第25話 霧の中へ

 彼の言う通り、わずかながら前方の霧が薄れたようだ。さっきよりはずっと歩きやすくなる。

「よっし。やればできるじゃないか、ザーディ」

 うっとうしい原因が少々取り除けられたので、ノーデは途端に機嫌がよくなる。現金な男だ。

 こんな人間を、連れて行っていいんだろうか。

 ザーディの心の中で、不安が大きくなってくる。

 竜の世界に人間を入れてはいけない、という規則はない。連れて来てはいけない、というのも聞いたことはない。

 だから、このままノーデやモルを連れて行っても問題はないのだろうが、ザーディの中からどうしても不安が消えない。

 何かをしようとしているのがわかっているのに、このまま連れて行っていいのか。何を考えているのか、なんて聞くことはできないが、よくないことをしようとしているのは感じる。

 そもそも、何のためにザーディを捕まえようとしていたのか、本当の理由がザーディには今もってわからないままだ。

 手の平を返して、送ってやる、と言い出した理由も。

 だが、もし本当によこしまな行為をしようとするつもりなら。

 彼らは、ザーディの両親に会うまでは何もしないだろう。そうでなければ、とっくにしているはず。

 ノーデ達が動くとするなら、両親に会ってからだ。

 それなら、強大な魔法力のある両親のことだ、どうにかしてくれるはず。

 こうなったら、両親の前まで連れて行くしかないだろう。だけど、あまり早く行きたくない気がする。

 どうせなら、ここらであきらめてほしい。彼らが引き返してくれれば、どんなにほっとするか。

 だが、この二人の異様な程の竜に対する執着では、まずありえないだろう。

 もうこの辺りまで来れば、ザーディには両親のいる方向が何となくわかる。右へ行けば最短距離だ。わずかでも早く、両親に会える。

 そうとわかっていて、ザーディはわざと左を向いた。

「母様……こっちにいそうな気がする」

 会えない訳ではない。でも、かなり遠回りになってしまうコースだ。

 それでも。

 ザーディは、そちらを選んだ。そちらへ行った方がいいような気がして。

 左へ行けば、まだ事態は悪い方へ向かない気がする。少なくとも、事態が悪くなるのが遅くなるような気がした。

 ザーディの知らないうちに、竜の本能が予知しているのだろうか。

 これは、ザーディにとって、生まれて初めての反抗とも言うべき行為だった。

 ノーデはそんなことは知らない。

 この先はいわゆるザーディの領域。たとえどんなに霧が深くても、ザーディはちゃんと行くべき方向へ進んでいる、とまるで疑っていない。

 この竜の子が親のいる所へ早く行きたい、と願っているのは、ノーデも十分知っている。そのザーディが、わざわざ遠回りをするなんて考えてもみなかった。

「そうか。じゃ、こっちへ行かないとな」

 ノーデはあっさりザーディの言葉を信用し、左に進路をとる。

 この道は違う、とバラしてしまう誰かがいない、という安心もあり、ザーディは今までと同じように進んで行けた。

 ほくほく顔のノーデ。モルもニタニタしている。今にもスキップしそうだ。

 ザーディを間にはさみ、横一列になって進んで行く。まるで逃げられないよう、監視するみたいに。

 大事な金づるが、最後の最後に逃げてしまわないように。

 これはぼくの勝手な希望かも知れないけど……またルーラに会えるような気がする。ずぅっとルーラに会いたいって思ってたから、そんな気がするだけかも知れないけど。

 ザーディは自分の頭に浮かんだ内容が予知とは知らず、強い思い込みのせいだと思っていた。

 それでも、そうは思っていても、祈らずにはいられなかった。

 ルーラ、ここへ来て。霧を抜けて、竜の世界へ来て!

