第32話
――事件が終わるまででいいから、一緒に暮らしましょ。心配なの。もし犯人が希絵ちゃんに関係のある子を狙ってるなら、次は志緒かもしれない。
夕飯の席で、母は涙目で私を説得した。母は私の自由を最大限許してくれる親だが、今回ばかりは分が悪い。多分芳岡と話し合って、説得することにしたのだろう。いやだとは、言えなかった。
翌朝、母は自分の荷物をまとめて運ぶべく芳岡と一緒に家を出る。私は昨日のあれこれがそれなりに堪えたと見えて、今日は布団の中だ。なんだか、体にうまく力が入らない。トーマスは、無事に解放されただろうか。連絡を取りたいが、弁護士すら不要だと言った人だ。私の連絡も迷惑かもしれない。
携帯には万里からの、位坂に報告を受けたことやできる限りの協力を申し出るメッセージが届いた。私は蓮士を憎んでいるのに、万里は優しい。
一息ついて携帯を置き、ゆっくりと体を起こす。腕にはめたままのリストバンドを撫でて、大きく開かれた襖の向こうを眺める。山から吹き下ろす風は少し冷たく、土と緑の匂いを含んでいた。
屋敷の山側にも白壁はあるが、その上から鬱蒼と茂った山が溢れている。土砂崩れまで行かなくても、地盤が緩んで土砂が押し寄せたのかもしれない。ここからは見えないが、蔵は山から伸びた木々が覆って鬱蒼とした森のようになっている。
もしかしたら、事件が終わってもこのままずっとここで暮らすのかもしれない。一緒に暮らし始めたら、多分、これまでのようにはトーマスのところへ行けなくなる。
視線を落とし、リストバンドを見つめる。
希絵がリストバンドをつけ始めたのは、いつだったか。登下校の時につけていたのを覚えている。事件の頃はこの白いブレスとピンクのものを二本、まるで御守のように。
ふと思い当たった違和感に、視線を上げる。
芳岡はなぜ、希絵がつけていたことを知っていたのだろう。校内では、つけていなかったのに。
ぞわり、と肌が粟立つ。いや、登下校時に見掛けたのかもしれない。それなら知っていたっておかしくはない。でも。何かが引っ掛かる。
胸を占めていくいやな感覚に、ぐるりと屋敷を見渡す。しんと静まり返った屋敷は、風にさんざめく木々の音だけが響く。まさか、どこかに蓮士と美璃が。
背中を這い上がる焦燥に、腰を上げる。体は少しふらつくが、大丈夫だ。九時を差す柱時計を確かめて、急いで芳岡の部屋へ向かった。
何か、もしかしたら何かあるかもしれない。
古びたスチール机の本棚をざっと確かめたあと、引き出しに手を掛ける。でもキャビネットになっている引き出しの一番上には、鍵が掛かっていた。
机の鍵だから、そう遠くには隠さないはずだ。視線を机の上に向け、小引きだしや本の下を探る。一人暮らしなのに鍵を掛けておくような秘密だ。多分、何かある。この上なくろくでもないことをしようとしているのは分かっているが、どうしても気になった。
ひととおり探しても見つからなかった机の上や引き出しの中に、小さく唸る。机の上でも引き出しの中でもないとしたら、下だ。
……ない。
しゃがみこんで勢いよく覗き込んだ引き出しの裏には、予想に反して何もなかった。念のため確かめてみた椅子の裏にもない。
諦めて腰を上げ、隣の本棚を眺める。大学時代に使った教科書か、難しそうな専門書が並んでいた。あとは辞書や小学校の教科書、資料集だ。
もし、本棚にあるとしたら。
椅子に座って机へ向かい、本棚に手を伸ばす。芳岡は私より二十センチくらい背が高いから、もう一つ上の段だろう。椅子から再び立ち上がり、芳岡の手がちょうど届きそうな場所の当たりをつける。辞書ゾーンにある一冊を引き抜くと、隣の辞書達が倒れてくる。直そうと触れた外箱の側面が、凹んだ。
急いで引き抜いて覗いた中身は、辞書ではなかった。
「……なんで、ここにあるの?」
呟いて取り出したそれは、今私の腕にはまっているものと全く同じ白いリストバンドだ。それに小さな鍵がくくりつけてある。でも、なぜ。
不意に玄関から物音がして、慌ててパジャマのポケットに突っ込む。ここから布団まで戻っていたら、間に合わない。辞書と外箱を急いで直し、襖を閉めて一番近くの広縁へと向かった。
広縁に座り外へ足を投げ出してすぐ、私を呼ぶ声がする。芳岡だ。いやな汗が全身から噴き出すのが分かった。だめだ、震えたらバレる。かじかむように震える手で額を拭い、深呼吸をした。
