第37話

 気づけばぼんやりしていて、自分の家へ帰ろうとしていた。しっかりしなければと思うのに、逃げ出したい気持ちが考えさせないようにしているのだろう。さっきも、このままどこかへ消えたいような気分になってしまった。

 明らかになる事実に、私は耐えられるのだろうか。

 院で固めたはずの決意が、ここに来て揺らいでいた。怖い、やめたい、確かめたくないと、そんな気持ちばかりが湧いてくる。

 辿り着いてしまった芳岡の門に、長い溜め息をつく。でも、確かめなければ。

 鍵を開けて、ただいま、とできるだけいつもどおり投げた声には反応がなかった。母はもちろん、芳岡もまだ職場だろう。でも、急がなくては。

 安堵する胸を撫でつつ、芳岡の座敷へ向かう。ようやく思い出した携帯を取り出して、時間を確かめた。四時前だから、ちょうど部活へ向かう頃だろう。選んだ位坂は、すぐに呼び出しに応えた。

「ごめんね、連絡が遅くなって」

「いや、問題ない。映像はどうだった?」

「見つけたよ。言われたところに蓮士が……それっぽい人が映ってた」

 確定していないのに、まだ言うわけにはいかない。必要なのは証拠だ。

「顔が分からない以上、特定はできないからな」

「違うの、そうじゃなくて。もしかしたら、あそこにいたのは蓮士じゃないかもしれないの」

 座敷へ走り込み、鍵を取り出す。この引き出しを開ければ、何かが分かるはずだ。

「他人だったということか?」

「まだはっきりとは言えない。でも、多分これで分かる」

 はず、と続けようとした口が背後から塞がれて、視線を上げる。芳岡は固まる私から携帯を奪い取って勝手に終話ボタンを押し、電源を切った。

「手癖が悪いな」

 芳岡は口を塞いでいた手を私の首に回し、腕で少し首を締める。小さく咳をすると、腕は力を緩めた。

「やっぱり、先生が、共犯だったんですね」

 蓮士に協力し、蓮士のふりをして院を訪れトーマスを陥れようとした。

「共犯?」

 小さく繰り返して、芳岡は卑屈げに笑う。これまでとはまるで違う、聞いたことのない声だった。

「蓮士なら、四年前からここの下に埋まってるぞ」

 さらりと返された衝撃の事実に、思わず固まる。ここの、下に。ざあ、と血の気が引くのが分かった。突然現れたこれまで考えもしなかった道に、息が荒くなっていく。恐ろしくて叫びたいのに、震えるだけで声が出ない。なぜか、涙が伝った。

「この引き出しに、何が入ってるか知りたかったんだろ?」

 いやな予感しかしない言葉に逃れようとするが、芳岡はまた腕に力を込めて私を押さえ込む。目の前で開けられた引き出しには、薄黄色のビニール手袋のような。

 ……いや、違う。

 総毛立つ感覚に藻掻いて逃げようとする私を、芳岡はあやすように笑う。なぜこんな状況で笑えるのか。腕に爪を立てたのに、芳岡は「痛いな」と笑った。

「四年前、偶然、蓮士に会ったんだよ。会った瞬間、自分のすべきことが分かった。家に呼んだその日のうちに殺して、これを作ったんだ」

 取り出されたそれから、できる限り視線を逸らす。見たくない。胃の辺りから何かがこみ上げるようで、吐き気がした。

「鹿や兎の皮はさんざん引いてきたけど、人間の皮は初めてだった。苦労したけどいい出来だ。手入れもちゃんとしてるから、四年経ってもよく手に馴染む」

「どうして、そんな」

 もう何も聞きたくないのに、壊れたどこかが勝手に聞いていた。

「いろいろあるんだよ。でも、もう警察が来るだろ。ここでドラマみたいに丁寧に明かしてたら、間に合わなくなる」

 芳岡は蓮士の手袋を引き出しに戻し、まともに動けなくなった私を連れて屋敷の奥へ急ぐ。初めて知る座敷奥の木戸を開けると、饐えたような臭いが鼻を突いた。

 薄暗い中に、地下へと下りる階段が見える。こんな場所があったのか。

「昔っから、不具な奴や狂った奴をここに住まわせてたんだよ。戸増みたいなのをな」

 裸電球が灯り、奥の方が少し見えた。座敷牢だろうか。狭い階段を軋ませながら下りるほどに、肌に触れる空気が冷たく、臭いが強くなる。

 下りきった先の大きな部屋には、時代劇で見たような格子状の牢があった。階段の灯りが、薄ぼんやりと奥へ影を伸ばしている。その向こうに、誰かがうずくまっているのが見えた。

「美璃ちゃん!」

「騒ぐな」

 思わず呼んだ私の首に腕を巻きつけ、芳岡は締め上げていく。息苦しさに腕を数度叩いたあと、突然視界が暗くなった。


 不意の感触に、ぼんやりと目を開く。薄暗い景色とともに、何かの音と鼻を突く臭いがして一気に目が覚めた。

 少し頭を起こすと、階段の途中から水を噴き出している水色のホースが見える。手前には、太い木の格子。あ、と勢いよく起こした体に再び何かが触れて、慌てて振り向く。拘束されてぐったりと横たわった美璃が、虚ろな視線を向けていた。

