第三話  兄、億野麻呂

「おーい、鎌売かまめ!」


 鎌売かまめ上毛野君かみつけののきみの屋敷の簀子すのこ(廊下)を歩いていると、後ろから呑気のんきおのこの声がした。

 あたしの隣を歩いていた久君美良くくみらは、びっくりした顔で、


「誰……?」

 

 とあたしに訊いた。


「兄上よ。」


(ばか兄なの。)


 と、あたしは心のなかでつぶやいたが、何も知らない久君美良くくみらに言うのはやめた。

 丸顔の久君美良は、優しくにっこり笑って、


「そう。あっちで待ってるわ。」


 と離れてくれた。

 あたしは、くるりと振り返り、


「兄上。何?」


 とスパッと訊いた。


「か〜! 実の兄に一月ぶりに会ったっていうのに、冷たい!

 オレはこ〜んなに、鎌売かまめの顔を見れて嬉しいのに〜。」


 よよよ、と十八歳の億野麻呂おのまろは泣き真似をする。

 あたしは笑顔で、──あたしも会えて嬉しいと思っているわ、兄上。と言おうとして、


「こちたみ。(うざ)」


 と言った。あれ? 口がおかしい。


「本当鎌売! 本当、うちの同母妹いろもだよっ!」


 と億野麻呂おのまろはキーキーいきり立ち、だが、ふっと破顔した。

 兄は豪族らしい、わりと整った顔立ちをしているので、笑うと、まあまあ良いおのこである。


「元気そうだなあ! オレは、急ぎとかで、木簡もっかんを届けにきただけさ。」


 と、手にした木簡を見せるように掲げ、にっこり明るく笑った。


 兄は、務司まつりごとのつかさで務めている。

 この広大な敷地の半分、西は務司まつりごとのつかさ。東は上毛野君かみつけののきみの屋敷である。

 真ん中には仕切りがあって、務司まつりごとのつかさで働くおのこたちは、おいそれと上毛野君かみつけののきみが住まう屋敷の方には入ってこない。

 用事を言いつけられれば、別である。


 ぽん、ぽん、木簡を自分の肩にあてながら、億野麻呂おのまろは、


「どうだ、最近は?」


 と気さくに訊いてきた。


「ええ、やっと見習いが終わって、意氣瀬おきせさま付きになったばかりよ。」

「おー、意氣瀬さま付きか。ほーほー、なるほどねぇ。意氣瀬さまは跡継ぎだぜ。これで鎌売も将来あんた……。」


 ガスっ! 鋭い蹴りが億野麻呂おのまろの脛を襲った。

 恐るべき早さの鎌売の蹴りである。


「あたしは、吾妹子あぎもこにしてもらう為にここにいるんじゃないのっ。ばか兄!」

「いてッ、ひでえ。もう本当怖い。安心しろ、おまえみたいなきっついおみな、きっと意氣瀬おきせさまは素通りなさるぜ。

 おー、いて、いてえ。」


 億野麻呂おのまろは大げさに痛がり、肩をすくめ、


「まあ、意氣瀬さまの件は、好きにしろよ。だが、もし、意氣瀬さまが万一、きっつい女が好みだったら、きちんとお仕えしろよ? おまえは佐味君さみのきみおみななんだからな。」

「わかってるわよ。」


 ふん、とあたしは鼻を鳴らす。

 もし求められたら。覚悟がないわけではない。


「本当、変わんないなあ……。

 安心して良いのか、不安に思ったほうが良いのか……。

 おまえ、二十歳すぎても、婚姻相手が現れなかったら、どうするんだよ。もうちょっと、そのきっついところ、なんとかしろよ。

 でないと、いくら佐味君さみのきみでも、おまえの怖さの相手ができるおのこなんて、現れねえぞー……。」


 初めて言われたわけではないが、今のはちょっとこたえた。

 わかってる。

 自分は、きっつい性格をしてる。

 あたしは、そこらのおのこより、おのこらしいのだ。

 あたしが真正面から言葉を浴びせて、耐えられるおのこを、家族以外にあたしは知らない。


「こちたみ、こちたみっ!(うっさい、うざい!) ばか兄!」


 と右の拳を握る。


「あー、すまん、すまん、言いすぎた。久しぶりに会った同母妹いろもが可愛いすぎて、つい、いらない心配までしちまったよ。許せ。」


 億野麻呂おのまろは両手の平をあたしに見せて、殴るな、との姿勢を見せる。

 そして、にかっと笑って、


「な、な、それより、おまえと一緒にいた、あの佳人かほよきおみな、誰? すっごい美女だったんだけど!」

池田君いけだのきみの 久君美良くくみらよ。」

「ほお。……もしかして、意氣瀬さま付き?」

「そうよ。」

「じゃあ、もう……、意氣瀬さまの。」

「何度ばか兄って言わせるのよ!」

「ないの?」

「ないですーっ!」


 あたしは、べー、と舌をだした。

 そして、あ、久君美良くくみらのことを喋りすぎたかも、と思った。


 兄はこんな性格だが、佐味君さみのきみおのこである。

 久君美良は池田君いけだのきみ。家柄の釣り合いが、実によく取れている。

 だが、あたしが、──久君美良に変な気を、と言う前に、


「ありがとな〜、じゃ、女官のお務め、はげめよ。※たたらをや(良き日を)。」


 と、億野麻呂おのまろは背を向け、すたすた歩いて行ってしまった。


「兄上もお務め、頑張ってね! たたら濃き日をや。」


 と、最後くらいは、あたしは可愛い同母妹いろもを演出するのであった。


 兄は、ちょっと振り返り、明るい笑顔で左手を振ってくれた。



 




 あたしは産まれた時から、上毛野君かみつけののきみの屋敷に女官としてつかえる事が決まっていた。


 その為、読み書きやしとやかな所作、きちんと教養を身につけてきた。

 いずれ女嬬にょじゅ(女官を取り仕切る立場の女官)となれるよう、たゆまぬ努力をしてきたのである。


 家柄からいえば、女嬬にょじゅとなるのは、高望みなことではない。

 しかし、必ずなれるわけでもない。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷では、屋敷の主からご寵愛を得たおみなが、強いのだ。

 いくらあたしが名家の出でも、ご寵愛を得たおみな贔屓ひいきにする女官の方が、女嬬にょじゅとなれるのである。

 たとえ無学であろうとも……。

 




 あたしは、意氣瀬おきせさまからご寵愛を得る道を狙っているわけではない。

 求められたら、きちんと仕える。

 ……しかし、数回、物珍しさで粘絹ねやしぎぬねやに呼ばれる事があったとしても、末永く、寵愛されている自分というものを、あたしは想像ができない。


 なにせ、この性格である。

 認めたくないが、ばか兄の言う通り、意氣瀬さまがきっつい女好み、という変わった嗜好の御方でない限り、ご寵愛、はないであろう。


 それより、あたしの望む道は、女嬬にょじゅとして、登り詰めること。


 意氣瀬さまのご寵愛を得たおみなに仕えて、真心を込めてお世話をし、信頼を得て、この上毛野君かみつけののきみの屋敷で、誰も逆らえないくらいの権力を持った女嬬にょじゅになるのだ。


 おみなとしておのこびへつらい、顔色を伺いながら毎日を過ごすより、そっちの方が、あたしはよっぽど、血が燃える。


 女嬬として登り詰めれば、上毛野君かみつけののきみの主からも、佐味君さみのきみの家が、覚えめでたくなろうというもの。

 何かにつけ、佐味君に融通をきかせることだって、できるはず。

 せめてもの、母父おもちちへの、家への、恩返しである。


 


 ───鎌売かまめ。あたしの大切な娘。

 あなたは十五歳になったら、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官となるのよ。心して仕えなさい。



 自身も二十歳まで上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官であった母刀自ははとじから、おごそかな笑顔で言われた五歳のあの日。


 兄の遊び仲間のおのこたちを全員論破し、言葉だけで半泣きにさせてやった十歳のあの日。


 あたしは、己の歩く道を決めたのだ。













※たたらをや───日中の別れの挨拶。良き日を。さようなら。たたらが燃えるような濃く明るい日の光に恵まれた日でありますように。






↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330663595516566

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