だって、自分の母親を見下すような発言をしたじゃない」
「あれはオフィーリア様を庇うためにされたことだと思いますが……」
「そうやって善良な王女を演じているだけなの。モーガン夫人よりいやな性格をしているわ」
オフィーリア様は苦い顔をして、足をぶらぶらさせた。
ロゼッタ王女は、自分の母親から位を奪ったオフィーリア様を敵視されているかと思っていたが、晩餐会ではオフィーリア様に対して親切に接してくださった。
けれど、それだけでは好意的かそうでないかは判断できない。
オフィーリア様が仰るからには、用心するに越したことはないだろう。
「リリー、私のために王族に反抗したらだめよ。私は自分のことくらい、自分で何とかできるんだから」
オフィーリア様は、私がモーガン夫人に反感を抱いたことを指摘しているのだろう。
「ですが、オフィーリア様はずっと黙っていらしたでしょう」
「あんなの一々真に受けていたら身がもたないじゃない。やれやれ、と思って聞き流していただけよ」
「それにしては、お顔が暗いようです」
私は彼女の頬にかかった髪を、耳の後ろへ流した。
オフィーリア様は、はっと見開いた目の中に動揺を浮かべて、それを隠すように目を伏せた。
私がしばらく黙っていると、躊躇いがちに口を開いた。
「ロゼッタが、ヴィル・ローレンスとデビュタントに出席するって言うから」
「最近、憂鬱そうにされていた原因はそれですか?」
オフィーリア様は頷いた。
なんだ、そんなことかと私は胸を撫でおろした。
私は彼女が王妃となるプレッシャーに押しつぶされているのではないか、と懸念していた。
「何もオフィーリア様が気に病むことではありませんよ」
「だって、リリーは彼のことが好きなんでしょう?」
反射的に否定しようとしたけれど、諦めて苦笑した。
「過去のことです。叶わない恋に身を費やすほど、私は愚かではありません」
オフィーリア様は納得いかない顔で俯いている。
濡れた足をタオルで拭いて、パンプスを履かせた。
そうして私は立ち上がった。
開け放された窓からバルコニーへ出ると、横にのびた王都が遠くに見える。
オフィーリア様の寝室は宮殿の最上階にあった。
他の部屋は枝葉が垂れているせいで外の景色が遮られるけれど、寝室は朝日を取り込むことができるように木々が開けている。
私はオフィーリア様を呼び寄せて、目の前の景色を指した。
「あなたが治める国です」
オフィーリア様は点々と灯っている明かりのひとつひとつを注意深く見つめた。
「デビュタントを済ませれば、オフィーリア様はデスティントの王妃として政務に携わられます。モーガン夫人に屈してはいけません。黙っておられるのではなく、彼女の上に立ち、彼女以上に国民を愛する王妃におなりください」
今回はロゼッタ王女の発言によって事なきを得たけれど、いつまでも周りに流されているわけにはいかない。
社交界に出て、地位のある令嬢を味方につけて後ろ盾を得るまでは、私が支えなくてはならない。
ただ、奇病の原因を解明できなかったのは私の力不足だった。
あの場にいたのがロゼッタ王女とその他の使用人だけとはいえ、オフィーリア様が人前で侮辱を受けたことに変わりはない。
私はこのことについて責任を感じていた。
けれど、今は奇病についてどうすることもできない。デビュタントに向けて不備がないように準備するだけで精一杯だった。
「オフィーリア様が立派な王妃なられたら、私も安心できます」
「リリーは私のことばかり気にして。自分のことも考えなさい」
「オフィーリア様が独り立ちされたら、考えましょう」
不服そうにする彼女を向いて、私は言い聞かせた。
「社交界に出れば、様々な貴族と交流されます。その中からオフィーリア様にとって頼りになる味方を見つけるのです」
「そうしたら、リリーは私から離れるの?」
不安そうな目が私を見上げた。
「さあ、どうでしょう。先のことは断定できませんので」
オフィーリア様のお傍を離れるなんて、今は考えられない。
けれど、それは今の彼女が頼りない少女だから、支えなくてはいけないという衝動に駆られているだけで、彼女が成長すればこの気持ちも変わっていくかもしれない。
「あなたがひとりでもやっていけるようなら、私も安心して自分の幸せを探します」
「リリーの幸せって何? ヴィルと結ばれることではないの?」
「彼とは釣り合いません。相応の、他の相手を見つけます」
「他の相手って、ノアのこと?」
私はえ、と声をもらした。
オフィーリア様に、ノアについて話したことは一度もないのに。
ノアは婚約者のいない独身だ。
けれど彼は色恋沙汰に対して興味がなさそうだし、医師の孫ということで親近感を寄せていても、恋愛的な感情はなかった。
どうしてノアを知っているのか、と訊ねようとしたとき、オフィーリア様が小さなあくびをされた。
もう眠る、と呟いて部屋に戻られる。
私は窓を閉めた。
ベッドに座っているオフィーリア様の足もとに跪き、再びパンプスを脱がせる。
この小さな足に触れるたび、私は彼女を守ってやらなくてはいけないという気持ちにさせられる。
少女が、女として異国へ嫁ぎ、そこで権力による対立の的となり、孤立している。
私は同情しているのかもしれないけれど、決して哀れんでいるわけではない。あるいは、同族意識を持っているのかもしれない。
私も王宮で話せる同僚はいても、支え合える人はいなくてひとりだった。
パンプスを脱がせると、オフィーリア様は突然顔を近づけ、私の頬をやわらかい手のひらで包んだ。
私が顔を上げると、オフィーリア様はやさしく微笑む。
ふとした瞬間に、彼女はこのように途方もなくおとなびた顔をする。
絵画の中で美しく佇んでいる少女が、時々こうやって額縁から抜け出て私の前に現れる。そんな幻想を目の当たりにしたような感覚にさせられる。
「リリー、あなたが望むなら私は何にでもなるわ」
声の落ち着きようと、華奢な身体の内に湛えた聖母のような暖かさに私は茫然とした。
私がほうけているあいだに、おやすみ、と言って私の額に口づける。
やわらかい感触と温度が一点に触れて、思わずぎゅっと目を閉じた。眠る前に、額に口づけるのはオフィーリア様の習慣だった。
「コンジュアでは、こういう文化があるのですか?」
横になられたオフィーリア様は、いつもの調子に戻って「知らない」と首を横に振った。
「だけど、お母さんは私にこうしてくれたの」
「あら、それを私にしてくださるの?」
オフィーリア様はにっこり笑うだけで、何も言わなかった。
少女の扱いを受けているは私のほうなのかもしれない。
私は桶を持って燭台の火を消し、寝室の扉を静かに閉めた。
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