天使は地獄で笑うのか

翌日の早朝。

私と十愛は二人で、人気のない崖の上へ来ていた。昨夜、寝る前に十愛から「死ぬにはうってつけの場所があるんです」と聞いていた場所だ。

そこは、少し足を踏み外せば海へと真っ逆さまに落ちてしまうような、なかなかの高さのある崖で、なるほど確かに、死ぬにはうってつけなのかもしれないと、そう思った。人気のない点もポイントが高い。

まるで十愛と二人きり、世界に取り残されてしまったような、静かな場所。その静寂を破ったのは、意外にも、十愛の可愛らしい声だった。

「來海さん。本当に、いいんですか?」

十愛は私の手をぎゅっと握りながら、言う。そっと覗き込んだ十愛の瞳には不安が滲んでいた。

アイスブルーの瞳には、その綺麗な瞳が溶けてしまいそうなほどに、涙が滲んでいる。私はその涙を拭うように、十愛の目元に指を添えて、力強く、言った。

「当たり前じゃない。私にはもう後悔も、心残りも、なんにもないんだから」

だから大丈夫よ。そう言えば十愛は、やっとほっとしたように表情を緩めた。

「じゃあ、行こうか」

「はい!」

私たちは、ぎゅっと手を握り合ったまま、崖の端に向かって進んでいく。この手は死んだって離すものか、と、そんな強い意思を込めて、私はぎゅう、と縋るように十愛の小さな手を握りしめた。

目の前に見える空は、雲ひとつない快晴で、頬を撫でる風は、夏の海の爽やかな匂いを孕んでいる。

まるで、死ぬには相応しくないシチュエーションだ。だけど、それでいいのだと思った。

私たちの最期には、きっと、どんな光景よりも相応しい。

下なんて見ないまま、私は前へ前へと足を進める。錘が巻きついて重い足を、必死で前へ進めながら歩いて、歩いて、ようやく、ガクン、と身体が崖から放り出された。

下へ、下へ、まるで永遠にも思えるくらい、空中を彷徨って、そして、ざぶん、と音を立てて、私の身体は海へと沈んでいく。

心は穏やかだった。一人じゃないだけで、こんなにも心は満たされて。寂しくないだけで、少し冷たい海に放り出されたって、ちっとも寒くない。

沈んで、沈んで、沈んでいく。足に付けた錘が、私の身体を、深海へと誘っていく。

どんどん息が苦しくなって、薄れていく意識の中。最期に見たのは、穏やかに笑う、十愛の姿。

まるで天使みたいに愛らしい、だけどちゃんと人だった、私と同じ寂しさを抱えた、女の子の顔。

だけど今、この瞬間だけは、十愛のことを天使と呼んでも、許されるだろうか。

私の前で微笑む十愛は、まるで私を迎えに来た、天使のようで。

ああ、天使は地獄でだって微笑むのか、と。そんな馬鹿みたいな思考を最後に、私の意識はブツリと途切れた。


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天使は地獄で笑うのか 一澄けい @moca-snowrose

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