第12話 失敗した魔法

 言うが早いか、ルーラは駆け出した。もちろん、ザーディを連れて。

「追えっ」

 後ろでノーデの声がし、落ち葉や枝を踏みながら追って来る足音が聞こえた。

「ザーディ、がんばって」

 ルーラは走りながら、呪文を唱えた。追っ手をくらます呪文だ。

 自分達が逃げてる所以外にも足音や姿を出し、どれが本物かわからないようにして相手をまいてしまう……はずだった。

 ふと、振り返ると、逃げて来た方向になぜかりんごが点々と落ちている。

 赤い点がつけられたみたいだ。これでは逆に、こっちです、と教えているようなもの。

 ルーラは慌ててそのリンゴを消したが、もう遅い。追っ手はかなり近くまで来ている。

 ルーラの逃げ足が速いとしても、どうしたって大人と子どもだ。そう簡単に逃げ切れるものじゃない。

 とにかく走る。空を飛んで逃げたいのだが、ルーラは棒状の物がないと、自分だけでは飛べないのだ。

 森の中なら、太い枝くらいいくらでもありそうなのに、走りながら探しても肝心な時に見付からない。

 走っていると、急に目の前が開ける。そこには、湖が広がっていた。

 森の中に、湖があるんだ……。

 かなり大きな湖だ。その向こうに幅広の川が流れているのが見える。この湖を源として流れているようだ。

 どこへ行くにしろ、この湖を渡るなりして越えて行くか、周りに沿って歩いて行くしかない。つまり、逃げ道は後ろの森の中か前に広がる湖しかないのだ。

「んもう……こっちだって遠慮はしないからねっ」

 自分を守る魔法なら、ちゃんと許可をもらっている。

 ルーラは呪文を唱えた。すると静かな湖面がざわざわと波立ち、やがてその中心が盛り上がると、まるで水の魔物か何かが出て来るように水柱が立った。

 水柱はモルとレクト、その後ろを必死について来ているノーデが森の中から出て来ようとしたところを、津波となって襲いかかる。

 水の勢いで、三人はまた森の方へと押し戻された。

「ふんだ、しつこい男って大っ嫌い」

 水に流された勢いで木に当たってケガをしたりしても、ルーラは気にかけるつもりなどなかった。

 向こうが力づくでこようとしたのだから、こっちだって力づくだ。

「きゃー」

 後ろから、子どもの声がした。ビクッとしてルーラが振り向くと、足をすべらせてしまったのか、ザーディが湖に落ちてしまっている。

 ルーラは真っ青になった。

「ザーディッ!」

 ルーラは慌てて湖面を静めるよう、呪文を唱えた。だが、うまくいかない。

 水柱が消えたまではいいが、水は静かになるどころか大きくうずを巻き出す。ザーディは、そのうずの中心に引き込まれ出した。

 みるみるうちに、その姿が水の中に飲み込まれる。

「ザーディ!」

 ルーラは迷わず、水に飛び込む。

 泳ぐ必要はなかった。すぐにルーラ自身もうずに巻き込まれ、中心へと向かいつつあったのだ。

 すぐそこに、ザーディの姿が見え隠れする。ルーラは手を伸ばして掴まえようとした。でもあと少し、というところで届かない。

 水の中で無理に呪文を唱え、魔法はどうにか効果を発揮してザーディをこちらへ引き寄せられた。

 引き寄せたのはいいが、どんどん身体が沈んでゆく。深くまで沈むと、耳がキーンとなった。

 早く……早く上に行かなきゃ。息が続かなくなる……。

 小脇にザーディの身体を抱え、とにかく足を動かす。

 もがいているうちに、ルーラは身体が流されていることに気付いた。さっきまでの、うずに引き込まれるような流され方ではない。

 川……に流されてるんだ。さっき見えた、あの大きな川に。

 あのうずからは離れたらしく、流れはゆるやかになっている。その流れに身をまかせながら、ルーラはようやく浮上した。

 どうにか水面に顔を出し、酸欠気味だった肺へ必死に空気を送り込む。

「ザーディ、生きてる?」

 隣りを見ると、ルーラよりずっと穏やかな表情で、ザーディは息を吸い込んでいた。

 ザーディが生きているのを見て安心し、ルーラはできる限り急いで岸辺に向かって泳ぎ出す。

 やはり川に流されていて、すでに湖は見えなくなっていた。

 思ったよりも流れは速いのだろうか。緩やかな気がしても、さっきのうずに比べれば、多少の流れは緩やかに感じるのかも知れない。

 今まであまり意識しなかったが……水音がうるさい程、耳につく。

 この川、広くて穏やかなのに、どうしてこんなに激しい水音がするの? ……ううん、もう穏やかじゃない。さっきまでは確かにゆったりしてたけど、今はひどく速くなってるわ。

