第6話 リスク
窓の外は、枝垂れた葉の緑が広がるばかりだ。
客間は二階にあって、地面からは程遠い。
宮殿の傍に人がいたとしても、客間の中が見えるはずはない。けれど今の私には、そこかしこに人の目があるような気がしていた。
窓とカーテンを閉めると、室内が仄暗くなる。
代わりに、燭台に火をつけてテーブルの上へ置いた。
蝋燭の火は音を立てず、ゆらゆら揺れている。
私はヴィルから目を背けて、火の先端に視線をやった。
「君は、自分の立場を自覚する必要がある」
「僕が辺境伯の跡継ぎで、先生が平民だということか?」
屋敷で何度も聞いたよ、と少しうんざりしたように肩をすくめる。
「うん、それもそうなんだけど……私が言いたいのは、ロゼッタ王女のことだよ」
「王女が婚約者だという話か」
ヴィルは察してくれた。
この問題を重要視している口ぶりではなかった。
「おそらく王女は、僕に興味はない」
「どうしてそう言えるの」
はっきり言い切るので、私は訝しんだ。
「アンリに招かれて、茶会に参加したことが何度かあるんだ。
決まって王女がいらっしゃったから、アンリが僕と王女を引き合わせるために催した茶会だったんだろう。だけど、王女のほうから僕を招いたことは一度もない。
ふたりだけで話したこともなければ、好きだと言われたこともないよ」
「君は戦場へ行く人だから、負担にならないようにされていたんじゃないかな。それに皆がみんな、君のようにストーレートに好意を示すわけではないから」
ロゼッタ王女とお会いしたことはないが、おしとやかで聡明な方だと噂で聞いている。
まだ成人を迎えていない少女であり、王女という身分から安易に異性と関わったことがないだろうと思われる。そんな方が、婚約者とはいえ男性を誘ったり、好意を直接伝えたりするような行動に出るとは考えにくい。
好意がないと判断するのは、早計だと思う。
ヴィルは椅子から立ち上がって、私の前に来た。
私は彼と顔を合わせることを余儀なくされた。
「この婚約には、政治的な意味しか持っていない。僕が好きなのは先生だけだ」
「婚約といっても、王家と名家の婚約だよ。それを反故にするのは、リスクが多い。もし、私と君が不適切な関係を結べば、モーガン夫人はこれを利用してオフィーリア様に何かしらするだろう。オフィーリア様に危険が及ぶようなことは、私は絶対にできない」
私は彼の目を見て、はっきり伝えた。
これだけは揺るぎない本心だった。
「王妃の傍仕えは普通、令嬢が務めるものだ。僕は先生に地位を与えてやれる。王妃を守るための地位だよ」
確かにローレンスの姓があれば、他の令嬢よりも上に立つことができる。
「そのために、君は王太子殿下を敵に回せる?」
アンリ殿下は彼の親友だ。
王宮から療養先の屋敷まで、馬車で二日は要するのにアンリ殿下は何度もいらっしゃってヴィルの話し相手になっていた。
傍目から見ても、気心の知れた仲であることはわかった。
「婚約を破棄すれば、ロゼッタ王女の立場を傷つける。そうすれば兄である王太子殿下は黙っておられないだろう。それだけじゃない。ローレンス家だって、位を剥奪されるかもしれない」
「そんなことはわかっている」
私だけでなく、ヴィル自身にも多大なリスクがある。
けれど彼の表情は変わらなかった。
「僕が今知りたいのは世間体ではない、先生の気持ちなんだ」
「気持ちだけでどうにかできる問題ではないんだよ」
私は子どもに言い聞かせるように、ひとつひとつの言葉を丁寧に口にした。
「恋はいずれ冷めるものだ。そうしたときに、ロゼッタ王女と結婚していればよかったと思うはず。私を選んだって、得られるものは何もないからね」
「どうして先生が僕の気持ちを勝手に推し量るんだ」
「君に、私を選んだせいで後悔してほしくないから」
「後悔なんてしない。先生を諦めるほうが、僕は後悔するだろう」
私は小さく息をついた。
「気持ちは変わっていくものだ。今はそうかもしれないけれど、先のことはわからない。貴族と平民の恋なんて、ありふれたものだよ。そして大抵は結ばれないんだ。結ばれたとしても、このさき苦労することは目に見えている。そんな道をわざわざ選ぶ必要はない」
今なら引き返せる。
彼は視野が狭くなって、目の前のことしか見えていないだけだ。
「衝動に任せて行動すれば破滅する。君のは、若気の至りなんだ」
私がそう言うと、ヴィルはふと無表情になった。
それが傷ついた青年のように見えるから、私は戸惑った。
「……こういうときに限って、先生は僕を年下扱いするんだな」
理不尽な目にあったときの煮え切らない怒りのようなものが、彼の目に浮かんだ。
私はたしなめるように声のトーンを落とした。
「君のまっすぐなところは美点ではあるけれど、今は欠点だ。あんまりまっすぐだと折れてしまうよ」
やさしく諭したつもりだけれど、ヴィルは納得いかない様子だった。
私はひそかに溜め息をついた。
私の不安を、彼は理解していない。私がオフィーリア様と同じように、どれだけヴィルを大切に思っているのか分かっていない。
「君のことは好きだよ。だけど、すべてを手放してまで君と一緒にいる勇気は、私にはない」
言おうか、言うまいか頭では迷っていたけれど、言わずにはいられなかった。
私がこれを言えば、引き返せなくなる予感がしていた。
それでもヴィルを傷つけるよりはいいと思った。
オフィーリア様を失うことは怖いけれど、こんなふうに彼を傷つけて疎遠になるのも怖かった。
「……先生が好きでいてくれるなら、今はそれでいいんだ」
ヴィルは目を伏せて、喜びとも悲しみともつかない微笑みを浮かべた。
私がヴィルの好意を受け入れたら、罪という沼に両足を突っ込むことになる。かと言って強く突き放すこともできないから、無関心を装っているしかない。
「とにかく、要件でもない限り手紙は控えてほしい。花を贈るなんて以ての外だ。あまり私に近づかないで。でないと、ロゼッタ王女に気づかれたら、どうなるか分からない」
私はヴィルの顔を見ないまま、客室の扉を開いて帰るよう促した。
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