第26回 そうだ、古本を買おう!②

 どうせ買えないものでもカタログを眺めるのは楽しいです。隣のうなぎ屋の匂いを嗅ぎながら白米をかき込む、みたいな。

 このBlackwell's Rare Booksという古書店、ボンド・ストリートというロンドンの目抜き通りにあるんですね。高級ブランド店ばかりがずらり並ぶ通りストリートで、日本人観光客には人気かもしれませんが、貧乏留学生だった自分にはほとんど用事がなかった場所です。それでもお店のWebサイトを眺めていたら、思い出しました。


 かつて、この店の前を通過したことが、何度かあると。


 店の佇まいからして「書店」なので気になっていたのですが、見るからに高級そうで気後れしてしまったのと、当時のショーウィンドウのディスプレイから、美術関連等のお高い専門書を扱う店なのだろうと早合点したため、足を踏み入れることはありませんでした。大抵は書店と見れば大きいのでも小さいのでも、ほいほい入ってみるんですけどね。


 学生ビザで居座れるだけロンドンに居座って、いよいよ帰国するとなった時に、わたしは自分自身へのお土産を買う気力もないくらいくたびれ果てていました。身の回りの品を売りに出すなどの身辺整理や、他の人へのお土産ゲットに忙しかったので。元々ブランド品なんかには興味が薄かったので、ちょっとは欲しかったバーバリーやアクアスキュータムのコートを諦めるのは簡単でした。それでも、本だけは買いまくってやろうと思っていたのに、日本の家族から「今は、洋書はアマゾンで買えるよ。値段もそんなに高くないし」と言われてがっくり。


 あーあ、極貧の節約生活だったけど、帰国するときに安い古本を買いあさって段ボール箱一杯船便で送ってやろうと、それだけが楽しみだったのにな!


 あの時、ボンド・ストリートのアンティーク古書店に行くことを思いついていたら。高価なブランドものコートよりずっと大事にできるものが手に入ったかもしれません。高価なコートだって結局買わずじまいで、自分用の土産は、ナショナル・ポートレート・ギャラリーで購入したシェイクスピアの肖像画Tシャツぐらいでしたが。美術館グッズは大好きなので、満足しています。


 自分は、本は飾っておくものではなく読むものだと思っているし、気安く触れることがはばかられるような高価な本は、やはり宝の持ち腐れになってしまうと思います。

 わたしにとってのクリスティーは、空気や水と同様に生きていくうえで必要不可欠なものなので、高価で貴重なものになってしまっては、困るのです。大ベストセラー作家で、新刊を手に入れるのは造作もない。そうあり続けてくれなければ。


 しかしそのクリスティーが今、絶滅危惧種のような危機に晒されています。


 第19回において、アガサ・クリスティー作品への検閲修正に既に着手していてこれからさらにその対象を広げようとしていた悪の手先 HarperCollins に宛てた苦情の手紙 A Letter of Complaint をしたためました。まだこれは送付していなくて、Mirror Crack’dの初版コピーが届いた後にもう少し手を加えてから送ろうと思っています。

 手紙の最初にHarperCollins Publishers Limitedの住所を記載しましたが、実際に送るのは、さすがに21世紀ですので、Eメールです。84, Charing Cross Roadのような手紙のやりとりをちょっと味わってみたかったので。あちらの心温まるやりとりとはぜんっぜん違いますけどね。郵送・電子メールいずれの連絡先もCustomer Serviceの窓口としてHPで公開されているものです。


 手紙では、マグマのように噴出する呪詛と恨みつらみを可能な限り抑え込みながら問題点を述べ、丁寧かつ明確にこちらの要求を示すという、Letter of Complaintのお手本に倣って書いたつもりです。しかし、少々長すぎ……もう少し短くまとめたいところです。


 ロンドンの語学学校に通っていた時、ライティングのエクササイズで散々書かされたのがこの Letter of Complaint というやつで。人生においてそんなに苦情の手紙を出すことがあるのかしらんと当時は疑問に思ったものですが、これは、商品でもサービスでも、不満があるならきっちり主張をするというあちらのひとの気質の表れでしょうか。