 水音がさらに大きくなって、ルーラはようやくわかった。

 滝の音だ。これは滝の音なのだ。

 急がないと……。早く水から出なきゃ。

 そうは思っても、気だけが焦って身体はちっとも岸に着かない。もう少しというところでまた水に押され、川の中央へと戻される。呪文を唱えたが、全く効かない。

 フワッと身体が宙に浮いた気がした。水から放り出されたような、一瞬の無重力。

 と、思った次の瞬間には、再び水の中にいた。

 目を開けると白い泡が無数に広がり、視界は全然きかない。どちらが水面か底か、自分がどんな体勢でどうなっているか、知るすべもない。

 とにかく、滝に落ちてしまったらしい、というのはわかった……ような気がする。

 ルーラは今まで滝に落ちたことがないから、きっとこれが滝壺なんだろうと思うしかない。

 手はザーディの手をしっかり握ったままだ。離したつもりはないし、ちゃんと握っている感覚もある。少なくとも、離れ離れにはなっていない。

 ルーラは、意識が少しぼんやりしてきた。頭に酸素が回らなくなってしまったせいだろうか。

 もしくは、流されたり落ちたりしたショックが大きいせいか。

 気を失っている余裕はない、とわかっていても、実際にはどんどん遠くなってゆく。

 ダメだってば……。このままあたしが沈んだら、ザーディまで道連れにしちゃう。ダメよ、しっかり……しな……きゃ…………。

 ルーラは気を失った。

☆☆☆

 身体がやけに重い。水を吸った綿みたい。……綿になったことはないけど。ああ、目の前が真っ暗。あたし、夢を見てるのかしら。

「……ラ……ルーラ……」

 誰か呼んでる。誰? 小さな子どもの声ね。近所の子が家に来てたかしら……。

「ルーラ」

 ……誰だっけ。声に聞き覚えはあるけど、子どもはたくさん知ってるし……子ども?

 声がまた呼んで、ルーラはいやがるまぶたをこじ開け、声の主を見た。

「あ、よかった。やっと目を開けた」

 心配そうにルーラの顔を覗き込んでいたザーディの顔が、一瞬にしてほころんだ。濡れた銀色の髪が、額に張り付いている。

 それを見て、自分が川岸に寝かされていることに気付き、ルーラは何があったかを悟った。

 バネ仕掛けの人形のように、はね起きる。

「ザーディ、大丈夫だった? ケガしてない? 水飲んでない? 岩とかで切ったりしてない?」

 ザーディはううん、と首を振る。

「ルーラこそ、何ともない? 川から上がってしばらく眠ったままだったから……」

 気を失ったルーラを、ザーディがどうやってか岸へ上げてくれたのだ。

 その小さな身体で、と思うと、ルーラは胸が詰まる。自分より大きい上に、濡れてさらに重くなり、楽ではなかったはずだ。

「あたしはいいのっ。殺したって死なないから。あなたが無事でよかった……」

 ルーラはザーディを抱き締めた。温かい。ちゃんと生きてる。

 安堵あんどで身体の力が一気に抜けそうだった。意識が遠のいていこうとする時、半分以上あきらめていた。だけど、ふたりはこうして助かったのだ。

 ザーディの首筋に、ルーラの髪から落ちるしずくがポタポタと当たる。そのうち温かいものも混じりだした。

 不思議に思ったザーディが少し首を回してみると……ルーラが泣いている。

「ルーラ?」

 え、どうして? どうしてルーラが泣いてるの? ぼく、何か悪いことした?

 事情がわからず、ザーディはおろおろする。

「ごめんね……ごめんね、ザーディ。あたしの魔法が失敗したばっかりに、恐い目に遭わせて……。ごめんね。こんなのが魔法使いなんて、笑っちゃうよね。人を助けるどころか、死なせるところだったなんて。本当にごめんね。あたし、本当に魔法使い失格だわ」

 温かいしずくの当たる回数が、どんどん多くなってくる。もう温かさしか感じない。

 一応、ザーディは竜である。それも、水を自由にあやつる力を持つ水竜の子だ。

 まだ子どもで水を自由にあやつれない、とか、誰がどう見てもおぼれていると思うような泳ぎ方しかできなくても。

 ザーディは、竜なのだ。水の中で死ぬことはありえない。

 だから、今回のことで驚きはしても、死ぬかと思った、なんていう気持ちはザーディにはない。

 ルーラの身体を岸に引っ張り上げることも、必死だったために自覚はなかったが、竜本来の力を出していたザーディにとって、大した労力ではなかった。

 でも、ルーラは。

 そんなザーディの事情なんて、知るはずもないのだ。自分の魔法でザーディがうずに巻き込まれてしまい、そこから川に流され滝に落ち、命の危険にさらしてしまった。

 それが、ルーラにとっての現実。

 自分の魔法の未熟さに情けなくなるし、偉そうに送り届けてあげる、なんて言ってしまってザーディに申し訳ない。

「ルーラ……ルーラ、泣かないで。ぼく、何ともなかったよ。嘘じゃない。本当に水の中でも平気だし。ね、ルーラ、泣かないでよ」

 ザーディはルーラを抱き締めた。

 いつもはただルーラにしがみつくような格好だったのが、今はルーラが自分にやってくれるように抱き締めた。

 守れるように、慰めるように、自分の胸に相手の頭を抱えるような格好で。

 普段とは逆に、ザーディはルーラを抱き締めた。そして、ルーラはいつものザーディのように、しがみついて泣いている。

 ザーディはどきどきしていた。

 いつも元気で、自分を励ましてくれるルーラが泣いている。声を殺すようにして。

 ルーラは、自分みたいに恐くて泣いているんじゃない。悲しくて、つらくて、悔しくて泣いている。

 それがわかると。そして、ルーラが大好きだから。

 ザーディは、ルーラを抱き締める。

 この瞬間、ザーディの姿が少しだけ成長していた。

 でも、泣いているルーラは気付かない。ザーディ自身も……。

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