第九話  八十敷、とぼとぼ。

 二日目は雨が降ってしまった。


 八十敷やそしき菅笠すげがさを頭にかぶり、佐味君さみのきみの門のところで、鎌売かまめを待った。


「いらっしゃい、八十敷。

 今日もありがよひ、お疲れさま。

 でも雨の日にそぞろ歩きする趣味はないわ。

 お帰りください。」


 にべもない鎌売に、八十敷が涙目になりながら、


「屋敷にあげてくれないのか? 」


 そう言った時、若いおのこ切羽詰せっぱつまった、


「まずい、鎌売、逃げろ!」


 という声と、


「わあ〜ん、父のうらぐはし鎌売ぇ〜!」


 という野太いおのこの声が聞こえて、八十敷はぎょっとする。

 鎌売がはっ、と門から屋敷のなかを振り返り、


「今は不要です! 行きなさい! たたら濃き日をや(さよならッ)!」


 と鋭く八十敷に言うと、すぐさま屋敷のなかに駆け去っていった……。

 以前、正式に婚姻の申し込みに行って、鎌売の家族と会った時は、普通の家族に見えた。

 あの屋敷のなかでは、何が起こっているのだろう……?


「たたら濃き日をや……。」


 一人取り残された八十敷は、ぼそっと言うと、雨のなか、とぼとぼと帰路についた。






 鎌売と市歩きがしたかった。

 もしくは、鎌売の育ってきた屋敷で、鎌売ともっと語らいたかった。


「はあ……。」


 ため息がもれる。

 昨日は、楽しい時間を過ごしてもらえたと思う。

 オレはすごく楽しかった。

 鎌売とゆっくり話ができたのは、初めてだったから……。


 鎌売は本当に良いおみなだった。

 鋭く、とっつきにくい顔をしていながら、時折見せる表情が、とても愛情深く、優しい。

 美しいおみなだった。


 きっと、おのこが傷ついた時には優しく寄り添い、叱咤しったが必要な時は、頬を張り倒してくれるおみななのだ。


 ますます、鎌売が恋いしい。

 一生を寄り添っていきたい。

 早く、オレのいもと呼びたい。


 でも、まだ、オレのいもと呼んでも、きょとんとした顔をして、笑われてしまいそうだ……。ううっ。想像すると傷つく……。



 一昨日、鎌売には噂で、と言ったが、正確に言うと、早朝、広瀬さまから鉾の稽古を誘われ、その最中に言われた。


「おまえ、鎌売に頻繁ひんぱんに会いにいってるってな? 噂になってるぞ。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官に手を出すのは重罪だぞ?

 正式に婚姻を申し込んだそうだな。真剣なら、私は大目に見てやろう。だが……。昨晩、鎌売をねやに呼んだ。」


 八十敷はおおいに乱れた。あっと言う間に広瀬さまに肩を打たれた。


「うぐ……。」

「ははは。八十敷から勝てたのは、初めてだな。すごい乱れっぷりだったぞ。」


 肩を抑えた八十敷に、広瀬さまはおかしそうに笑い、


「安心しろ。話をしただけで、手は出していない。それが真実だ。……私は、もう、誰も愛せない。」


 すぐに、皮肉げで淋しい笑みを浮かべた。


 そのあと、屋敷のあちこちで、八十敷に、鎌売が広瀬さまのねやに呼ばれた、と言ってくる者がいた。

 いまや上毛野君かみつけののきみの跡継ぎとなった広瀬さまの、閨の事情は、皆の関心事。

 噂が広まるのは早い。

 そして、八十敷が、手を出したら重罪の、屋敷の女官に執心していることは、すでに口さがない者たちの噂となっている。


 女官は婚姻できないわけではない。

 しかし、上毛野君かみつけののきみの屋敷で仕えている最中の女官に、上毛野君かみつけののきみおのこ以外が手をつけるのは、重罪だ。

 鎌売へのありがよひは、手を握るしかしてないとはいえ、けっこう際疾きわどい線なのだ。


 そう、噂になるのはわかっていた。

 それでも、早く、鎌売と夫婦めおとになりたくて。


 ……広瀬さまの御手つきにいつなってもおかしくない場所に、鎌売を置いておくのが、嫌だった。

 女官を妻とするなら、もちろん、織り込み済みのこと───、それが常識ではあるが、八十敷の感情が、イヤだ、と叫ぶ。

 鎌売がオレ以外と床を共にするなんて、イヤだ、と。


 広瀬さまは、手を出していない、それが真実だ、とわざわざ教えてくれた。

 それを疑うわけではないが、鎌売に直接、問いただしたくて、居ても立ってもいられなくなってしまった。

 鎌売にいつもの調子で、額をたたかれて、ほっとした。


 ……鎌売が恋いしい。

 ……鎌売は、オレのことを、どう思っているのだろう。


「はあ……。」


 八十敷は、しのつく雨のなか、ため息をつく。

 菅笠すげがさにぱたぱたっ、と雨音が弾ける。

 予定が空いてしまった。

 大人しく、上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻り、広瀬さまの警護に戻ろう。

 もともと、無理を父上に言って、この四日間、午後からの休みをもらっているのだ。



 戻ろう。椿売つばきめ意氣瀬おきせさまをいっぺんに失い、暗い影を身にまとうようになった広瀬さまのもとへ。

 意氣瀬さまをお守りできなかった八十敷は、何があっても広瀬さまを失うわけにはいかない。










↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330664718260153

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