第27回 そうだ、古本を買おう!③
不誠実な商いをして悪びれないHarperCollinsからはKindleも紙の新刊も一切買わないと決めました。
キャリアが長く多産なアガサ・クリスティーの著作は探偵小説だけでも76冊*あるようですが、集めてやろうじゃないか。古本で、全部。全部が無理でも、可能な限り。これなら検閲修正は入っていないであろうと思える、1980年代かそれ以前のものを。
古書界隈で、ペーパーバックの価値はそれほど高くないはず。特に、超売れっ子のアガサ・クリスティーのペーパーバック版なんて、累計でどれだけ世に出ているか。安価であるが故、簡単に捨てられる可能性が高いことも否めませんが、それでもまだ相当数がこの世に存在しているはずです。例え何十年も昔のエディションであっても。
そんな(いささか自分に都合の良い)予測を立てて、さっそく古本を扱っているサイトを物色し始めましたが……意外と高い。現在HarperCollinsから出ている新刊のペーパーバックが1500円前後なのに、古書の値段もそれと変わらないか、それを上回る価格設定だったり……その強気の根拠はなんなのか。
一つ思い出したことがありました。大昔に一度蔵書を処分しなければならなくなって、大半は泣く泣く廃棄しましたが、状態が比較的よいものは古本屋に持って行きました。ブックオフとかではなく、昔ながらの町の古本屋さんに。
店主曰く「アガサ・クリスティーはすぐに売れるから高い値を付けたけど、他はこんなに高値にならないからね」。
え?
「高値」といっても、20冊ほど持って行った中に早川のクリスティー文庫が何冊か紛れていて、総額で千円にも満たない金額でした。
事前の予想では全部合わせて百円になるかどうか、それでも本を捨てずに済むならいいやと思って持ち込んだことを思えば十分な値段ではありましたが「高値」と言われると……
それはさておき、「アガサ・クリスティーはすぐに売れるから」という古書店主の言葉。当時は、へえ~やっぱり人気なんだなあと呑気に喜んでいましたが、すぐに売れるから高値で買い取るのであれば、売る時にもそれは値段に反映されるのでは。
あのとき自分が売ったクリスティーの文庫、いったいいくらで、誰に買われたのでしょうね……
などと感慨に耽っている場合ではありません。原書の古本の値段があまり安くないというのも、欲しがる人が(洋書にしては)大勢いて強気の値段でも売れるから、なのでしょうか?
古いペーパーバックならKindle版の値段(600円前後)+送料程度で手に入るのではなんて、ちょっと甘かったかも。
さらに困ったのは、本の出版年を記載していないケースがあまりにも多いこと。一般人が気楽に物を売ることができる某有名サイトでは、書影すら売りに出している現物のものではないという出品者がいて、しかも問合せ不可だったり。無法地帯じゃないですか。
本気で売る意思があるとは思えませんね。
文句ばかり並べ立てても仕方がないので、送料込みで800円の本を、試しに購入してみました。書影の画像一枚、コンディションの説明も不十分で不親切極まりないのですが、表紙デザインに目を奪われまして。出版年が未記載でも、古いことは一目瞭然でした。
注文から数日後に届いた現物の書影です:
https://kakuyomu.jp/users/shunday_oa/news/16817330662422311945
(近況ノートより)
名作中の名作、And Then There Were None(『そして誰もいなくなった』)です。以前ちらっと、この不朽の名作ははじめ、Ten Little Niggersというタイトルで英国で出版され、翌年アメリカで出版される際にAnd Then There Were Noneに改題されたと書きました。Ten Little NiggersもAnd Then There Were Noneも、作中に登場する童謡からの引用です。Niggersは人種差別的ということで改題に至り、それに伴い作中に登場するNigger(s)はIndian(s)(アメリカの先住民のこと)に変更され、そのIndian(s)も差別的として、現在ではSoldier(s)に変更になっています。
わたしが昔読んだ「インディアン」が登場する『そして誰もいなくなった』は、おそらく、上記で古本屋に売ったハヤカワ文庫の一冊です。
このタイトル変更の経緯を念頭に、今回入手したペーパーバックの表紙のデザインをご覧いただくと、おかしなことに気付きませんか?
表紙の人物は明らかに、当時の言葉でNiggerと称された、アフリカ系黒人男性です。にもかかわらず、タイトルは、差別的表現を改めた後のAnd Then There Were Noneです。
なんでこんなに、ちぐはぐなのでしょう?
