第33話

 芳岡邸のチャイムが鳴ったのは、それから一時間ほど経ってからだった。芳岡は冷蔵庫から取り出したばかりのタネを再び戻し、玄関へ向かう。その背を見送ってクッキー型を置き、エプロンを外してスツールに腰を下ろした。短く打ち始めた胸を押さえ、深呼吸を繰り返す。

 私のせいで、捕まってしまったらどうしよう。

 今更、行動とは裏腹な思いが胸を占めていく。私は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。ブラウスをぎゅっと握り締めた時、少し荒れた声が聞こえてびくりとした。何か、あったのかもしれない。

 腰を上げ、慌てて玄関へ向かう。近づくほどに大きくなる荒い口調は、芳岡のものだった。

 先生、と呼び掛けた声に芳岡は振り向く。きつく歪めた表情に、少しだけ引いた。

「来なくていい、入ってろ」

「でも」

「事件のことについて、少し話が聞きたい。一緒に、来てもらえるかな」

 視界を遮ろうとする芳岡の向こうから、大宮が神妙な顔を覗かせる。位坂が約束どおり呼んでくれたのだろう。

「はい、行きます」

「志緒!」

 きつく呼ぶ声に怯えて、思わず身を縮めた。

「大丈夫、すぐ帰って来るから」

「また母さんを泣かす気か」

 溜め息交じりの言葉に、胸が痛む。確かにこれは、母との約束を破ることだろう。泣きながら私を抱き締めた母の腕を思い出すと、視線が落ちる。でも、やっぱり無理だ。お母さん、ごめん。

「でも、美璃ちゃんを助けたいの。すみません、準備してきます」

 迷いを振り切るように答えて、踵を返す。あのリストバンドを押し込んだバッグを取りに、座敷へ向かった。


 大宮は私を後部座席へ乗せたあと、車を出す。心配そうな表情で見送る芳岡が、少しずつ小さくなっていく。もしこのリストバンドが事件に関わっていなければ、私のしたことは信頼関係の破壊でしかない。

 早速だけど、と口を開いた大宮に、罪悪感を引きずりながら顔を上げる。

「君が持っているらしい証拠について聞けるか」

 無駄口を一切省いた内容に、気を引き締める。今は、こちらに集中しなければ。

「私が小六の時、希絵にもらった白いシリコンのリストバンドです。今つけている、これと同じものです」

 後部座席から掲げて見せたものに、大宮はバックミラー越しの視線をくれた。

「これは、夏休みに希絵が行ったアイドルグループのライブで買ったもので、お揃いです。希絵は、学校にこっそりつけてきていました。でも先生にバレないように校内では外していたから、登下校の時だけだったんです。なのに、芳岡先生は『お揃いだな』『学校につけてきていた』と」

「単純に、登下校の時につけていたのを見たんじゃないか?」

「その可能性はあります。ただ、事件の頃はこれともう一本、ピンクのシリコンリストバンドをいつもつけていたんです。事件の日にもつけて、蓮士に会ったはずです。どうしてそれが、先生の家にあるのかと思って。もちろん先生が別のルートで手に入れていたのなら、証拠でもなんでもなくなるんですけど。だから、それを教えていただきたくて」

 もしそうなら、とんだ人騒がせだ。でもそれくらい、無駄足を踏まないように大宮も調べるだろう。その上で来たのだから、つまり希絵の腕には「なかった」のだ。

「事件の時、警察が君に聞いたのは事件までの流れだけだったね」

「はい。SNSでのやりとりとか、前日に止めて言い合いになったこととか、話しました」

「でも気遣って、遺体に関することは尋ねなかったんだろうな。こちらの記録に、二本つけてたとは残っていなかった。母親は、隠れてつけていたから把握してなかったんだろう」

 やっぱり、そうか。安堵とともに膨れ上がる不安に、手が震え始める。だとしたら、本当に。本当に、芳岡が蓮士を匿ったのか。

「署に着いたら、証拠として預かりたい。ほかにも、話を聞かせて欲しい」

「分かりました。それで、あの、戸増先生は大丈夫でしたか?」

 話をトーマスに向けた途端、張り詰めていた大宮の空気が変わる。項垂れながらハンドルを繰り、溜め息をついた。

「昨日の夜、帰ったよ。『もういいですよ』って言ってもなかなか帰らなくて苦労した。そのくせ大事なことは話さない。引っ張ってったのを、ものすごく根に持ってた」

「先輩、なんですよね?」

「中学高校とね。でも、だいぶ変わったな。昔は毒がきつくて、周りはみんな『こんな人医者にして大丈夫か』と思ってた。今は、まあ毒もだいぶ残ってるけど、いい医者になったなと思うよ」

