根本達行の回顧

 朝、目を覚ますと、すぐ隣に妻がいる。枕元の小窓から差してくる陽光が、カーテンの薄い生地に濾されて柔らかくぼやけ、彼女の頬の上に陽だまりを作っている。その姿をぼんやり眺めていると、やがて彼女もまだわずかに眠気の残るまぶたをゆっくり開き、そっと目を細めて「おはよう」とつぶやいた。

 そんなふうにして毎朝のように妻——喜美子きみこさんと微笑みを交わすたび、幸せな暮らしをしている、と思う。二人で手分けして朝食を作り、今日の天気のことや何かを喋りつつそれを食べ、食器を洗って、そうしてそれぞれのことに移る。平日なら、ぼくは勤務先である近所の小さな会社へ向かい、喜美子さんは足りない食材や日用品を買いに出かけたり洗濯をしたりして過ごす。そして休日なら、喜美子さんが趣味の水彩画を描く横で、ぼくは愛用している釣り竿の手入れをする。昼には軽くサンドイッチなどをつまんで、天気がよければその後で散歩に出ることもある。途中で喫茶店に立ち寄ったり、映画館に入って面白そうな映画を観てみたり、そうやって日が暮れていく。帰宅するとまた二人で夕食の準備をして、今日あったことを振り返り笑いながら食べて、後片づけをして風呂を沸かす。ゆったりと湯船に浸かってからは、居間のソファーに並んで座り、寝る時刻になるまで適当なテレビ番組を見たりする。眠るときには一緒に寝室へ行き、ベッドに入って「おやすみ」と言い合い、それから静かに目を閉じる。

 そういった生活を送る中、半月に一度ほどの割合でぼくは夜釣りに出かける。たいていは日曜日の夜、夕食の後だ。これは結婚する前からの習慣で、ぼくと喜美子さんが出会ったきっかけでもあった。

 五、六年前のことだ。九月上旬、残暑もまだ厳しいある日の夜、ぼくは道具一式を担いで海へと向かっていた。家の裏手の浜辺には、やや傾斜のある道を十数メートルも歩けば着く。それほどよく釣れる場所でもないためか、他に人がいることはめったにない。

 しかしその日は違った。ひとりの女性が砂浜を歩いていたのだ。遠目にも異様とわかる雰囲気をした彼女は、ふらつきながら、しかし一直線に海へ向かって進んでいこうとしていた。直感的に察した。あの人は死んでしまうつもりだ。駆け寄っていき、待ってください、と声をかけると、彼女はちらりとぼくのほうに目をやったが、すぐに顔をそむけた。歩みを止めるそぶりもない。できる限り力を入れないようにしてその肩を掴み、もう一度大きめの声で「待ってください」と言ったとき、ふとどこかで鳥の鳴く鋭い音がして、辺りがしんと静まり返った。その瞬間、二人の視線が確かに噛み合った。彼女は呆然として砂の上に座り込んだ。その膝のすぐそばにまで波が打ち寄せてきていた。

 彼女は上井かみい喜美子と名乗った。それ以外のことはほとんど話してくれようとはしなかったけれど、なんとなく、帰りたい場所がないのだろうということはわかった。それだからぼくは彼女と一緒に暮らそうと決めたのだった。喜美子さんのほうがどう考えていたのかは知らないけれど、彼女がぼくの元を去ろうとしないことが答えだと思っていいのかもしれなかった。

 それからしばらく経った頃、喜美子さんの妹だという人物がぼくのところを訪れてきた。彼女は喜美子さんに席を外させ、居間のテーブルを挟んでぼくと向かい合うと、睨むようにぼくの顔を見据えてこう尋ねた。姉はあなたにすべてを話しましたか。

 いいえ、とぼくは答えた。ぼくは喜美子さんのほとんどを知りません、しかし、それで構わないと思っています、と。彼女は険しい表情のまま「これから先も姉と暮らすつもりですか」とさらに訊いてきた。

「結婚したいと思っています。喜美子さんも同じように思ってくれています」

 すぐにそう答えたぼくを見て、彼女はようやく頬をゆるめ、浅く頷いた。

「聞いていたとおりの人で安心しました。あなたとなら、姉は幸せになれるかもしれませんね」

 しかしそこで言い淀むように息をつき、わずかに表情を歪める。

「けれど、あなたがもし子供をほしいと思うなら……ほんのちょっとでもそう思うなら、姉とは——」

 痛みをこらえるような顔だった。ぼくは首を横に振ってその言葉を遮った。彼女は少しだけ目をみはって、それから微笑んでみせた。喜美子さんの笑った顔とよく似ていた。そうやってぼくは喜美子さんとの生活を手に入れたのだった。