整理のつかない状況で問い詰めるわけにはいかない。あれが希絵のリストバンドである証拠は「まだ」ない。まだ、だ。これから見つける。そのためには、ここでバレるわけにはいかない。
「こっちだよ、縁側」
背後に向かい声を掛けてから、ごろりと横になる。多分、この方がごまかせるだろう。
「大丈夫か」
「うん。風が気持ちいいから、ちょっと横になってただけ。先生だけ帰ってきたの?」
「ああ。片付けにもうちょっと掛かりそうだから、一旦な。志緒を一人で置いとくわけにはいかないだろ。準備できたら迎えに行く」
背後から聞こえる台詞はいつもどおり、芳岡らしい責任感に溢れた言葉だ。だから余計、分からない。リストバンドが本当に希絵のものなら、蓮士の罪を隠したことになる。前回は関わったとしても、今回はどうだろう。
この屋敷に匿うのなら離れか蔵だ。でも匿っていたら、私と母を呼ぶのはリスクがある。うっかり蓮士が出てきて私と鉢合わせするのは、絶対に避けたいはずだ。芳岡はそこまで楽観的ではない。だとしたら、ほかの場所か。
でもそれこそ、私と母に隠れて蓮士達の分も食事を作って運ぶなんて無理だろう。今回はなし、か。じゃあ、やっぱりトーマスなのか。
「先生、今忙しい?」
「いや、なんだ」
つばをゆっくりと飲み、少しだけ後ろを向く。
「なんか、お菓子が食べたい。クッキーかマドレーヌ」
「じゃあ、クッキーにするか。この前買った発酵バターがまだ残ってるし」
快諾した芳岡に、小さく胸が痛んだ。私はこれから、その善意と好意を踏みにじる。
「ありがとう、待ってる」
「なら、休んでろよ。こっちに布団敷くか?」
ゆっくり体を起こす私に、芳岡は手を伸ばした。一瞬ためらいそうになったあと、いつもどおりに手を借りる。掴んだ手は温かい、いつもの熱を伝えた。
「ううん。もうちょっと風に吹かれたら、座敷に戻るよ」
答えた私に芳岡は頷き、一足早く座敷の中を戻って行く。
今は、余計なことを考えない。まとわりつきそうな感情を払い落とし、腰を上げた。
芳岡は当然外出なんて許さないだろうし、位坂を呼ぶのも許さないだろう。だとしたら、無理矢理にでも引っ張り出してもらうしかない。
一旦布団へ戻り、枕元から携帯を掴む。台所の気配を確かめたあと、まっすぐにトイレへ向かった。
辺りを確かめたあとトイレへ入り、通話履歴から位坂を選ぶ。少しずつ心拍数が上がり、携帯を掴む手が震える。短くなる息を意識して長く吐いた時、呼び出し音が途切れた。
「すまない、出るのが遅くなった」
「ううん、いいよ。今話しても大丈夫?」
ああ、と短く答えた位坂に、胸を押さえて息を吐く。切り出したらもう、答えが出るまでは止まれない。止まったって、一度疑った事実はもう消えない。それでも、進むのか。
「翡川?」
「位坂くんに、お願いがあるの」
少し掠れた声に、口の中で咳をする。
「希絵の事件に関係するかもしれないものを見つけたの。警察で調べてもらいたいし聞きたいことがあるんだけど、今、芳岡先生の家でね。外出禁止中だから、自分から外に出るのは許してもらえない。警察署のあの刑事さんに連絡して、任意同行でもトーマスの参考人でもなんでもいいから、連れ出してもらえるように頼んでもらえないかな。私が頼むより、位坂くんが頼んだ方が言うこと聞いてくれそう」
「『関係するかもしれないもの』って、証拠か」
「うん。希絵が死ぬ前につけてたのと同じリストバンドが、この家から、出てきたの」
伝えた私に、位坂は短く間を置く。「この家から」に、全てを察したのだろう。
「大丈夫か、気づかれてないのか」
「うん。今のところは大丈夫。それに、同じなのは間違いないけど、今はまだ『同じなだけ』なの。もし希絵の遺体がつけてたら、別のルートで手に入れたものになるでしょ。それを確かめたいの。リストバンドには引き出しの鍵がついてたけど、さすがに隠れて開けられそうにないし」
いくら台所にいても、座敷でごそごそしていたら気づかれてしまう。今だって、トイレの外の状況はまるで分からない。聞かれていたら終わりだ。滲む汗に、こめかみを拭う。
「分かった。これから電話して頼むから、危険なことはするな。危なくなったら俺じゃなく、迷わず110番にかけろ」
「うん。じゃあ、お願いします」
連絡を託して通話を終え、汗ばんだ顔を袖で拭い上げる。耳をそばだてて向こうの気配を探ったあと、ドアを開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます