第36話

 位坂は私を保健室へ送り届け、気づいたようにUSBメモリを渡した。

――映っている部分だけを抜き取った。二日前の二十二時過ぎだが、会っているかどうかは確認できなかった。気分が良くなったあとにでも、確認してくれ。

 やっぱり、トーマスは会っていたのだろうか。大宮は肝心なことは何も話さなかったと言っていたから、そこも話さなかったのかもしれない。トーマスと芳岡。

――うちもね、美璃は戸増先生のとこに通わせてるの。

――小学生の頃は戸増医院の先生が好きでした。子供同士でかくまうのは現実的じゃないけど、大人なら大丈夫ですよね?

――友達が、駅の近くで先輩が人の車に乗ってるところ見たことがあるのを思い出したって。

 小学校の時に頼っていたのがトーマス、中学校の時に頼っていたのが芳岡なら? 今回も、最初はトーマスを頼ったが自首を勧められたので芳岡に頼った。ありえない話ではない。じゃあ、どうしてあのリストバンドを芳岡が持っていたのか。蓮士から戦利品をもらった、か……。

「翡川さん、大丈夫? 顔色が戻らないみたいだけど」

 掛けられた声に気づいて、USBメモリから視線を上げる。坂尾が、控えめに笑んでソファの隣に座った。四月より少し痩せたが、あれからも私への態度は変わらない。

「もしかして、この前の事件を調べてるの?」

「はい。といっても、何が事実かまるで見えなくて。あ、これは秘密にしてくださいね」

 坂尾は私の希絵への思いをよく知っているから教えてしまったが、担任と連携を取られるのは困る。

「あなたなら、探そうとするんじゃないかと思ったわ。危ないと分かっていても、じっとしていられないだろうから」

 予想どおりだったらしい私の答えに苦笑して、坂尾は私を見つめる。相変わらずの柔和な顔立ちと雰囲気だ。でも、忘れられるわけはないだろう。

「子供が巻き込まれる事件はもうたくさんよ。こんなことになって、ご住職も心を痛めてらっしゃるでしょうね」

 心痛の伝わる表情に、ふと気づく。

「先生、鵲寺のご住職とお知り合いなんですか?」

「ええ。鵲寺は子供の駆け込み寺みたいなこともしてらっしゃってね。家に問題があって居づらい子供達を保護したり、福祉課や児童相談所との繋ぎをしてらっしゃるの」

 子供の駆け込み寺。気になる表現だった。美璃はあの時、母親とケンカをしていて家には帰りづらかったはずだ。それを声を掛けた「誰か」に相談したのかもしれない。蓮士は絶対に不可能だから……。

 翡川さん、と呼ぶ声がして、はっとする。少し慌てた私を見て、坂尾は苦笑した。

「危ないからやめなさいって言って聞くなら、とっくにやめてるわよね。私には気をつけてと言うくらいしかできないけど……無事を心から祈ってる人間がここにもいることを忘れないでね。あなたが傷ついて喜ぶような人は、あなたを大事に思う人達の中にはいないの」

「先生」

「恨んでなんかないわよ。むしろ、感謝してるくらい」

 坂尾は頷いて、視線を落とす。膝の上に重ねられた手には、まだちゃんと指輪がはまっていてほっとした。

「私は、弱い人間よ。あのまま誰にも知られずに生きていくことなんて、きっと無理だった。あなた達みたいな子供の前で無様な姿を見せて、知られて。でも正直、楽になったの。あれから、善人の顔に追い詰められそうになった時には思い出してる」

 楽になるのは分からないでもないが、挫折なんて思い出したいものだろうか。私はまだ、学校に行けなくなった時のあの苦い敗北感を忘れられない。置いていかれたような、あの。

 坂尾は怪訝に思う私に気づいたらしく、そうね、と小さく返した。

「もう少し、難しい感覚かもしれないわね。でも今は、それでいいの。あなたの真っ直ぐさは、代えがたい財産だから」

 穏やかな笑みで伝えたあと、腰を上げた。


 『今日は早退するよ』『分かった。気をつけて帰ってくれ。』

 一時間休んでも回復しなかった体調に、諦めて早退を選んだ。話をしたいこともあってとます小児科へ向かったが、トーマスは留守だった。馴染みの看護師いわく、警察に行っているらしい。きっと大宮のところだろうが、何かあったのだろうか。

