第二話  つらつら椿

 川上かはのうへ


 つらつら椿つばき  つらつらに


 命死いのちしぬべく  ひわたるかも




 

 川上之かはのうへの

 列々椿つらつらつばき  都良々々尓つらつらに

 命可死いのちしぬべく  戀渡鴨こひわたるかも





 

 川の上の、群れ咲く椿のように、美しい娘よ。

 私はあまりに数多くの思いを抱え、死んでしまうほど、恋をしている。




 ※つらつらに……数多く並んで。




   *   *   *




 それから三日後。


「さあ、なぜ怖くないのか、教えてもらおう。」


 夜。


 意氣瀬おきせ椿売つばきめを、粘絹ねやしぎぬねや(練って柔らかにした絹布で作られた閨)に呼んだ。


 ここには、意氣瀬おきせ椿売つばきめしかいない。

 薄闇にジジジ、と蠟燭ろうそくが揺れる。


「怖いって、何を……?」


 椿売が首をかしげる。


「とぼけるものだな。私は気になってしょうがないのに。」


 意氣瀬は肩をすくめてみせる。


「ああ、地震なゐふりのことですか。それが訊きたくて、お呼びになったのですか?

 あたしはてっきり……。」

「もちろん、こういう事だ。」


 意氣瀬は椿売にそっと近寄り、顎に手をかけ、顔を上向かせ、時間をかけ、顔を近づけた。

 怖がらせないように、優しく口付けをした。


「……。」


 顔を離すと、娘は恥じらって、領巾ひれで口元をおおった。顔に朱が差し、美しい。


「さ(男女が素晴らしい夜を過ごす事)もしよう。話もしよう。」


 意氣瀬はほがらかに笑った。

 若い娘も、真っ赤な顔で笑った。

 微笑みをかわす。



    *   *   *



 ───地震なゐふりは怖いですよ。


 ───言ってる事が違うじゃないか。不敬だな。


 ───ふふ、もっと大きな地震なゐふりだったら、怖いです。

 でも、あれくらいの地震なゐふりなら、過ぎ去ってしまえば、せいぜい、水瓶すいびょうが倒れたぐらいですわ。

 あたしは……、地震なゐふりの前と……、なんら変わりはありません……。

 怖くない……。


 ───いろいろ、落ちてきたら、怖いじゃないか。


 ───……お、落ちてきたら、避けます。


 ───建物が倒れたら?


 ───逃げます。ん……。


 ───火事になったら?


 ───ああ……。火事は怖いです。


 ───怖いのか。


 ───ああ、あ……。


 ───火事は怖いのか?


 ───火事は怖い、です、ぅ……。


 ───ははは、正直な奴だな。気に入った。では、正直に答えろ。これはどうだ。


 ───あっ、あっ、あっ。え? 何?


 ───可愛いな。……吾妹子あぎもこにしてやろう。と呼ぶのを許す。


 ───あっ、あっ、。嬉しい。あっ、あ……!


 ───椿売。





   *   *  *



 意氣瀬おきせはすっかり椿売つばきめが気に入ってしまった。

 華やかな笑顔。

 美しい肢体。

 正直な言動。

 生きる力にあふれ、目がきらきらと輝くおみな


 溺れるように、連日、粘絹ねやしぎぬねやに呼んでしまう。


 四月二十七日に地震なゐふりがおきてから、二十日ほど、小さな地震なゐふりが絶えず続いた。

 それは、昼も、夜も。


 意氣瀬は、白い滑らかな絹のねやで、誰にも打ち明けた事のない思いを口にだす。


「本当は、怖いんだ。」

「何がです?」

地震なゐふりがさ。揺れるのが、じゃない。天の大きな怒りを感じて、恐ろしい。私の、吹いたら消えそうな、蠟燭のような命など、天の怒りで、あっと言う間に吹き飛んでしまう……。それが恐ろしい。」

「………。」

「わからない、という顔をしているな、椿売。おまえには、そうかもな。私は、生まれつき、身体が弱い。

 いつも咳をし、すぐ熱をだし、寝込む。

 わらはの頃、医者には、大人になるまでに死ぬ、と言われたよ。」

「そんな……。」

「あいにく、その医者の言う通りにはならなかった。

 私は真面目に薬湯くすりゆを飲み、大人となり、もうわらはの頃のように、すぐ寝込んだりしない。

 だが、武芸の鍛錬はできないし、咳も、普通の人より、ずっとしやすい……。」

「意氣瀬さま……。」

「きっと、私は、人より長生きはできないだろう……。」

「意氣瀬さま!!」


 椿売が抱きついてきた。

 そんな椿売を愛おしい、と思いつつ、


「心配しなくても、私には、弟がいる。弟は、私よりずっと、丈夫だ。上毛野君かみつけののきみは安泰だ。」

「そんな心配をしてるんじゃありません! あたしは、あなたを恋うているんです。人より長生きはできないだろう、なんて言わないで! 

