死生之徒《柒》
——死生之徒 《柒》
「私の事より河童の事ですよ!」
その言葉は多分、彼女の本心であった。俺も一旦あの狂気の仏壇から距離を置きたかったので、彼女の言葉に従いその場を後にする。
「これ、なんなんですか?」
彼女は廊下を早足で進みながら、後ろの僕に手の甲を見せつけて問いかける。顔は向けてこない。
「あんたも言っていた通り河童だよ。けんどもまだ成りかけだな。天草河童だとかガラッパだとか、詳しい分類はまだ分かんねえ」
「そーじゃなくて、この現象がなんなのかを聞いてるんですよ」
「ん? それはもう言っただろ? ほら、あんたは魍魎になるんだぜってさ」
それも出会ってすぐに、なるべく印象に残りやすい様言ったはずなのだが。
「説明が少な過ぎてもっと分からなくなりますよ」
絆はわざとらしく——あざとく、腰に両手を当てて不満げに言う。
「分かりやすく説明するとしたら——」
こちらもわざとらしく、演技する風にして額に人差し指を当てる。
「人間には心があるだろ? それがぶっ壊れちまう程追い詰められると市井ノ徒——つまりゃ一般人。それじゃあなくなっちまうんだ。そーなるとそいつは人に認知されなくなる」
「私みたいに?」
そうだな、と、解説の合間に相槌を挟む。
「要するに人という概念を失うんだが、己を喪失して世界に生まれた空白——それを食われちまう」
「食われるって……何にですか?」
「噂だよ。妖怪だったり怪異だったり、悪魔だとか神様だとか、とにかく噂になってる人外共。そういうのに存在を食われ、侵食され——最期は己を略奪され意識が消える。死ぬって事だ」
「じゃあ私はその過程——死への道を辿っている最中って訳ですか」
絆は平然とした様子でその事実を口にする。自分が人外に成りつつあるというのに、死が迫っているというのにだ。
いや——だからこそなのか。
仏壇を指さした時の様子からも、彼女は己の抹消を望んでいるのかもしれない。ならばあの仏壇の作者も幼少の絆であると——
『貴方なら、私を人に戻せるんですか?』
その声は震えていた。
その瞳は揺らいでいた。
その心は——孤独に怯えていた。
それらはやはり真実なのだろう。
じゃあ今現在の彼女の言動はただ平然を装い、現実逃避をしているのだろうか。いや……そちらもまた事実なのだろう。
人とは矛盾する者だ。だから矛盾し合う分には問題無い。けれど彼女の場合はあまりにも
自らが消えている状況に怯え救いを求む。
自らが消えていく状況を当然の物とする。
対極過ぎる。人が一人で対峙している。
可能性を挙げるとすれば——精神が解離している、つまり二重人格が理由になるのだろうか? だが今の所は一つの人格しか見受けられない。人格同士が結託してその事を隠蔽しているのかもしれないが——やはり絆は絆である様にしか思えない。
「ノトさ——死生ノ徒さん? ずっと黙ってるけど……どうかしました?」
「いや——なんでもない」
いつの間にか俺は橋の下の河原に立っていた。絆の向かう先が 《川》であるという事に若干の不安を覚える。
「それにしても、精神的に追い詰められる事が要因になるのなら、何処も彼処も人外だらけになっちゃうんじゃないですか?」
「生牡蠣食ったって皆が皆当たる訳じゃねーだろ?」
「宝くじみたいなもんですか」
「ハズレくじだけどな——ところで」
俺は会話を切る。
「なんです?」
「いや……、何の前ぶりもなしに着衣泳を披露されたら流石の俺も困惑する」
絆は話しながら川に半身を浸していた。
「お腹空いたし、魚でも食べようかなって思って」
もう既に、随分と河童の噂に侵食されているらしかった。
「いやいやい、冗談ですよ……そんなワイルドな事、私はしません。ただ、ただ——」
私は————川に流されたいだけです。
彼女は呟く。
声はか細く、まるで草葉の陰から聞こえている様だつた。つまりは死人の声である。
「……少し調べたい事が出来たから、また明日な」
「そうですか。付き合わせてしまい申し訳なかったですね」
《死んでいるのに生きようとして》——それに付き合わせてしまい申し訳ない。
彼女の言葉を耳にして、その場を後にする足を止める。
「あんたは最初、助かろうとしていた——一体いつ、何故気変わりしたんだ?」
いつ、何故、死を望む様になったのか。
あれからまだ一日と経っていない。だから時の流れによる心情の変化が要因でない事は明らかである。つまり、ゲームセンターで分かれてから彼女の家で再開するまでの間に、何かがあった事になる。
自らの実在を願う心を、自らの抹消を願う心に変える何かが。
「あ————」
開かれた口から出てきたのは返事ではなく、言葉ですらなかった。それは、ただの音である。
どうやら自分で自分の変化に気付いていなかったらしい。
口を閉ざし、しばらくの沈黙の中で彼女は考える。
「私は何も、変わっちゃいませんよ。今もまだ、人間に戻りたいって思ってます」
考えて、嘘をついて——本音も零す。
おそらく、人に戻りたい心は偽りであり、同時に真実であるのだろう。
「…………そうかい」
嘘と本音を聞いて、俺は立ち去る。
これ以上の会話に意味は無いだろう。ある程度の情報を収集してからじゃないと話にならない。
凪敷絆の居ない家庭、凪敷絆の遺影、死と生を同時に求める凪敷絆——、現在判明している情報を並べてみたが、しかし分からない。
前二つだけならまだ、
「凪敷絆は何らかのキッカケにより家庭から拒絶された——又は拒絶した」
と、解釈出来よう。だが最後の一つが加わるとその両方が破綻するのだ。
死を望むなら絆が拒絶し、家族が拒絶した訳ではないのだろう。
生を望むなら家族が拒絶し、絆が拒絶した訳ではないのだろう。
しかし死と生どちらもとなると、両方が同時に肯定されながら、同時に否定されてしまう。
「だが、道筋だけはある」
それは川だ。絆の言葉からも、襖の絵からも、おそらく川が重要な要素となっている事に違いは無い。
例えば——そう。
「水難事故……とかな」
方針が決まったのなら後は調べるだけだ。昔の新聞を手に入れるのは中々に骨が折れるだろうが致し方無い。
俺が孤独を埋めてやらあ——と、俺はわざとらしく笑みを浮かべる。
凪敷絆が、未だ孤独を嘆いているのだと信じて。
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