紅艶  〜椿売と鎌売〜

加須 千花

椿売の章

第一話  三人の新しい女官

 天平十七年四月甲寅

 是日通夜地震、三日三夜、美濃国櫓館正倉、仏寺堂塔、百姓廬舍、触処崩壊。



 ───天平てんぴょう十七年四月二十七日

 この日夜を通して地震なゐふりあり、三日三晩続く。

 美濃みののくに国衙こくがやぐら、館、正倉しょうそう仏寺ぶつじの堂、塔、百姓ひゃくせいの家、(手でちょんと)触れたところから崩壊す───




      「続日本紀しょくにほんぎ」巻十六




   *   *   *




 乙酉きのととりの年(745年、天平てんぴょう17年)


 四月  


 上野国かみつけののくに


 乳母ちおもが、女官三人を伴って、上毛野君かみつけののきみの意氣瀬おきせの部屋に入ってきた。


 妻戸つまと(出入り口)が長く開いたので、夜気やきが入り、部屋の空気が冷える。

 ───まだ四月の夜は寒い。


「こふっ、こふ……。」


 倚子に座った意氣瀬おきせ肺腑はいふが、わずかな冷気に震え、軽い咳がでる。

 もう二十一歳の大人のおのこであるのに、意氣瀬おきせは身体が弱かった。

 その事を忌まわしい、と思う。

 背が高いのでそこまで貧相には見えないはずだが、肌の色は常に青白く、身体の線もおのことしては細い。

 

「まあ、いけません。お身体を冷やしては。すぐ妻戸つまとを閉めて!」


 四十歳半ばになろうという乳母ちおもが、ふくよかな身体を揺すりながら、妻戸つまと近くに控えた女官に指示をだし、すぐに妻戸は閉じられた。


意氣瀬おきせさま。明日から、意氣瀬さま付きの女官とする者たちを連れて参りました。

 さ、挨拶なさい。」


 乳母ちおもに促され、意氣瀬おきせの前に並んだ三人の若いおみなが順番に挨拶をした。


車持君くるまもちのきみの 椿売つばきめです。お見知り置きくださいませ。」


 三人のうち、ひときわ美しいおみなが最初に、胸の前で指をあわせ、膝をかがめ、礼の姿勢をとった。

 堂々とし、優雅な所作。

 己の……おそらく容姿に自信があるのだろう。

 笑顔が華やかであった。


池田君いけだのきみの 久君美良くくみらです。お見知り置きくださいませ。」


 丸顔で、優しげな雰囲気のおみなであった。


佐味君さみのきみの 鎌売かまめです。お見知り置きくださいませ。」


 まなじりの切れ上がった、鋭い顔立ちの女であった。


「いずれも、家柄の良いおみな達、十五歳です。」


 意味ありげに、乳母ちおもが目配せしてくる。

 意氣瀬おきせは苦笑をする。


 たしかに、車持君くるまもちのきみ池田君いけだのきみ佐味君さみのきみ、どの家も、豪族であり、この、大豪族、上毛野君かみつけののきみを支えてくれている名家である。

 それぞれ、上野国かみつけののくにに先祖から根付いた地盤を持つ。


 すでに毛止豆女もとつめ(正妻)を迎えている意氣瀬おきせではあるが、さらに、この名家のおみな宇波奈利うはなりめかけ)にしろ、との乳母ちおもの目配せだった。


 一人?

 いや、三人まるごと、吾妹子あぎもこ(愛人)にしろ、と、この乳母ちおもは言いだしかねなかった。


(やれやれ……。)


 上毛野君かみつけののきみの跡取りとして、名家と姻戚を結んでおくのも、務めのうち、か……。


 毛止豆女もとつめ(正妻)とて、自分で選んだおみなではない。

 父上が、良き家柄のおみなとの縁談をまとめたにすぎない。

 毛止豆女もとつめに不満があるわけではないが……。


(この身体の弱いおのこにしがらみの多いことよ……。)


