死生之徒《玖》



——死生之徒 《玖》



 河原にはもう、凪敷絆の姿は無かった。



 別に、河童に成り果ててしまった事を、彼女が消えたと表現した訳ではない。ただ単に、その場を去っていたというだけの事だ。

 しかし——心の臓がザラザラと、まるで砂を浴びせられている様な感覚を覚える——胸騒ぎだ。

 揺れ、流れ行く水面に円が生まれる。円、波紋はどんどんと増え——揺れは荒く、流れは加速する。

 胸騒ぎなんて、ただ俺が勝手に不安に感じているから覚える感覚だ。

 雨なんて一何時でも降るだろう——現在の季節は夏なのだから余計降りやすい。

 けれど——やはり不吉だ。

 俺は駆け出す。

 雨はどんどんとその勢いを増させ、まるで滝の様になり、俺は走りながら溺れそうになる。

 目的地は凪敷家ただ一点——他に目処も無いし、そこに向かうしかないだろう。絆の生活区域について詳しく聞いておくべきだったと、今になって後悔する。

 凪敷家のある方向から、鼓膜を痛めるスキール音、身を強ばらせる衝突音が轟く。

 どうやら、不吉な予感は予言だったらしい。


 足元のアスファルトを抉り、川の流れに逆らう鮭の如く、雨の流れに逆行する。

 雨を零す雲の所まで昇り、俺は視認する——雨に覆われた街の中で、どれだけ冷水を浴びせられようとも上がる火柱を。

 絆の自宅そのものが火に呑まれている訳ではないらしかった。だが、位置としては大して離れていないようである。

 今度は流水の流れに従い、雨粒と共に地上と衝突する——尤も、雨粒みたく形を失い、液を散らばす様な事はしない。

「河童に呑まれたか……? いや、まだ頃合いじゃねえ——となると、凪敷絆自身か」

 灯火の中にあったのはトラックだった。屋根の無い荷台の上でダンボールが山を作っている——引っ越し業者などではないらしい。

 だけれどそんな事は大した問題ではない——灯火のバックライトに照らされるソイツと比べれば。

 ソイツ——河童——凪敷絆。

 肌を爛れさせながらも、視界に映らぬ正体不明の何者かから必死に逃げ果せようとする二人の大柄な男を、彼女は追いかける。

 駆けてはいない——ゆっくりと、その身を揺らめかせながら、白衣の霊を想起させる佇まいで前進する。

「人殺をしちまったら人に戻っても人とは呼べなくなるぜ」

 逃亡者と追跡者の間に仲介者として割り込む。

 絆は言葉を返さない。瞳孔が黒目の全てを占める程開いている——どうやら気が違っているらしい。

 ならば、少しばかり気が引けるが気絶させるしかないだろう。

「返ッ——してよ!」

 絶叫——

 破裂音の様な声を放ち、絆は駆け出し、雨の中を泳ぐ様にして迫り来る。

 大きく引かれた手——そこで広げられる水かきはまるで刃の様であり、軽く触れただけでも簡単に肉を裂かれるのが見て取れる。

 俺は地蔵の様にその場から動かない。

 絆が足を止め、指と指の間の刃で俺を裂こうとするのを待つ——待ったまま、不動を貫き、



「————」



 液が、噴き出す。

 液はしつこく彼女にまとわりつき、頬を撫で下ろし、口内に微かに鉄の味を覚えさせる——血を、肉を、浴びているのだと、自覚させる。

「あ——」

 私は、凪敷絆は、気が付けば、気を確かにしてみれば——

 表情を喪失し、鮮血や肉片——眼球なんかを零す顔はめパネルの前に立っていた。それが落とした液に、物は地面を覆う透明な雨水を赤に染める。

 腰に力が入らなくなる。膝の辺りが冷たくなり、赤く染る水溜まりに尻をつく。私の手足を覆う鱗は……河童は、地面を伝う鮮血の川を喰らう様にして吸い込む。

「あ、ああ……あぁああ!」

 ようやく状況に理解が追いつく。

 私は背後のトラックを横転させた、炎上させた。

 私の暴走を止めようとした死生ノ徒を——

「殺した……」

 私を止めようとして死んだ。

 私を止めようとしたから死んだ。

 私は止められそうになったから、殺した。

 地面に膝をついたまま、死生ノ徒とは反対方向に向かい、赤ん坊の様に地を這う。

 眼球に血が薄くまとわりつき、視界が赤くフィルター掛けされている。その所為だろうか、トラックを覆っているはずの灯火が見えない。

 私は産まれたての人型の如く血にまみれる。

 雨水は、羊水の様に私の表面で膜を張る。


 嗚呼——何も変わらない。


 言葉に成らない慟哭が喉を引き裂く。

 …………産声だ。

 母を内部から痛め、挙句腹を引き裂かさせて、その肉体の欠片と共に産まれた——あの時の…………私の声だ。

 殺した者の破片をその身に纏いながら、大地を這う。

 母も、

 姉も、

 死生ノ徒も、

 私を産もうとしたから死ぬ。

 私を護ろうとしたから死ぬ。

 私を救おうとしたから死ぬ。

 私は恩を仇で返す——産まれたその時から、ずっと。

 嘔吐。

 胃の中から物という物が逆流する。

 胃液という川に流されて、羊水の中に落ち……溶けていく。消えていく——死に絶える。

 流されるべきは————私なのに。

 羊水の中で溶け、消え、死ぬべきなのも私だというのに。

 視界を覆う赤は、やがて黒くなる。

 視界はやがて——消え失せる。

 死だろうか。

 死なのだろうか。

 死であるのなら——幸いだ。

 彼女は想い、眠りにつく。

 

「傷を付けちまうのは良くねえからな。あれだ、ショック療法ってヤツ」

 気を失い、雨水の川の中で溺れ死んだみたいに動かなくなった彼女を見下ろして、俺は言う。

 俺は、死生ノ徒は死んじゃいない——基本的には不死身なのだ。

「流石に全身を粉微塵にされちまえば死ぬけどな」

 言いながら、絆を肩に担ぐ。

 天の恵みのおかげで既に鎮火したトラックに背を向けて、絆の自宅に足を運ぶ——河童といえどまだ人ではある。雨に濡れたままという訳にも行かないだろう。

「それに、理性を吹き飛ばしちまった原因を調べなくちゃだからな」

 俺は彼女の自宅の中身を、おぞましい程に完成された部屋部屋を、襖に描かれた川を……絆の、遺影を頭に浮かべて————「迷える子羊はあくまで絆、俺はそれを救う者だ——迷う事は許されない」意を決した様に、己に言い聞かせる様に言い、彼女の自宅に再び踏み入った。

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死生之徒 ハヤシカレー @hayashikare

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