第9話 検査官
卑弥呼にとってそれは初めて見る表情だった。
顔色を真っ青にして唇までもが血の気を失って青ざめている。額から流れ落ちる汗にしっかりと引き攣った口元、そして見開かれた眼が見ているものに対して驚愕していることは明らかであった。
「仁科、何か知ってるの?」
「あ、ああ…」
歯切れの悪い言葉のみが漏れ聞こえてくる。
ネットの中で取り押さえられながらも体を激しく捻り、そして生きるためにも大切な羽すらもクシャクシャにしながら暴れている妖精、妖精用の手錠と自殺防止用の猿轡を噛まして声こそ上げていないが、その真っ赤な目からは悪意の眼差しが向けられていることは確かだ。
「仁科、言いなさいよ」
「いや…」
いつもならそう言ってしまえば軽口のように返してきてくれる仁科だったが、捉えられた妖精を見つめ表情を変えることなく未だ固まっている。
「そいつを知ってるってことは、仁科さんは生き残りってことか…。まぁ、2人の手前、言いにくいわな」
吉原課長がそう言いながら席から立ち上がると、右手でポンと仁科の肩を叩く、それはまるで労うかのような優しいものであることに卑弥呼は気づいた。
「課長、何か知ってるんですか?」
あずさの尋ねる声に深く頷いた吉原課長は一息しっかりと吸い直してから重たそうに口を開いた。
「あずさや卑弥呼さんみたいな妖精しか今は居ないがな、過去には違う個体も居たんだ」
「違う個体?」
そう聞いた2人は不思議そうに頭を捻った。
「ああ、新型ウイルスの話は知ってるだろ、
2人が悲痛な顔をして頷く、妖精達にとっては悲哀の歴史に等しい。
「培養容器…、いや、今は妖精子宮というんだったな。あの当時の言葉を使って話すから2人には酷かもしれんが、まぁ、我慢して聞いてくれ。培養容器でワクチン用の妖精を緊急増産するように政府から指示が出てな、各県に1工場をと大慌てで生産設備が整えられて運用されたんだ。だが、製造現場で大問題が発生した。それが原因で大量の自殺者を出すことになっちまったんだが、その原因が…」
「妖精の瞳」
吉原課長の話に割って入るかのように、固まっていた仁科がポツリとそう言った。
「妖精の瞳?」
2人の妖精はそう聞いてすぐ捉えられたいる妖精の禍々しい赤い目に視線を向ける。
「ああ、卑弥呼とあずささんの綺麗な瞳だよ。この子の赤い瞳じゃない。なにより培養容器では遺伝操作で体を動けなくした妖精達を用いてワクチンを製造していたよ。でも、唯一、目だけは動かすことができた。現場はかなりオートメーション化されていたけれど、設備保守や薬事法に定められた医薬品製造確認で一日に何度も巡回を行うんだ。その際にね、何百と並んだ培養容器の前で立ち止まりそれを確認していく。容器内の妖精達の視線が一斉にこちらに向いてきて、もはや怨嗟の視線でできた槍で貫かれた気分だったよ。」
「待って、ねぇ、それを知ってるってことは…仁科…まさか…」
「ああ、きっと想像している通りだよ…。前職は、厚生労働省、妖精管理局、東海北陸ブロック製造プロジェクト、高山製薬工場検査官だ」
卑弥呼は目を見開いて絶句した。
相棒の前職が何をしていたかなどということを気にしたこともなかった。真逆、ワクチンや治療薬のために動けなくした妖精を利用して作り出し、使い終えた死骸を処理していた、あの聞くのも悍ましい冷酷非道な「検査官」だと思えなかった。
なにより、妖精を、そして卑弥呼自身をとても大切にしてくれる心優しい相棒の行為が人柄からではなく、贖罪のためだったなどと思ってしまうことすら嫌だ。
申し訳なさそうに、いや、悲痛な表情と視線で卑弥呼を妖精を見つめた仁科が、右手で胸のあたりを抑えてギュッと手を当てて抑えた。
