第20話

 最低な私を苛むように降り出した雨は、夜には大雨となって警報を鳴らした。翌朝には注意報に変わった昨日も一日降り止まず、今日は朝から学校近くの防災無線が川の増水を告げていた。

――先生方、至急職員室へお戻りください。生徒は指示があるまで教室で待機するように。

 突然の校内放送が流れたのは、四限の最中だった。全職員の職員室帰還を告げる硬い声に、教室はある種の異様な空気に包まれた。とはいえどうせ防災無線のあれだろうと、皆はどこの堤防が決壊したのかについて話し合っていた。

 でも十五分ほどして姿を現した担任が告げたのは、不審者発生による緊急下校だった。詳しい状況説明は一切なかったのが、一層の緊迫感を煽った。

 保護者に迎えに来てもらうか、無理なら誰かと一緒に帰るように。今日は部活も中止で、帰宅後は外出禁止。今後のことは動きがあれば学校が通知を出す、と担任は伝えてホームルームを終えた。

 何か、「とんでもなく悪いこと」が起きたのだろう。

 いやな予感に周りはすぐさま携帯を取り出したが、私は難しい。母は忙しくて抜けられないだろうし、芳岡はもっと無理だ。高校でこうなら、小学校はもうてんやわんやだろう。絶対に、トーマスも出動している。誰にも、頼れない。

 周りでは、次々と繋がり始めていた。自分だけが違うようなこの感覚は、久し振りだ。

 小学生の頃、母が防災課にいたことがあった。普段はほとんど残業のない職場だったが、大雨や台風、地震の時は夜中まで帰って来なかった。シングルマザーの母がなぜそんな課に配属されたのか、暗に退職を迫られていたのかもしれない。まあそれはともかくその職務のせいで、天災で急遽保護者の迎えが必要な時でも母は来られなかった。

――やったあ、志緒と一緒!

 二度ほどあった緊急下校の時、私は希絵とその妹である美璃みりと一緒に希絵の家に帰った。希絵が心から喜んでくれたことに救われたが、寂しくて心が軋んだのを覚えている。

 不意に揺れた携帯は、位坂からのメール着信を告げていた。

 『迎えは来るか』

 装飾のない問いにためらったあと、『来ない』と返す。携帯はすぐに揺れ、『送る』と短い一言を伝えた。突き放したのは数日前、位坂だって忘れたわけはないだろう。それでも、声を掛けてくれるのか。迷いながら『ありがとう』と返し、携帯を置いた。

 気が変わって無視してくれても良かったのに、律儀な位坂は三分も経たないうちに現れる。出入りの始まったドアから半身を覗かせ、私を呼んだ。

 諦めと安堵の混じる複雑な感情を持て余しつつ、腰を上げて担任の元へ向かう。位坂と帰宅することを伝えて、教室を出た。

「ありがとう。ごめんね、わざわざ」

「いや、構わない。俺も一人だから」

 思っていなかった理由に、隣を行く位坂を見上げる。不審者のせいか私のせいか、表情は最近の中で一番硬い。

「おじいさんは?」

「三日前にぎっくり腰になった。家の中は動けるようになったけど、まだ車の運転はできない。八十を過ぎているのに無理をするから、こういうことになる」

 淡々と、まるで大人のように祖父の状態を報告する。怒っているわけではないが、表情と合わせると怒っているようにも、呆れているようにも聞こえる。

「家事はできるの?」

「できるというより、無理やりしている。休ませたいけど、動かないとボケると言ってきかない」

「大変だね」

「ああ。でもボケるのは、俺が想像する以上に恐ろしいことみたいだ。必死だから、あまり強くは言えない」

 生徒玄関に足を踏み入れながら、内情を打ち明けた。確かに、保護者である自分が孫に迷惑を掛けてしまうのは心苦しいのだろう。

「まあ、そうだね。世話をする立場が世話をしてもらう立場になるのは、つらいよね」

 七組と十組の靴箱は同じ列で、位坂とはちょうど背中合わせになる。

「いや、あの人は父に迷惑を掛けたくないだけだ」

 背後から聞こえた答えに、スリッパを突っ込む手が止まった。思わず振り向いたが、位坂は気に留めず靴を手に外へ向かう。慌てて追い掛け、靴を履いた。

「今日は、バスか」

「うん。循環バス乗って東鞍寺五丁目で降りる。降りたらすぐだから、バス停まででいいよ」

 傘を差し、まずは校門を目指す。最寄りのバス停は国道まで出なければならないから、五分は掛かる。その間に全部話して別れを告げ、バスに乗れば終わりだ。

「『不審者が出た』って、何があったんだろうね」

「詳細を伝えられないままで緊急下校だから、余程のことだろうな」

 子供が巻き込まれたのでなければいいが、分からない。思い浮かぶ事件は、一つだけだ。

「子供が犠牲になってなければ、いいんだけど」

 傘を少し俯かせ、自分を隠すようにして零す。ここまでしなくても身長差で見えないだろうが、今は特に見て欲しくなかった。ああ、と小さく聞こえた声に、視線を落とす。

 今日も一日雨が降りそうだったから、レインシューズにした。でも、失敗だったかもしれない。今日みたいな日はずぶ濡れになって、惨めを極めて帰るのがちょうどいい気がした。