 今日、選ばなくても良いであろう。


「名は覚えた。」


 下がれ、と言おうとして、


 こう。


 夜鶴やかくが鋭く鳴いた。


 こう。こう。こう。


 たちまちに、野鳥が一斉に鳴きだした。


 ぎゃあ。こう。こう。ぎゃあ。


 外の騒がしさに、乳母ちおもが不安そうに目をしばたたかせた。


「……なんだ?」


 と意氣瀬おきせが倚子を立った時、


 ズズズ……。


 不気味な地鳴りがし、


 ごう


 大地から突き上げるような振動があり、まっすぐなはずの床がわななき、大きな地震なゐふりが襲った。


「きゃああああ!」


 優しい雰囲気の女官、久君美良くくみらが真っ青な顔で大きな悲鳴をあげたので、意氣瀬おきせは大股で駆け寄り、ぐっと久君美良くくみらを右手で抱き寄せた。左手で近くの柱を掴み、身を支える。


「落ち着け! 大丈夫だ!」

「はっ……、はっ……、意氣瀬おきせさま!」


 久君美良くくみらは恐怖で震え、悲鳴をぐっとこらえ、がばと意氣瀬おきせに抱きついてきた。


 地震なゐふりがおさまった。


 久君美良くくみらはまだ意氣瀬おきせの胸に顔を埋めたまま、肩で息をしている。


 乳母ちおもは大きなお尻ですってん、と腰を抜かし、へたり込んでいた。


 机の上の須恵器すえき水瓶すいびょうが倒れ、水が零れている。


 床にも二階棚にかいだな(低い棚)から花瓶が落ちたか、と思ったが、床には割れた破片はない。


 鋭い顔の鎌売かまめが、三つの花瓶を領巾ひれ(スカーフ)で包み、腕でしっかと抱え込んでいた。

 目があうと、ニコリともせず、


「割れたら困ります。」


 とだけ言った。


 ひときわ美しい椿売つばきめは、ただ立っていた。

 とくに慌てた様子もなく、平然としている。

 目があったら、にこっ、と華やかに笑った。


(……へえ。)


 どういうおみなか。


「もう大丈夫だ。」


 己の胸で震える久君美良くくみらの肩を叩き、離れるように促すと、久君美良が胸から顔をあげて、こちらの顔を見つめてきた。


意氣瀬おきせさま……。」


 丸い顔。うっとりした目で、頬が赤かった。

 いつまでも自分から離れようとしないので、意氣瀬は苦笑し、一歩下がった。


「意氣瀬さま、あれを!」


 ふくよかな身体を揺すりながら外に這い出していった乳母ちおもが、外から驚いた声をだした。

 皆で外に出ると、


「おお……。」


 夜空の闇を割いて、西の空が赤い。

 不気味なほどの赤黒さだ。

 何か恐ろしい天変地異が起こっているに違いない。

 思わず、背筋をぶるりと震わせる。

 と、


「こふ、こふっ!」


 咳がこみあげた。

 夜気を吸ったからだ。


(このような時にまで。忌々しい……。)


 背中をさする手があった。

 椿売つばきめだ。

 しっとりと微笑みながら、こちらを案ずるように背中をさする。

 その顔には、今しがたの地震も、この空の異様さも、まるで映っていないかのようだ……。


「恐ろしくないのか?」


 問うと、


「地震がですか?」


 大きく煌めく黒い瞳が、こちらの顔を捉えた。


 また、地鳴りがし、大地が細かくうごめいた。


「きゃ……。」


 久君美良が、たまらず、といった風にその場にしゃがみこんだ。


 鎌売かまめは器用に抱え込んだ三つの花瓶を無言で抱きしめた。


 ど、


 と先程より小さな地震なゐふりが襲い、大地が揺れ、ビシシッと木立からきしんだ音がし、夜鳥が騒ぐなか、椿売は一人、立つ。

 意氣瀬は思わず、その手を掴んだ。

 椿売は微笑みを浮かべた。

 意氣瀬も、椿売も縦に揺れる。


 すぐに地震なゐふりは鎮まり、


「そこまで怖くはありませんわ。」


 と、握られた手をそのままに、一言だけ椿売は言った。

 柔らかい手。

 華やかで、謎めいた微笑み。


 ───まさしく、紅艶こうえん(紅い鮮やかな花)のごとくわ───


 椿売の面影は、その後いつまでも意氣瀬から離れなかった。







↓手書きの挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330663499422271




    *   *   *




 ※地=なゐ、

 震り=ふり。

 地震を、やまと言葉でなゐふりと言います。

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