 わたしは猛烈に腹を立てていますし、ここで苦情の一つも言ってやらねば、腹の虫がおさまりません。たとえPEN AmericaのCEOほどの影響力がない自分のような一読者からの声だって、積もり積もれば、何かが変わるかもしれません。


 手紙の中では、refundとかcompensation を要求していますが、こちらが求めているのは返金や慰謝料ではありません。未修正のアガサ・クリスティー小説を返してほしい。そう懇願しています。


 サルマン・ラシュディはMemoirの中で、実際に送りつけたりしない妄想の手紙を度々綴っています。怒りをひたすら溜め込んでいるのは大変不健康で、この種のガス抜きは理に適った行為です。

 わたしが手紙を書いたのは、追い打ちのようにわたしをさらに怒らせた出来事に対する鬱憤を晴らすためでした。何かしなければ憤死しかねない怒りだったので:


I also purchased Murder on the Orient Express in ebook edition a few years back (Amazon.co.jp tells me it was 24th Sep 2021) and already finished reading. My instinct ordered me to check this one. To my distress, it now has a cover design which I failed to recognize at first, and Copyright section of it indicated it has been updated to Version 2023-07-13.


According to the article, this version of Poirot underwent the editing such as to remove the term "Oriental" along with other racial descriptors. Appalling. You’ve taken away what had been supposed to be an unedited version when I bought it in 2021 by overwriting it quietly and you did not care to give me previous warning or ask me whether I would happily accept such change or not.


そうなんです。2021年に購入し、読了していたKindle版 Murder on the Orient Express、今年3月のINDEPENDENT紙の記事で、これから発売されるエディションでは、修正が施されると記されていた、名作『オリエント急行の殺人』の原書が、知らぬ間に検閲修正版にアップデートされていたのです。こちらにとっては、青天の霹靂、夜中に泥棒がやってきて、かけがえのないお宝をガラクタの偽物にすり替えていったようなもの。


 版権を握るクリスティーの曾孫および出版社は、アガサを含めたその時代の人々が、人種や障害者差別に無頓着だったという事実を、歴史上から消し去りたいのでしょうか。


 このくそがあああああああ! ブッ〇す!


なんてことは、間違っても苦情の手紙にしたためてはいけません。常識を欠いた無礼な人間からの脅迫めいた手紙なんて説得力がありませんし、こちらが通報されかねません。

 通報してやりたいのは、こちらの方なのに。版権を握っているからって何でも好き放題できると思うなよこの腐れ曾孫が! などというのも当然手紙からは除外です。あーあーあー腹立つぅ。


 Kindle版のアップデートに伴い、ペーパーバックも新しいカバーデザインに変わり、当然、こちらのテキストも検閲修正版になっているはずです。


 詰んだ……


 わたしは、検閲修正されたKindle版Orient Expressなんて二度と読むつもりはありません。といって、紙の本もすでに修正版にすり替えられているから新たにAmazonで注文する訳にもいかない。生きがいを奪われて、完全に人生詰みました。


 まあ、絶望の淵に立った人間でないと、なかなかあんな長文レターを英語で書きなぐったりしないですよね。わたし、かなりやばい精神状態にありました。


 わたしは怒りに震えながらPCの前に座っていました。もうこうなったら、出来ることはただ一つ。


 そうです。古本です。


 初版本のように高価なものは、わたしの財力では無理です。一冊二冊、あるいは三冊四冊ならどうにかできても、貴重な本を、貧乏根性が染みついているわたしのような人間は、気楽に読むことができない。気楽に読めない本では困るのです。初版はハードカバーだから、かさばりますし。


 だったら、安価なペーパーバックを探せばいい。悪の曾孫も出版社も含めて、まだ世の中がPolitical Correctnessにそれほど敏感ではなかった時代に発売された夥しい数の廉価版、できれば、30年か40年以上前の、ぼろっぼろで商品価値は低いけど、読むのに支障はない。そんな古本を。

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