 あれに輪を掛けた感じだったとしたら、相当だろう。それが、「いい医者」か。少しくらい、私の初恋も役に立ったのかもしれない。殺伐としていた胸が少しだけ和らいだ。やっぱり、トーマスは特別だ。

「事件の前にも、よく会われてたんですか? 戸増先生に捜査情報を流してたのは、大宮さんですよね」

「その辺は、ちょっと事情があってね。別に俺が漏らしてたってわけじゃない。まあこれを含めて、こっちからは話せない。あの人は止めたところで喋るだろうから、聞くといいよ。今回の捜査情報も流してたみたいだしね」

 大宮は再び深い溜め息をつく。何か、水面下の協力体制でもあったのかもしれない。それでも、共犯説は覆らなかったのか。

「私には調べる権利があるからって、教えてくれました。おかげでいろいろ、蓮士をよく知る位坂くん達の協力もあってできた推理もあったんですけど、違和感があって」

「どんな?」

 尋ねる大宮にふと墨木の顔が浮かんだが、とりあえず飲むことにした。

「指紋を残した理由です。SNSでのやりとりは、私も傍で見てましたけど小六女子としてなんの違和感のないものでした。前回も今回も、使ったルートは防犯カメラを避けていたと聞いてます。位坂くん達は、自分の知る蓮士像と照らし合わせると違和感があると。位坂くんはそれで、共犯として防犯に詳しい戸増先生を疑いました。一方で、蓮士が凶器に指紋を残した理由は理解できるとも話していました」

 トーマスも、蓮士の激昂しやすいところは指摘していた。実行犯が蓮士なのは間違いない。ただ、単独犯か共犯者がいるか。その共犯者は、誰なのか。

「私も、それは理解できるんです。握手をして欲しくて右手の手袋を外して、断られて」

 脳裏の映像を言葉に変えていた時、ふと気づく。突然、違和感が湧いた。

「……あの、凶器に右手の指紋や掌紋が残ってたって情報は、当時の捜査で話されてたんでしょうか」

「いや、そこまで詳細なものは漏らしてないはずだ。まあ指紋があった、防犯カメラに映ってた、くらいはこっちが口を塞いでても漏れるもんだけどね」

 それだけじゃ、辿り着けない。少しずつ埋まっていく外堀に、視線を落とした。

「芳岡先生、蓮士の話を聞いた時に、『握手して欲しい』『友達になって欲しい』と思ってたのをばっさり断られて我を忘れたんじゃないか、って言ってたんです。私は戸増先生に捜査情報を聞いてたから、その時はなんとも思わなかったんですけど」

 捜査関係者の推理はあくまで推理であって、確定するまで事実ではない。事実は、犯人と犯人に聞いた人しか知らない。芳岡は、蓮士に聞いたのか。

「芳岡先生は蓮士を五年と六年で受け持ったあと、私達を五年で受け持ちました。私達が卒業するのと同時に、ほかの小学校へ異動したはずです。そのあと、二年前に駅前でたむろする少年達に注意して暴行されて、その時に少年達の中に蓮士に似た人がいたと証言しました。希絵の事件で匿ったあと逃げたのを、探してたんでしょうか。落ち着いたら自首をする約束だったのかも。暴行した人達にも、厳罰は求めないって言うような人だし」

 自分が怪我を負わされても、許そうとするような人だ。蓮士を一方的に断罪はしなかっただろう。落ち着かせるために風呂に入れて、手作りの食事を振る舞って、一晩寝かせて翌日警察署に連れて行くつもりだったのかもしれない。でも朝起きてみたら、いなくなっていた。あのリストバンドは、残されていたのか。

「今回の事件への関与は、どう考えてる?」

「接触もなかったとは言えませんけど、匿っている可能性は低いと思います。昨日から私と母が一緒に住んでいるので。一人なら屋敷にいくらでも匿えたはずですけど、私達がいる状況では食事を届けるのもままなりません。リスクが高すぎます」

「その点、先輩は一人暮らしなんだよな」

 リフォームは三年ほど前か、それを期に院長夫婦は近くのマンションへ移り住み、院の二階はトーマスの一人暮らしになった。

「院の防犯カメラには、蓮士が映ってたんですよね? 中に入ったところまで映ってたんですか?」

「詳しくは言えないんだよ」

「顔までちゃんと映ってたんですか?」

「ほかの防犯カメラの映像と特徴が一致した」

 特徴とは多分、服装とか背格好とか、そういうものだろう。つまり「顔は映っていなかった」のか。それなら墨木でも、というのはさすがに無理があるか。

「鵲寺のと、希絵の時のとってことですか?」

「まあ、そういうことだと思ってくれ」

 全部話すトーマスに慣れているせいか、歯がゆくて仕方ない。でも職務に忠実だと、こうなってしまうのだろう。

「戸増先生は、会ったって言ってましたか?」

「いや。じゃあどうして防犯カメラに映ってるのが分かったのかと聞いたら、俺達が来たからだと」

「ああ、なるほど。映ってなかったら来ませんもんね」

 私と位坂の説は考えすぎだったか。トーマスの思考はもっとシンプルなのかもしれない。

「でも、会わなければ匿えないわけだし」

 腕組みをして、唸る。何かを見落としている気がする。

「何か、何かある気がするんですよね。指紋を残した理由と今でなければならなかった理由、戸増先生に会いに来た理由に共通するものが」

 でもそれが分からない。なぜ指紋を残したのか。なぜ今だったのか。

「警察は共犯を疑ってるんですよね。でも、戸増先生は単独犯だと言っている」

 蓮士には一人で遂行する力があると教えたのはトーマスだ。トーマスだが。なんだろう。トーマスは何か、私に言わずに伝えたことがあるはずだ。

 不意に揺れた携帯に気づいて、バッグから取り出す。母かと恐る恐る確かめた相手は、万里だった。何かあったのだろうか。すぐに出た私に、万里は少し間を置いた。

「あの、今、大丈夫?」

 意を決したように切り出された問いに、思わず頷く。

「はい、大丈夫です。どうしたんですか?」

「うん……今ね、私にも何かできないかと思って、道場の友達に片っ端から電話して先輩の情報を聞いて回ってたの。そしたらちょっと、気になることを聞いたから。事件には関係ないかもしれないけど、一応言っとこうかと思って」

 気になること。視線を上げると、バックミラー越しの大宮と視線が合った。

「友達が、駅の近くで先輩が人の車に乗ってるところ見たことがあるのを思い出したって」

「いつですか?」

「時期は分からないけど学ラン姿だったって言ってたから、中学になってからだと思う。それで相手の人が、前に二小にいた先生なんだよね。確か一小に行ったから、志緒も知ってるかも。芳岡先生っていうんだけど」

 一瞬、短く息が詰まる。万里には、芳岡のことはまだ話していない。その万里から、蓮士と一緒に芳岡の名前が出るとは。

「知ってます。ありがとうございます、すごく助かりました」

「良かった、位坂くんと志緒に任せっぱなしだったからね」

 安堵したように返して笑う万里に、心が和らぐ。蓮士を疑って情報を聞き出すなんて、つらかったはずだ。それでも私達を選んでくれたことには感謝しかない。

「全部終わってまた自由に外出できるようになったら、ドーナツ食べに行きましょう」

「……うん、いいね。行こう。ありがとう」

 噛み締めるように礼を言う万里に私も礼を返し、和やかに通話を終えた。

「情報が入りました。学ラン姿の蓮士が駅の近くで芳岡先生の車に乗り込む姿を見た人がいるそうです。合服と夏服の時期を除くので、中学一年生の時なら六月から九月末までを抜いた期間、二年生は七月に家出をしていることを考えると、四月五月です。細かな時期は分からないそうですが、雪が降っていれば覚えていると思うので、一月二月は除いてもいいかもしれません。時期によって蓮士の状態に多少の違いはあるにしても、要は素行が悪くなっていても素直に車に乗るレベルの関係性を保っていたってことですよね」

「君、すごいな。警察官にならない?」

 突然のスカウトに面食らったあと、苦笑した。

「ありがとうございます。でも、私は体が弱いし体力もないので無理ですよ」

「そうか、残念だなあ。さすが先輩の秘蔵っ子だね。変な汗が出たよ」

 普段は気のいい人なのだろう。大宮は笑いながら答えたあと、見えてきた警察署に車線を変えた。

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