「待ってね、すぐ剥がすから」

 口を塞ぐように貼りつけられたテープを、焦る指で少しずつ剥がす。水の音は気になるが、今は美璃だ。

「大丈夫だよ、すぐに警察が来てくれるから」

 きっと、位坂が連絡してくれているはずだ。きっと、すぐに。

 不意の音に振り向くと、白い塊が次々に階段を滑り落ちてくるのが見えた。ドライアイスだ。階段下の辺りはもう水に浸かっているのか、白い塊はすぐに煙を立ち上らせ始める。

「絶対に助けるから。大丈夫だよ、私がついてる」

 忍び寄る煙に怯えながら、再び美璃を励ましながらテープを剥がす。三分の二ほど剥がしたところで美璃は、怖い、と掠れた声で言った。

 気づけば私達を浸し始めていた水と煙に、美璃を抱え起こす。芳岡が二酸化炭素中毒を狙っているのは間違いない。

「ごめんね、がんばって起きててね」

 美璃を壁に凭れ掛からせ、後ろへ回る。手首をひとまとめにしたガムテープは、何重にも巻きつけられていた。引きちぎるには無理のある厚みをどうにか剥いだ背後で、再びの音が鳴る。振り向くと、更にドライアイスが追加されるところだった。

 腰の辺りまで上がってきた煙を払うが、このまま座っているわけにはいかない。部屋は大きくても、二酸化炭素は確実に溜まり始めている。

「美璃ちゃん、おんぶするから私の背中に乗って。このままだと、二酸化炭素を吸い込んじゃう」

 幸い、足は拘束されていない。どうにか美璃を助け起こし、背負った。私より大きな体は重いが、そんなことは言ってられない。

「絶対に、助けるから。希絵と約束したの」

 決意を口にして、唇を噛む。もう絶対に、誰も犠牲にはしない。

「まだがんばってるのか」

 支え直しながら視線を向けた先で、階段から下りてきた芳岡は卑屈な笑みを浮かべた。

「先生の目的は、なんですか。どうして、美璃ちゃんを」

「それを言ったら面白くないだろ」

 腕組みをしつつ、私を見て目を細める。これまでも見たことのある表情なのに、今はぞわりとした。この人は、こんな人だったのだろうか。今まで私の隣で数々の料理を作り、ともに味わってきた人は。

「そうだな、まだ来ないみたいだし四年前の話でもするか」

 芳岡は思いついたように切り出し、横の壁に凭れる。

「俺は元々、希絵に興味があったんだよ。といっても、当然だけど女としてじゃない。そんな下世話な感情の湧く隙のない美しさだったからな。俗っぽく言えば、まあ、ファンだったわけだ」

 突然の呼び捨てに、鳥肌が立つ。それでも芳岡はまるで気にする様子もなく、記憶を探るように視線を上にやった。

「ただ、教師として見守りながらも、ファン心理として近づきたい欲はあってな。携帯を没収した時、SNSをしてることに気づいた。教師として問題なのは分かってたけど知りたくて、以来ずっとチェックをしてたんだ」

 言いたいことが少しずつ胸で膨らみ始めるが、万が一気分を害すようなことを言えば死が近づく。助けなければならない美璃を、これ以上危険に晒すわけにはいかない。ずり落ちそうな美璃を背負い直し、背中の角度を少し深くする。二酸化炭素は近づくが、仕方ない。でもあと、どれくらい持つだろう。

「最初はそれで良かったけど、やっぱり欲が出た。そのうち、教師と生徒としてでなく、友人同士として付き合えないかと思うようになった。六年になって学年も離れたせいもあったんだろう。志緒の立ち位置が、死ぬほど羨ましかったよ」

 突然出現した自分に驚く。希絵と仲良くしたい女子達から向けられる羨望の眼差しには気づいていたが、芳岡のものにはさすがに気づけなかった。当時そんな視線を向けられていたのかと考えるだけで、胃の辺りが気持ち悪い。

「そんな時、偶然、道を歩いてる蓮士を見つけた。その瞬間、頭に希絵を独り占めできる方法が浮かんだんだ。すぐに近づいて声を掛けたら、蓮士は躊躇なく車に乗ってきた。俺を信頼してて、中学になってからも会えば相談に乗ってたからな。家出してきたって聞いた時、神も俺の味方をしていると思ったよ。そのまま家へ連れて帰って、玄関で絞め殺した」

 相変わらず事もなげに、なんのためらいもなく殺害を口にして私をうかがう。まるで、少しずつ弱っていく様子を確かめているようだった。警察が来るのが先か、二酸化炭素で私が死ぬのが先か、心が折れて崩れ落ちて死ぬのが先か。三番目を、待っているのかもしれない。