☆☆☆

「霧が……深くなってきたな」

 ザーディ達から遅れること、数時間。

 ルーラ達も、竜の世界を囲む霧の中へ足を踏み入れていた。

 ルーラ達はもちろん知らないが、ザーディが遠回りをしてくれたおかげで、ずいぶんとその距離が縮んできている。

 時間の感覚があいまいなので、今が昼か夕方か定かでない。目の前には白い霧が立ち込めているものの、真っ暗ではないからまだ夜ではなさそうだ。

 でも、進みにくいのは変わらない。いや、むしろこれまでより歩きにくい。

 木が少なくなったのはいいとしても、前方がはっきりしないから暗闇を歩くのと一緒だ。ほとんど手さぐり状態。白い闇の中にいる気分である。

「あのチビ……本当に竜だったのかな」

「どうして?」

「あいつがいるだろう方向に、こんな霧が出てるからだよ。竜の世界の周りは、霧に覆われてるんだろ?」

 その程度なら、レクトも聞いた記憶がある。

「やーね、考えすぎ。たまたまよ。今までだって、朝もやが出てたりしてたじゃない」

「そんな程度じゃないぜ、この霧は」

 三歩離れたら、お互いの姿が消えてしまいそうだ。必然的に、二人は並んで歩いている。

「だから、偶然よ。こんな森の中だもん。霧が出たっておかしくないわよ」

 ルーラはいまだに、ザーディ=竜の図式を信じていない。

 そして、今ルーラが言ったように、偶然で霧が出たと言われれば、レクトも納得せざるをえなかった。

 彼もザーディが竜、というのは半信半疑なのだ。金に目がくらんだノーデの思い込みだろう、というのも否定できないから。

「ねぇ、ザーディが来た時も、この霧が出てたと思う? それなら、向こうの速度も落ちて、少しでも早く追い付けるかも知れないわ」

「こっちもその分、速度は落ちてると思うけど」

 レクトが的確な突っ込みを入れた。

「もう……希望を壊さないでよね」

 ぷーっと頬をふくらませて、ルーラは抗議した。文句を言おうと、レクトの方を向きながら。

「あ、あれ?」

 レクトの姿が消えた。この霧の中では、少し離れたただけでもわからなくなってしまう。

 ルーラは立ち止まって、レクトの名を呼んだ。

「レクト? どこにいるの」

 霧に紛れ、彼の姿がわからない。でも、すぐに返事があった。

「ああ、ここにいる」

 その声で、ルーラはほっとした。こんな所ではぐれたら、ちょっとやそっとじゃ見付からない。

 返事が聞こえてすぐにレクトの影が見え、本人が姿を現した。

「驚いた。ここではぐれたら、一生霧の中よ。……どうしたの?」

「え、何が?」

「顔色、悪いわ」

 少し青ざめているみたいだ。今になって、進むのが恐くなった、という訳ではないだろう。

「顔が悪い、と言われなくてよかった」

 ルーラの心配を取り除こうとしているのか、レクトが笑いながら冗談めかす。

「ちょっと、そんなこと言ってる時じゃないでしょ。どこか具合が悪いんじゃないの?」

 太陽の下で、という訳にはいかないが、一応色の識別くらいはできる明るさがある。

 その中で見えるレクトの顔色は、おせじにもいいとは言えない。霧で空気はヒンヤリしているのに、額にわずかながらも汗が浮いている。

「もしかして、熱があるんじゃないの? 昨日、濡れたし」

 ルーラはごく自然にレクトの左手をつかみ、彼の額に触れようとした。

 村で子ども達にする時と同じように、ルーラにとっては自然な動作。

 だが、手を掴んだ途端に、レクトが顔をしかめた。明らかに苦痛の表情だ。

 一瞬、どうしたのかと思ったルーラだったが、すぐに思い当たる。

「腕の傷ね? 痛むの?」

 モルに突き落とされ、斜面を転がり落ちた時についたという傷。この顔色を見れば、声にこそ出してはいないが、かなり前から悪化しているのだ。

 さっき姿が消えてしまったのも、痛みで思わず立ち止まってしまったのだろう。

 キャルの薬をつけたから、ほぼ大丈夫だろうと安心していた。

 もちろん、後でちゃんとした処理をしなくてはいけないが、応急処置としてはあれでよかったはずなのだ。

「さっきの休憩までは、こんな傷なんか忘れてたんだがな」

 顔に出してしまったせいか、レクトは正直にうなずいた。

 さっきの休憩。

 例の件について、話し合った時だ。あとは休まず進んできた。それからの行程で、傷にさわるようなものや出来事など、何もなかったはずだ。

 ずっと無理をしていた? いや、それならノーデに木に縛られた時点から、痛んでいそうなものだ。かなりぐるぐる巻きにされていたから、縄が傷にも触れていただろう。

 でも、それは休憩する前の話。この悪化は、急すぎる。

「もしかして……この霧のせい、かしら」

 思い付いたことを、口に出してみた。

 自分でも変だと思う。でも、それ以外に考えられなかった。疲れが出たから、ではないだろう。変化した状況と言えば、この霧だけだ。

「まさか。霧が傷に噛み付くのか? 聞いたことがないぞ」

「ここは普通の森じゃないもの。傷を悪化させることだって、ないとは言えないわ」

 とにかく困った。顔色を見る限り、レクトはかなり具合が悪そうだ。

 だが、彼をここに置いては行けない。あまりにも危険すぎる。何が起こるかわからない森の中で、普通の人間を置き去りにはできない。

 しかし、引き返すこともできない。ザーディや、最悪だと彼の両親だって殺されるかも知れないのだ。絶対に助けなければ。

 かと言って、このまま進むのも困難だ。レクトは無理してでも歩こうとするだろうが、この様子ではそう長くは続かない。続いたとしても、明らかに速度は落ちる。

「この霧、ノーデの仕業かな」

「違うと思う。あの人にこんな魔法は使えないと思うし、こんなに広い範囲に魔法を及ぼすのは、人間の力ではちょっとやそっとじゃ無理。だから、これはこの森の魔法なんだわ」

 どうすればいいのだろう。進退きわまる、というのはこんな状況を言うのだろうか。進むことも退くこともできない。でもここで立ち止まっていては、何も解決しないのだ。

「ルーラ、もういいよ。俺に構うな。お前だけ行って、ザーディを助けてやれ」

 そう言うレクトは、呼吸も少し苦しそうだ。こうしている間にも、悪化しているのだろうか。

「行ける訳ないでしょ。ケガ人を放っておいて、それじゃあねって、あたしがひとりで行くとでも思った?」

「わかってんだろ。俺はもう、そんなに長くは保た……」

「縁起の悪いセリフは言わないのっ!」

 ルーラはレクトの言葉をひったくった。

「腕の傷一つで死ぬなんて、レクトはそれでもいいの? あたしは冗談じゃないわよ。腕が一本取れたって、絶対に進むんだから」

「ルーラの方が、縁起の悪い言葉をはっきり言ってるぞ。……だから、お前一人で行けって」

「いや。死ぬかも知れない、なんて言う人を置いて行く程、あたしは非情な人間じゃないわ」

「じゃあ、どうするってんだ」

「今考えてるのよ」

 進みたい。置いて行きたくない。戻りたくない。

 どうすれば、あたしの力でこの三つをうまくクリアできる? 霧がない所まで戻れば、レクトもどうにか助かるだろうけど。この霧さえ邪魔しなきゃ、問題ないのに。この霧さえ……。

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