「あれは詐欺みたいなもんだっただろ…」
吉原課長がそう吐き捨てるように言った。その言葉に我を取り戻した卑弥呼がその意味を訪ねるように問うた。
「詐欺ですか?」
「ああ、卑弥呼さん、それにあずさ、仁科さんの肩を持つわけではないがこれだけは聞いて欲しい。国民と国を救うためにという名目で、民間では募集せずに国家、地方の公務員に対して志願を募る通達が出た。この時点で製造にはかなりの心理的リスクがと肉体的なリスクが伴うことを上は知ってたんだろうさ。国によっては刑務所の受刑者を使ったところさえあるほどだからな。そして誰しもが志願したさ、国民生活が維持できるかどうかの瀬戸際までの崖っぷち、だから、純粋にその任務に挙って手を上げた。この署からも2名の志願者が行ったが…帰ってくることは無かった」
「帰ってくることは無かったということは…」
「そうさ、警察からの出向扱いで他県の工場へ振り分けられたが、その寮で首を吊った状態で発見されたよ。連絡を受けて大慌てで両親と共に担当所轄署に向かって遺体と対面したんだが、派遣前の凛々しい面影は全くと言っていいほど無かった。面通した両親が他人だと錯覚してしまうほどまでに…酷い姿だった。もちろん、管理局の連中にも説明を求めたが一般的な事務的回答しか返ってこなかった。警察官が言うのもなんだがすべては闇の中だ」
そう言って吉原課長は仁科へと視線を向ける。それに応えるかのように仁科が口を開いた。
「誰も話したがりませんよ。できれば墓場まで持って行きたいほど、隠し通していたいほど過去ですから…」
「仁科…でも聞くわ。検査官としてどんな仕事をしていたの…」
卑弥呼も詳しい内容までは知らない。
導入初期から安定期までの詳細な資料は、妖精管理局から妖精局へと移行した際に『誤って廃棄』されてしまっている。それは当時の職員名簿に至るまでに徹底的に厳密廃棄されていて、実質は隠ぺいに等しいだろう。
「妖精を殺す仕事だよ」
話したくないと言わんばかりに短く言葉を切った仁科に対して、それで逃げることは許さないというように卑弥呼は言葉を重ねた。
「誤魔化さないで、戯言は聞きたくないわ」
「卑弥呼らしく手厳しいね。分かった。私はね、培養から廃棄まで何でもこなしたよ」
「待ってくれ、そんなことは無いはずだろう。確か業務は分担されていたはずだ、高山製薬工場でも数多くの自殺者が出た。警察はもちろん関係者を聴取したぞ、私も聴取に立ち会ったが作業工程は厳密に分担されていると言っていたぞ」
吉原課長の言葉に仁科は首を振って否定した。
「地方厚生局直属の職員ですよ、支援や派遣とは訳が違います。本物、と言ってはなんですが、だからこそ数多くの業務を求められました。欠員すれば補充は来ず、その穴を埋めてこなすのは私達だった。狂ってしまいたくなるほどに過酷な勤務でした、実際、同期で生き残っているのは両手で数えれるくらいでしたが、例の判決後に耐えかねて…その数人も自ら命を絶ってしまいましたからね」
「じゃぁ、本物の生き残りじゃないか…」
「ええ、そうです」
絶句した吉原課長に仁科はゆっくり頷く。捉えられた妖精の暴れる音だけが、音の絶えた取調室に響く。しばらくして仁科が再び口を開いた。
「話がズレてしまったね。半年くらいで初期職員の半数を失って、各国でも製造部門で問題となり始めた頃に例の研究所が、効率の良い製造方法を再び発表してね、それを基に情報提供されて作り出されたのがその妖精だよ。私達は更に邪悪な所業へと走ったんだ。提供された情報通りに生産設備を一新し、瞳と表情、そして羽の一部が追加操作された特殊生産個体を生み出した。通称はクリーピーシリーズ、悪魔を模して造られた妖精だよ」