「心配じゃないですか?」

「何か考えがあってのことだろうからね」

 問診を終えた院長は、細かく頷きながらカルテに書き込む。院長の診察はトーマスが学会や出張で留守の時だけだから、本当に久し振りだ。

 多分もう、八十近いはずだ。トーマスは物心ついた時から全く見た目が変わらないが、院長もあまり変わっていない。私が幼い頃から既に髪は白髪が勝っていたし、口周りの髭も白っぽかった。どちらも真っ白になった近頃は、冬になるとサンタ帽を被って診察している。「クリスマスだけサンタの仕事をして、冬以外はお医者さんをしている」と言えば、幼い子は納得するらしい。みんながいい子にしてくれるから診察が楽なんだよねえ、と穏やかに笑っていた。

「体に問題はないから、脳がぱんぱんになって処理が追いつかなくなってるのかもね。事件のことを考えすぎて、疲れてるんだろう」

「多分、そうだと思います。でも今がんばらなかったら、いつがんばるんだって思うので」

 全部片付いたら布団に飛び込んで、何も考えずにただひたすら眠りたい。でも今はまだ、その時ではない。

 決意を固くした私に、院長は老眼鏡越しの目を細めて笑む。

「先生も、止めないんですね」

 止められるとは思っていなかったが、やはりそうか。さすが、トーマスの父親だ。

「志緒ちゃんの時計を止めたのは、志緒ちゃん自身だ。それを再び動かせるのは志緒ちゃんしかいないからね。大人が先回りしたり手を出したりしてはいけない時がある」

 おっとりとした口調の言葉に少し泣きそうになったのを堪えて、大きく頷く。

「それで、あの。私にも、警察に提出した防犯カメラの映像を観せてもらえませんか?」

 控えめに切り出した私に、院長は頷く。

 位坂からUSBはもらったが、よく考えたら芳岡のパソコンを勝手には使えないし、かといって許可を取って使うのも危険だ。

 幸い映っているところは分かっているのだから、そこだけここで確認させてもらえばいい。

「できるよ。ちょっと待ってね」

 孫を慈しむように受け入れて、おーい、と看護師を呼ぶ。すぐ姿を現した馴染みの看護師に「防犯カメラの映像観せてあげて」と託した。

 察したらしい看護師に手招きされて腰を上げ、院長に礼を言って診察室をあとにする。呼ばれた場所は、受付奥の一角にあるモニター前だった。

 防犯カメラは院の前、左右、駐車場、裏口、の五つだが、必要なのは裏口のものだ。再生する方法を看護師に教わり、礼を言ってパソコンに向かう。過去のデータが格納されているHDDから事件二日前のフォルダを選んで開く。再生ボタンを押し、位坂に教えてもらった二十二時半頃まで進めた。

 雨の降る暗い画面を眺め、その時を待つ。不意に光が灯り、人影を映した。思わず身を乗り出して近づく姿を目で追う。顔を隠すように傘を差したまま裏口に近づいて、そのまま……二分半ほどか。防犯カメラに傘だけ映したあと、去って行く。時刻は午後十時三十五分。最後まで傘で見えなかったが、蓮士に間違いないだろう。トーマスに会いに来て、少し話をして帰ったのかもしれない。「会っていない」と言ったトーマスと、何を話したのか。

 胸元に見えた紐は、パーカーか。墨木がちらりと脳裏を掠めた時、視線がふと止まった。

 ちょっと、待って。

 慌てて巻き戻し、裏口から離れていく姿を少しずつ確かめる。もう一度巻き戻し、また巻き戻して、繰り返し見つめる。警察は、これに気づいていない。

 椅子に凭れて顔を覆い、混乱する思考を宥める。鼓動はこれまでになく速いし、手は震えるし、変な汗が止まらない。不安と恐怖が膨れ上がって胸を占めた。

 怖いし不安だし、どうしていいのか分からない。でも、まだ証拠にするには穴が多い状態だ。まだ確かめる手段は残っている。

 顔を拭い上げ、リストバンドのない腕をさすりながら深呼吸を繰り返す。あの引き出しの中を確かめれば、全てが分かるはずだ。

 大丈夫、最後まで調べられる。自分のために、調べなくては。

 ふらつく体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。自分のすべきことを確かめながら、唇を噛んだ。

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