死生之徒《柒》



——死生之徒 《柒》



「私の事より河童の事ですよ!」

 その言葉は多分、彼女の本心であった。俺も一旦あの狂気の仏壇から距離を置きたかったので、彼女の言葉に従いその場を後にする。

 ふすまを閉ざす。開いた時は動転していた為気が付かなったが、襖には赤く染まり上がる川が描かれていた。歴史的な芸術じゃない。描いたのは仏壇の造り手と同じく幼児なのだろう。それでも川には激しい情動——悲しみか、後悔か、寂寥か、何にしても心の残滓ざんしが遺されていた。

「これ、なんなんですか?」

 彼女は廊下を早足で進みながら、後ろの僕に手の甲を見せつけて問いかける。顔は向けてこない。

「あんたも言っていた通り河童だよ。けんどもまだ成りかけだな。天草河童だとかガラッパだとか、詳しい分類はまだ分かんねえ」

「そーじゃなくて、この現象がなんなのかを聞いてるんですよ」

「ん? それはもう言っただろ? ほら、あんたは魍魎になるんだぜってさ」

 それも出会ってすぐに、なるべく印象に残りやすい様言ったはずなのだが。

「説明が少な過ぎてもっと分からなくなりますよ」

 絆はわざとらしく——あざとく、腰に両手を当てて不満げに言う。

「分かりやすく説明するとしたら——」

 こちらもわざとらしく、演技する風にして額に人差し指を当てる。

「人間には心があるだろ? それがぶっ壊れちまう程追い詰められると市井ノ徒——つまりゃ一般人。それじゃあなくなっちまうんだ。そーなるとそいつは人に認知されなくなる」

「私みたいに?」

 そうだな、と、解説の合間に相槌を挟む。

「要するに人という概念を失うんだが、己を喪失して世界に生まれた空白——それを食われちまう」

「食われるって……何にですか?」

「噂だよ。妖怪だったり怪異だったり、悪魔だとか神様だとか、とにかく噂になってる人外共。そういうのに存在を食われ、侵食され——最期は己を略奪され意識が消える。死ぬって事だ」

「じゃあ私はその過程——死への道を辿っている最中って訳ですか」

 絆は平然とした様子でその事実を口にする。自分が人外に成りつつあるというのに、死が迫っているというのにだ。

 いや——だからこそなのか。

 仏壇を指さした時の様子からも、彼女は己の抹消を望んでいるのかもしれない。ならばあの仏壇の作者も幼少の絆であると——


『貴方なら、私を人に戻せるんですか?』


 その声は震えていた。

 その瞳は揺らいでいた。

 その心は——孤独に怯えていた。

 それらはやはり真実なのだろう。

 じゃあ今現在の彼女の言動はただ平然を装い、現実逃避をしているのだろうか。いや……そちらもまた事実なのだろう。

 人とは矛盾する者だ。だから矛盾し合う分には問題無い。けれど彼女の場合はあまりにもいびつである。

 自らが消えている状況に怯え救いを求む。

 自らが消えていく状況を当然の物とする。

 対極過ぎる。人が一人で対峙している。

 可能性を挙げるとすれば——精神が解離している、つまり二重人格が理由になるのだろうか? だが今の所は一つの人格しか見受けられない。人格同士が結託してその事を隠蔽しているのかもしれないが——やはり絆は絆である様にしか思えない。


「ノトさ——死生ノ徒さん? ずっと黙ってるけど……どうかしました?」

「いや——なんでもない」

 いつの間にか俺は橋の下の河原に立っていた。絆の向かう先が 《川》であるという事に若干の不安を覚える。

「それにしても、精神的に追い詰められる事が要因になるのなら、何処も彼処も人外だらけになっちゃうんじゃないですか?」

「生牡蠣食ったって皆が皆当たる訳じゃねーだろ?」

「宝くじみたいなもんですか」

「ハズレくじだけどな——ところで」

 俺は会話を切る。

「なんです?」

「いや……、何の前ぶりもなしに着衣泳を披露されたら流石の俺も困惑する」

 絆は話しながら川に半身を浸していた。

「お腹空いたし、魚でも食べようかなって思って」

 もう既に、随分と河童の噂に侵食されているらしかった。

「いやいやい、冗談ですよ……そんなワイルドな事、私はしません。ただ、ただ——」


 私は————川に流されたいだけです。


 彼女は呟く。

 声はか細く、まるで草葉の陰から聞こえている様だつた。つまりは死人の声である。

「……少し調べたい事が出来たから、また明日な」

「そうですか。付き合わせてしまい申し訳なかったですね」

 《死んでいるのに生きようとして》——それに付き合わせてしまい申し訳ない。

 彼女の言葉を耳にして、その場を後にする足を止める。

「あんたは最初、助かろうとしていた——一体いつ、何故気変わりしたんだ?」

 いつ、何故、死を望む様になったのか。

 あれからまだ一日と経っていない。だから時の流れによる心情の変化が要因でない事は明らかである。つまり、ゲームセンターで分かれてから彼女の家で再開するまでの間に、何かがあった事になる。

 自らの実在を願う心を、自らの抹消を願う心に変える何かが。

「あ————」

 開かれた口から出てきたのは返事ではなく、言葉ですらなかった。それは、ただの音である。

 どうやら自分で自分の変化に気付いていなかったらしい。

 口を閉ざし、しばらくの沈黙の中で彼女は考える。

「私は何も、変わっちゃいませんよ。今もまだ、人間に戻りたいって思ってます」

 考えて、嘘をついて——本音も零す。

 おそらく、人に戻りたい心は偽りであり、同時に真実であるのだろう。

「…………そうかい」

 嘘と本音を聞いて、俺は立ち去る。

 これ以上の会話に意味は無いだろう。ある程度の情報を収集してからじゃないと話にならない。

 凪敷絆の居ない家庭、凪敷絆の遺影、死と生を同時に求める凪敷絆——、現在判明している情報を並べてみたが、しかし分からない。

 前二つだけならまだ、

「凪敷絆は何らかのキッカケにより家庭から拒絶された——又は拒絶した」

 と、解釈出来よう。だが最後の一つが加わるとその両方が破綻するのだ。

 死を望むなら絆が拒絶し、家族が拒絶した訳ではないのだろう。

 生を望むなら家族が拒絶し、絆が拒絶した訳ではないのだろう。

 しかし死と生どちらもとなると、両方が同時に肯定されながら、同時に否定されてしまう。

「だが、道筋だけはある」

 それは川だ。絆の言葉からも、襖の絵からも、おそらく川が重要な要素となっている事に違いは無い。

 例えば——そう。

「水難事故……とかな」

 方針が決まったのなら後は調べるだけだ。昔の新聞を手に入れるのは中々に骨が折れるだろうが致し方無い。


 俺が孤独を埋めてやらあ——と、俺はわざとらしく笑みを浮かべる。


 凪敷絆が、未だ孤独を嘆いているのだと信じて。

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