手っ取り早く調べものをするにはやはりWikipediaですね。「出版歴」の欄にこうあります(【】内が引用箇所):
【原作とその改訂版は、初版以降様々な題名で出版されており[中略]イギリスでは1980年代まで原題のタイトルで出版されており、1985年に初めてAnd Then There Were Noneのタイトルがフォンタナのペーパーバック改訂版として採用された[19]。】
この『そして誰もいなくなった』の項目、非情に興味深いのですが大変長くて、未読のひとは最初の方でネタバレに遭遇しかねないので注意が必要です。現時点でまだ未読ならば、事前情報はできる限りなしで読むことをおすすめします。
なので、本エッセイでも当然に犯人・動機・トリックなどには触れません。
えーと、Wiki情報をまとめると、英国での初出版1939年から、フォンタナのペーパーバック改訂版が発売される1985年まで、英国版のタイトルはTen Little Niggersのままだった、と。
にわかに信じられないですね。
今手元にあるのがまさしくこの「フォンタナのペーパーバック改訂版」です。ただし、1985年の初版ではなく、1988年第45刷。わずか3年で44回も増刷? すさまじい売れっぷり。
この本のCopyrightページは、こんな風です:
First published by William Collins Sons & Co. LTD
under the title Ten Little Niggers 1939
First issued in Fontana Paperbacks 1963
Forty-fifth impression January 1988
© 1939, 1940 by Agatha Christie Mallowan
ん? Fontana Paperbacksの初版は1963年なんですね。で、Wiki情報が正しいのなら、その時のタイトルはまだTen Little Niggersのままで、1985年になってようやくAnd Then There Were Noneというタイトルに改訂された。45刷(Forty-fifth impression January 1988)というのは、1963年から1988年までの期間の増刷回数なのでしょうか。それでもすごいけど。
いやしかし、英国では1985年までずっとTen Little Niggersのタイトルのままだったというのは、驚きです。たまたまアマゾン・プライムで見ていた米映画、1945年公開の『そして誰もいなくなった』の原題は既にAnd Then There Were Noneですし、映画内に登場するのはTen Little Indiansです。キング牧師の暗殺が1968年、人種差別は20世紀後半でも時にすさまじい暴力を伴い横行していたはずのアメリカですが、表面的には差別はよくないことだという風潮が社会にあったということでしょうか。
まあ、そうですよね。21世紀の日本だって、本当はだめな差別が横行していますから。本当はだめだけど大勢がやっているから実質OK、なんて差別はありませんよ、念のため。だめなものは問答無用で、だめです。
前に述べた通り、わたしは文学作品にPolitical Correctnessをあてはめて検閲修正することには反対です。でも、作者が生きている間に行われた変更であれば、それは作者自身の同意があったということでしょうから、まあ良いでしょう。しかし、このTen Little Niggersの場合は少々複雑です。
ハードカバーの初版の翌年に行われた改題、これは作者が生きていた頃の話ですが、少なくともイギリスでは、クリスティーが存命の間(1976年まで)はずっとTen Little Niggersで出版されていて、死後の1985年にペーパーバック版を先駆けとして改題されたことになります。
思うにこれが、クリスティーの死後に行われた、版権の継承者と出版社によるポリコレに配慮した検閲修正の始まりでしょうか。
あれだけ緻密なプロットで傑作を書き上げた時につけたタイトルなのだから、アガサにはTen Little Niggersから変えたくないというこだわりがあったのかも。
今自分の手元にある第45刷、1988年出版ですが、タイトルからNiggersという語が消えても、表紙はNiggerのまま。そこから察せられるように、改訂はタイトルだけに留まっていたようです。その証拠に、本編を読むと早々にNiggerという語が登場します。おそらくこれ、最初に出版されたハードカバー版Ten Little Niggersのオリジナル・テキストと同じか、限りなくそれに近いのではないでしょうか。
まずCHAPTER ONE、判事のモノローグから:
He went over in his mind all that had appeared in the papers about Nigger Island.
(1頁)
やはり、検閲修正の痕跡はありませんね。
そもそもなぜNigger Islandなんて名前が島につけられたのか:
It had got its name from its resemblance to a man’s head - a man with negroid lips.
(15頁)
設定がIndianまたはSoldierに変更された際にこのオリジナルの文はどう処理されたのでしょうね。ざっくり削除でしょうか。
さらに、こんな人種に関する言及も、当然検閲修正版では修正対象でしょう:
He had said it in a casual way as though a hundred guineas was nothing to him. A hundred guineas when he was literally down to his last square meal! He had fancied, though, that the little Jew had not been deceived - that was the damnable part about Jews, you couldn't deceive them about money - they knew!
(8頁)
このようなステレオタイプのユダヤ人キャラクターの登場は、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』なんかにも既にみられるのですが、もしかしてシャイロック(借金のカタに心臓の肉を寄越せと無茶ぶりする老人)も現在ではユダヤ人ではない設定に修正されているのでしょうか。
強欲な金貸しイメージがついたのは、彼らが長年土地を所有することを禁じられ農業等で身を立てる選択肢が封じられていたとか、お金に携わる仕事を嫌がるキリスト教徒のかわりを担ってきたという歴史が背景にあるのに、それを消し去ろうとするのは、やはり曾孫と出版社による隠蔽工作だと感じます。非差別的テキストの方が、物議を醸すこともなく売り続けられるから。彼らこそが、金儲けにしか興味のない強欲な商人でしょう。
そんなものを選択の余地もなく押し付けるのは、やめていただきたい。
日本語で少なくとも2回、英語でも1回読んでいるにもかかわらず、(推定)未修正版は初めてだし、読み始めたら一気読みしてしまいました。いい買い物をしました。800円なら安いものです。
とはいえ、35年前に出版された古い本なので、多少の問題はあります。
とにかくヤケがひどくて、小口部分が食パンの耳を連想させる色になっており、古本に慣れている自分でもはじめは素手で触るのを躊躇ったぐらい。最初の方のページには黒ずみもあり、まさかこれはカb……呼吸をするたびに得体の知れない胞子を吸い込み、それが肺を侵していく様を想像し震え上がりました(普段はホラー小説を読んでいることが多いので)。値段がやけに安かった&写真一枚だけで詳しいコンディションの説明を避けていたのはこのせいでしょうか。
これに比べたら、だいたい同じ出版年(1986年)のミス・マープル伝記は、多少のヤケはあっても相当状態がいいほうだと言えます。
しかし、読んでいる間にくしゃみも咳も出なくなったので、もう大丈夫です。潔癖症じゃなくてよかった。
この調子で、根気よく訳ありの安い古書を蒐集していきたいと思います。値段は、一冊につき総額(送料等含めて)千円以内に設定します。タガが外れないようにするために、リミッターは必要不可欠です。
=====
*「探偵小説だけでも76冊」のソースは、この1988年第45刷のAnd Then There Were Noneです:
Her seventy-six detective novels and books of stories have been translated into every major language . . .
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