 ずっとそばにいて、あたしを愛してください!」

「だが、私の身体は……。」

「ばか!」


 椿売が酷いなじり方をして、意氣瀬に口付けをしてきた。


「何も怖がらなくて良いのよ。あたしの胸にいるうちは。」


 椿売が、はだかの胸に意氣瀬の頭を抱き寄せた。


「おお、たしかにこれは、何も考えられなくなるな。」

「そうでしょう。今は、何も考えなくて良いのよ。」


 ず、


 と大地の底から、小さな地鳴りがする。

 また、地震なゐふりが来る。

 椿売は意氣瀬を胸にじっと抱き寄せたまま、


「怖くありません。」


 と断言した。

 二人、抱き合い、揺れは過ぎ去り、意氣瀬は、己の心の深い深いところまで、椿売が住んでいる事を自覚した。

 もう、この想いを黙っていることはできない。


母刀自ははとじ(母親)と、父上の了承を得て、おまえを必ずや宇波奈利うはなりめかけ)にしよう。」


 吾妹子あぎもこは、意氣瀬が自由に手をつけるおみな吾妹子あぎもこを作るのに、母刀自ははとじの了承は必要ない。


 宇波奈利うはなりは違う。両親の了承が必要であり。きちんと妻の一人だと周りからも、丁重に扱われる。


 そして……。


「椿売。私のいも。」

「えっ? 今、なんて?」

いも、と呼んだ。愛子夫いとこせと呼んでくれ、椿売。」

「え? だって、あなたには、毛止豆女もとつめ(正妻)が……。」

「ああ、毛止豆女もとつめ(正妻)はいる。だが、いもと呼んではいない。」


 いも

 おのこにとって、一生に一人だけのおみな


 毛止豆女もとつめか、宇波奈利うはなりか、吾妹子あぎもこか。

 もっと言ってしまえば、さした仲であるかどうかさえ、関係ない。


 おのこが、そのおみなを、生涯たった一人のおみなだと認め、いもと呼ぶか。

 そして、おみなが、そのおのこいもになる事を受け入れるかどうか。


 大事なのは、おのこおみな、お互いの気持ちだけ。


 それが、運命で結ばれた、いも愛子夫いとこせだ。


「おまえが、私のいもだ。椿売。……愛子夫いとこせと呼んでくれ。」


 いもと呼ばれたおみなが、愛子夫いとこせとそのおのこを呼ぶまで、いも愛子夫いとこせは成立しない。


 椿売は、ぼんやりとした目をしていたが、ぼろぼろぼろっ、と涙をこぼし、


「本当なのね?」

「本当だ。……早く、愛子夫いとこせと。」

愛子夫いとこせっ!」


 泣きながら、意氣瀬の心の全てを鷲掴みにしたくわが、意氣瀬の胸に飛び込んできた。


「心より、恋うている。私のいも、椿売よ。」



 意氣瀬は、愛しい娘を抱きしめながら、もう、どんな天変地異もいたずらに恐れたりしない、と思った。








↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330663542353252







    *   *   * 




 ちょっとまとめ。



 奈良時代、一夫多妻制。


 ・妻───郷の一般男性の経済力では、妻一人が普通。

 

 ・吾妹子あぎもこ───愛人。

 金持ちのおのこだけが作れた。


 ・いも───生涯において、たった一人の運命の女。

 親の承認も、結婚してる仲か、さ寝した仲かどうかさえも関係ない。

 血のつながりのあるではない。




 ✤以上は、郷のおのこも、大豪族の若さまも同じ。以下は、大豪族にだけもちいられる、妻の種別。✤



 ・毛止豆女もとつめ───正妻。家柄の良い女性を親が決めるのが普通。


 ・宇波奈利うはなり───めかけ。親の承認、要。


吾妹子あぎもこは親の承認不要、宇波奈利うはなりより下の存在。)






    

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