「SNSで小六女子を装うのは苦労したよ。希絵が俺とのやりとりを志緒に見せるのは分かってたからな。志緒は成績も良かったけど、それ以上に洞察力がずば抜けてた。本気で疑って探り始めたら、ごまかしきれる自信がなかった。実際、今回だって警察より早くこうして追い詰められたわけだしな。どこで気づいた?」

「……捜査情報を流してないのに希絵の殺害理由を『握手して欲しかった』と言ったこと、あのリストバンドを『お揃い』と言ったこと、決定打は防犯カメラの映像で見た左手を軽く振る仕草です」

 美璃を背負っているせいか、近づく二酸化炭素のせいか、少し話をしても息苦しい。荒れそうな息を整えても、落ち着かない。美璃をまた背負い直し、意識的に長い呼吸を繰り返す。

「リストバンド以外は無意識だな。あれはやらかしたと気づいたけど。やっぱり、見逃してくれなかったか」

 芳岡は湧き起こる白い煙をこちらへ流すように掻いた。思わず上を向いた私を、鼻で笑う。

「握手して欲しかったんだよ。一番のファンであることを認めて欲しかった。でもあいつが返したのは拒絶だった。ずっと見守ってやってたのに、『気持ち悪い』と言ったんだ。気づいたら、殴り殺してた。きれいな死体なら連れて帰ったけど、とてもそんな気にはならなくてな。思い出にリストバンドをもらって帰った」

「……許さない」

 初めて感じる強い怒りに、堪えきれず漏らす。あまりに自分勝手で、残酷で、なんの罪悪感も見えない。

 芳岡は意に止めない様子で笑い、階段の方へ視線をやった。遠くで、サイレンの音がする。

「人が犯罪に手を染めると、『子供時代に原因があった』とか『大人になってからつまずいた』とか、好き勝手言うだろ。でも俺はこのとおり恵まれた育ちで、両親は温厚でまともな人達で、厳しくも優しく育てた。友達もいたし彼女もいた。勉強も運動もできたし、体も健康だったよ。ひねくれる理由はなかった。学校でも、普通の先生だっただろ? だから、環境のせいじゃないんだよ。敢えて言うなら、産まれ持った因子なのかもな」

 サイレンの音は少しずつ大きくなり、やがて止まる。芳岡は、さて、と切り出して軽く煙を掻き回した。

 二酸化炭素は、どの辺りまで上がってきているのだろう。足を冷やす水は凍えるように冷たくて、痛い。熱いのは汗ばむ顔だけだ。なんとなく頭が痛むし、息苦しさはごまかせない。

 上の方で物音がし始め、芳岡、と呼ぶ声がした。

「ここです、助けて!」

 力を振り絞り叫んだ私に、芳岡は笑う。ちらりと階段の方を見上げたあと、迎えるように格子の際へ寄った。

「志緒ちゃん!」

「ここです!」

 はっきりと聞こえたトーマスの声に答えてすぐ、階段を影が占める。下りてきたのは、大宮とトーマスだった。

「美璃ちゃん、いました、でも」

「話さなくていい、よくがんばったね」

 トーマスの声にふと気持ちが緩みそうになるが、耐えて支え直す。でももう、限界が近い。声を出したせいで、余計息苦しさが増す。美璃の体を支える腕は疲れで震え、力が抜け始めていた。

「芳岡、諦めて子供達を解放しろ。そこを開けろ」

「あっさり言うことを聞くなら、わざわざ到着を待つわけないだろ」

 大宮の要求を鼻で笑い、芳岡は顔の傍に古びた小さな鍵を掲げる。

「鍵が欲しいなら、撃てよ。殺せば取れるぞ。近づけば飲む」

 嘲るように言って、鍵を咥えた。

「時間切れで志緒が死んでも、お前が撃たれて死んでも思惑どおりか」

 トーマスが、芳岡に冷ややかな視線を向ける。初めて見る険しい表情だった。それでも芳岡は鍵を咥えたまま、不気味に黙っている。でも、このままでは。

 ずるりと体を滑らせた美璃を慌てて背負い直し、荒い息を吐く。向こうで、大宮が拳銃を取り出すのが見えた。この距離で撃てば確実に当たるだろうが、撃つのだろうか。

 芳岡に銃を向けた大宮に、つばを飲む。熱くほてった顔を、汗が伝い落ちていくのが分かった。

「残念だけど、志緒はお前が願うほど弱くない」

 大宮、とトーマスが呼んだ次の瞬間、発砲音が響き渡る。きつく目をつぶり、何かが終わるのをじっと待つ。発砲音の残響が耳に残って、何も聞こえない。薄く目を開くと、視界がくらりと舞った。ああ、だめだ。

 崩れ落ちそうになった体を、誰かが支える。不意に背中が楽になり、大宮が美璃を抱えるのが見えた。

 ……ああ、助かった、のか。

 安堵で脱力した体が、抱え上げられる。見上げると、トーマスの顔が見えた。斜め下からでも、相変わらず美しい。何か言っているのかもしれないが、まだ何も聞こえない。でも、もう安心だ。馴染んだ温かさに全てを預け、目を閉じた。

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