 そして今日も、二人で夕食の片づけを終えた後、明日は鯵の煮つけがいいな、などという言葉に見送られてぼくは夜釣りに出た。十月も半ばを過ぎれば外気は冷たく、夜風が鼻先をかすめていくから、そのたびに上着の襟元を合わせて首をすくめた。

 ふと足を止めたのは、砂浜にぽつんと佇んでいる人物が見えたからだった。背格好を見るに、どうやらぼくと同じくらいの歳の男性だ。頭によぎったのはあの夜の喜美子さんの姿だった。なんとなく嫌な予感がした。ぼくはおそるおそる彼のところへ近づいていき、声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 それを聞くなり彼は勢いよく振り向き、驚いたことにぼくの名を呼んだ。誰だろう、とその顔を見つめ、そして思い出した。和弘くんだ。高校卒業と共にこの町を出ていった古い友人のひとりだ。どことなくくたびれた雰囲気を纏ってはいるものの、歳のわりには若々しい顔立ちで、かつての面影を濃く残している。久しぶりだね、と笑いかけると、彼も表情を明るくしたようだった。

「なに、釣り?」

 ぼくの背負っている荷物を見て、和弘くんはそう尋ねてきた。うん、と頷き、荷を下ろして準備を始める。

「この辺、釣れるんだね。知らなかった」

「いや、釣れないよ、あんまり」

 和弘くんは不思議そうな顔をした。ぼくは「あんまり釣れないから、たまに釣れたとき嬉しいんだよ」とつけ加える。

「へえ、そういうもんなんだ」

「そうだよ」

 喋りながら釣針の先に餌をつけて波間へ投げ込んだ。水面に波紋が生まれる。

「なにが釣れるの、今の時期は」

「太刀魚、黒鯛。穴子もかな。あと鱸とかは今ぐらいが一番おいしいの。でも今日はね、鯵が釣れたらいいなと思って」

 鯵、と和弘くんはつぶやいた。そうそう、頼まれちゃったから、とぼくは言う。喜美子さんのかわいらしいおねだりを思い出し、自然と笑みがこぼれる。

「ああ……家族に?」

「うん。妻に」

 和弘くんは、釣竿を握るぼくの手元をちらりと見て「結婚してるんだ」と言った。

「してるよ。和弘くんもでしょ」

「まあね。子供も、いるよ」

 低い声でそう言って和弘くんは口をつぐんだ。少しだけ驚いた。そんなふうには見えなかった。年齢から考えれば当たり前ではあるのだけれど、彼の姿や醸す空気は子を持つ親のものではないような気がした。この時間にひとりきりでこんな場所にいることも不思議だった。有り体にいえば、彼はどうにも不安定な少年のように見えた。でも、だからこそ、子供のいないぼくの家のことを何も訊かないでくれているのだろうかと考えると、それは嬉しいことであるのかもしれなかった。

 しばらくの間、ぼくらは黙って揺れる浮の鮮やかさを眺めていた。

「あのさあ、達行——」

 海面がやや大きく波打った。何かを話し出そうとした和弘くんの言葉は、同時に訪れた引きによって遮られた。かかった、とぼくが声をあげると、彼も身を乗り出す。ぼくは素早く、しかし慎重に糸を巻き上げた。

 しかし、水面から姿を現したそのを目にして、ぼくらは思わず顔を見合わせた。針の先に、古ぼけて歪んだテニスボールが引っかかっている。餌はなくなっていた。言葉にならないため息のような声がどちらからともなくこぼれ、すぐに波の音と混ざった。針にぶら下がって頼りなく揺れていたそのボールは、取り外そうと手を伸ばすより早く地面に落ち、砂まみれになってぼくらの足元へと転がってくる。ぼくは餌をつけ直しながら和弘くんに尋ねた。

「それで、なんの話だったっけ。」

 和弘くんはしばし考えを巡らせるように視線を動かしていたが、やがて首を振って答えた。

「忘れたよ。……」

 どこまでも広がっているようにさえ思える海の上空で、月はそっと輝いている。ぼくはなんとなく和弘くんに笑ってみせて、それからまた釣り糸を垂らした。和弘くんもかすかに笑い返してくれた。

 その後は二人とも海を見つめてばかりいた。魚の気配などない静かな青色を、飽きもせず、ずっと見ていた。

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夜釣よ今夜も有難う クニシマ @yt66

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