夜釣よ今夜も有難う

クニシマ

甘粕和弘の懐古

 ときおり思い出す風景がある。

 夏だった。そして、若かった。僕も、彼も。僕の腕はうっすら日に焼けていて、彼もそうだった。地面に転がったテニスボールを拾い、軽く中空に投げ上げたあの指の長さ、しなやかさをよく覚えている。

 僕らが生まれた海辺の小さな町は子供が少なく、同級生の顔ぶれは幼稚園から高校までほとんど変わらない。僕と彼もその例に漏れず、ごく幼い頃から共に育ってきた。といっても、ずっと一緒にいた大の親友などではまったくない。もちろん顔を合わせれば親しく話したし、ときには二人で遊ぶことだってあったが、それだけだ。僕と彼は、それだけの友人だった。

 けれど、少なくとも僕にとってはその限りでなかったのだと、今頃になってそう思う。

 高校二年生の七月——その年、僕と彼は同じクラスにいて、関わり合う機会も多かったのだけれども、あるとき二人で授業をさぼったことがあった。

 その日は朝から外へ出てテニスをやる時間割で、体育がさほど好きでなかった僕らはラケットさえ持たず校庭の端の木陰に座り込んでいたのだった。そうしてどうでもいい話をしていたのだと思う。午後の授業で行われる小テストのことや、もうじき始まる夏休みのことなどを。

 ふと、同級生の誰かがあらぬ方向に打ったのだろうボールが僕らの足元へ転がってきた。しばらく経っても拾いにくる者はいなくて、そのうち彼が立ち上がってそれに手を伸ばした。僕はしゃがんだままでその姿を見ていた。ボールを持った彼はにっこり笑って、それで、どんな会話があったのだか忘れてしまったが、海へでも行こうということになったのだった。

 僕らは校庭を抜け出した。誰にも気づかれなかった。海までは走れば二、三分、ゆっくり歩いても五分ほどだ。僕は体操着のポケットに手を突っ込んでいて、彼はときどき手元のボールを投げ上げては掴み取っていた。きっとあのとき僕らはこの世で一番自由だった。

 砂浜に人影はなく、僕らは二人きりだった。和弘かずひろくん、と不意に呼びかけられて彼のほうを向けば、きれいに放物線を描いてボールが飛んできた。あわてて受け止めて投げ返すと彼は快活な笑みを見せた。それからしばらくそうやって遊んだ。

 何度目かに僕の手へボールが渡ったときだった。僕は気まぐれを起こし、それを思いきり海へ向かって放り投げた。あっ、と驚いた声が聞こえた。水面を叩いたボールは波紋ばかり残してすぐに沈んでいった。あっけにとられたような表情の彼に近寄っていくと、彼は僕の顔とボールの消えた波間とを交互に見て、そして声をあげて笑った。空はどこまでも澄んでいて、その色を映し込んだ海もよく煌めいていた。

 それから二十年以上が経つけれど、僕はあのときほど輝いていた時間を知らない。

 高校を出たあと、僕は都会の大学へ進み、そのまま地元へは帰らずに就職したのだった。そして今からちょうど十年前に当時の後輩と結婚した。子供もひとりできた。実結みゆという名前の、今年で六歳になる女の子だ。あたたかな家庭を築けているとは思う。幸せな思い出だっていくつもある。

 それでも、彼と過ごしたあの夏のひとときほど素晴らしい瞬間は訪れない。妻と知り合ったときも、結婚したときも、実結が産まれたときだってそうだ。どんなときでも僕の心によぎっていたのは自分があの夏の少年でなくなっていくことへの恐怖だった。結局のところ僕はいつだってあの日に帰りたかったのだろう。彼と並んで海を見ていた自分であり続けたくて、その他の何も僕には必要でなかったのだ。

 昨日の夜のことだ。肌寒くなってきたからと毛布を出し、実結を寝かせたあと、妻がふとなんでもないことのように言った。実結も来年はもう小学校だね。

 事実それはなんでもないことなのだ。時間というのはそういうふうに過ぎていくものだ。わかっている。わかっているけれど、そのとき僕にはなぜだかそれがひどく耐えがたいことであるように思われたのだった。

 今朝、僕は早くに起きた。日曜の朝だから、妻も実結もまだ眠っていた。適当な鞄に財布と、少し迷ってから電源を切った携帯電話を入れて、二人が目を覚まさないようそっと家を出た。どうしてもあの海に帰りたかった。

 いくつか電車を乗り継いで、すっかり太陽も高くなった頃、僕は十数年ぶりに生まれ育った町の地面を踏んだ。町並みにはそれほど変化もなかったが、すべてがあの頃よりずっと褪せていて、足を進めるたびわずかに苦しい気がした。僕は歩いた。海へ向かってただ歩いていった。一歩一歩海へと近づくほどに、僕はもはやあの日の自分ではないのだということだけが鮮明になっていくらしかった。

 浜辺には冷たい風が吹いていた。薄い雲がゆっくりと空を流れている。気分はずっと平坦で、ひどく落ち着いていた。妻子を置き去りに出てきたことさえどうとも思ってはいなかった。家族をないがしろにしたいわけでは決してないのだ。僕は二人を大事に思っている。それは確かなことだ。けれども、彼が僕の横にいたあの時間が家族三人で暮らす現在の日々の何より美しいのもまた事実だった。

 僕は日が暮れるまで打ち寄せる波を眺めていた。ここから少しも動きたくなかった。この場所以外のどこにもいたくなかった。家族のところへ戻る気はしなかったし、戻るべきではないとさえ思った。きっと僕は家庭を持つべき男ではなかったのだと、こんなところへまで来てようやく気がついたようだった。そうだ、僕は妻も子も作るべきではなかった。都会へすら行くべきではなかった。ただ、あのとき、彼にずっとこのままいたいとだけ伝えて、拒まれたなら静かにここでひとり生きていけばよかったのだ。何も望まず、穏やかに、いつか老いて死んでいくまで。

 辺りがすっかり暗くなっても、僕は海を見つめて立ち尽くしていた。その姿が何やら思い詰めているようにでも見えたのか、ふと後ろから声をかけられた。

「大丈夫ですか?」

 僕がすぐさま振り向いたのはそれに驚いたからではなかった。その声の主が誰であるのか、考えるよりも早く理解していたからだった。僕は叫ぶように彼の名を口にしていた。

達行たつゆき。」

 彼は少しの間びっくりしたように固まっていたが、やがて懐かしげに微笑んで言った。

「和弘くん。久しぶりだね」

 目尻にはかすかな皴が浮かび、口元と顎には髭を生やして、釣具を背負ったその姿。僕と同じだけ年を取っていて、しかし、それでいて、あの日一緒に体育をさぼった彼そのままだった。まるで何も変わっていなかった。そのことがたまらなく幸せだった。彼もあのときのことを覚えているか尋ねて、そうして思い出話でもしてみようと思った。

 ひとつ風が吹いた。顔にかかった髪を何気なく払った彼の左手の薬指に、銀色の指輪がそっと輝いていた。それから彼はまた僕の顔を見て微笑を浮かべた。あの頃と同じ、優しい笑顔だった。

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