「悪魔の…妖精」
「ああ、この子を見れば分かるだろう、2人とは違う瞳に形状の違う羽、そして悪意を持つ表情に目、スタンダードで見る者が嫌悪感を抱けるように作られた。心理的圧迫と罪悪感を削ろうという間違った努力の結果さ。クリーピーシリーズでの製造以降は管理マニュアルも簡素化されて見廻りも軽減されて職員の自死も極端に減っていったと言う訳さ、その後は製薬会社が開発した遺伝子組み換えによる植物原料からの治療薬とワクチン製造ができるようになると、入れ替わる様に各地の妖精を使った製薬工場は閉鎖されていったよ」
飛び立った卑弥呼が俯いた仁科の前に浮き止まる、そして嘘をつかないでというかのようにしっかりと視線を合わせた。
「これだけは教えて、仁科は最後までそこに居たのね」
「最後というのは?」
「
「ああ、関わっていた。高山製薬工場から高山妖精子宮出生署になるまでね」
頷いた仁科にさらに卑弥呼は問う。
「それはどうして?」
「どうしてっていうのは?」
「閉鎖後は移動でもなんでもできたでしょ?なんでそれをしなかったの?」
「それはできないよ」
「なんでよ、普通、それほど辛いことなら…」
「いや、一度だけ思考が進退窮まってもう死んでしまおうとしたのだけど、高山の神社境内で縄をかけて括ったら木が折れて地面に落ちた。その時ね、声を聞いたんだ。辛くとも妖精達に最後まで寄り添い続けなさいとね」
「なに、神様の声とでも言いたいの?」
「どうだろう、でも、その時に覚悟が決まった、最後まで妖精と共にあろうとね」
「自己陶酔、それとも贖罪?」
「いや、そうでは…そう取られても仕方ないけれど…」
「きっと、仁科は素直にそう感じたんでしょ。ただ、考えなしではなく、純粋にそう行動してきた。貴方はそういう人だもの…哀れみの非礼を十分に知り尽くしているんだもの」
「卑弥呼は変わらないね…」
言葉を詰まらせた仁科に卑弥呼はそう言って上目遣いでジロッと睨むでもなく、何とも言えない視線を向ける。
相棒となっても時間は短いが付合いは長い、出会いの最初から仁科もそうだが、視線は常に妖精に寄り添い、時には橋渡しを、時には執行を容赦なく行う人柄だ。休日ですら頼めば一緒に出掛けてもくれる、妖精と対等にいることにまだまだ世間が冷たくても視線を気にせず、物怖じもせず、何を言われても冷静に居続ける。
それがどれほど忍耐が必要なのことであるのか、最初は分からなかった。でも、今となっては痛いほど理解できる。当たり前を、当たり前に、それを制服や勤務していなくても行える、そんな人間は数少ないだろう。可哀そうなどの同情や哀れみをこの仕事をしていれば数多く体験してきた。だが、手を差し伸べる者は少なかった。製品として扱われていた時も、今となっても変わらない。自分に関わり合いがなければ何もすることは無い。ただ、声を上げて誰かが手を差し伸べるのを待つだけだ。それが相手に対してどれほどの非礼であるのか理解することもなく…。
「そうよ、だって仁科の相棒だもの。でも、そうなると怖かったわよね、動かないはずの妖精が目の前で暴れまわっているんだもの」
「ああ、肝が冷えたよ」
飛べないはずの妖精が飛んでいる、つまり、誰かが何かをした証拠だ。そして、それは法律に抵触し、サトリの専売特許の分野である。
「仁科が見つけた登山者の事件、これで繋がった気がするわ」
悲しい目をした卑弥呼がポツリとそう呟いた。
安住の地に満る月 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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