「この前は、申し訳なかった」

 突然詫びを口にした位坂に、歩調が乱れる。

「俺は翡川の気持ちを無視した、軽率な発言をしてしまった。親友を喪った立場で考えれば、俺の言い分など生温く感じて当然だ。公正な判断だと思っていたけど、被害者の立場を思いやる視点に欠けていた。本当に、申し訳なかった」

「私も突き放したんだから、似たようなもんだよ。気にしないで」

 真摯に聞こえた言葉に、気づけばすんなりと返せていた。

「それに、仕方ないよ。あの人だって、産まれた時から悪人だったわけじゃないもんね。位坂くんや万里さんの中にいい思い出が残ってても、それを『捨てて』とは言えないし、言っちゃいけないのは分かってる。ただ、それは私の理性が言うことでね。どこかで『あんな人の味方しないで』って思う私がいるのも事実なの。それは多分、あの人が捕まろうが何しようが、一生私だけにつきまとうものだと思ってる。私の問題なの。それに位坂くんや万里さんが気を使って付き合うのはおかしいでしょ」

 希絵が生き返って元通り私の傍に戻ってこない限り、死ぬまで消えることはない。あの日落ちた地獄みたいなものだ。

「その、亡くなった親友がどんな人だったか、聞いてもいいか」

 切り出した位坂に、傘の先をもたげる。雨が一気に後ろの方へと流れていくのが分かった。少し戸惑ったが、傷つけるために聞きたいわけじゃないのは分かっている。

「保育園で一歳の時から一緒に育った幼馴染みでね。近所でも評判になるくらいかわいくて、明るくて華がある子だった。保育園の時からずっと、アイドルを目指してたの。歌もダンスもうまかったけど、それより人を惹きつける魅力があった。その子が歌えばみんなが自然とそっちを向くし、踊ったらみんなが手を止めた。気が強かったから誰にでも好かれてるってわけじゃなかったけど、苦手な子にも『好きじゃないけどすごい』って言わせるくらいの子だったの」

「カリスマ性があったんだな」

 うん、と頷くと傘も揺れた。ここがど田舎なのもあるのだろうが、未だに希絵を超える子には出会えない。子供が少なくて目立ったせいで、狙われてしまったのだろうか。東京で産まれていたら、今頃はどこかのアイドルグループでセンターを務めていたかもしれない。

「明らかに、私達とは雰囲気の違う子だったよ。小学生のうちは芸能活動を禁止されてたからできなかったけど、ダンスの大会には参加しててね。もうスカウトやオーディションの誘いが来てたみたい。中学生になったらオーディションを受けられるって、すごく楽しみにしてたの」

 母親が許さないと文句を言う希絵に、当時は同意していた。でも今は、母親が制限した理由が分かる。希絵の目指すアイドルは女子向けアニメのような「女子に愛されるアイドル」で、まだ現実が見えていなかった。幼い娘が成人男性に消費されていく姿を喜ぶ親はいないだろう。私も知っていたら、「許してくれればいいのにね」なんて言わなかった。

「私はひ弱で大人しくて落ち込みやすかったから、引っ張ってもらってた。性格も好きなものもまるで違ってたけど、いつも一緒にいたの」

「けんかはしなかったのか?」

「小さい頃は結構してたよ。でも、すぐ仲直りしてた。大きくなるほどにしなくなったけど」

 幼い頃のけんかは、どっちが先だとか言ったとか言わなかったとか、そんなしょうもないきっかけだった。簡単に絶交を口にするのに、簡単に戻っていた。でも育つほどに言い合うことはなくなって、その代わり、一度の重みが増した。

「最後のけんかは、事件の前日だった。……私は、会うのを止められなかったの」

 あの時、もっと強く言えていたら。先生や希絵の母親に相談できていたら、結果は違っていたはずだ。会うのを知っていたのは、私だけだったのに。

「翡川のせいじゃない」

「周りの人は、みんなそう言ってくれた。ほかの友達や先生、親も警察の人も。でも私だけは、そう思えなかった」

 そもそも私が止めた理由は、危険を察知してではなかった。危険という名目にすり替えたやきもちだったから、あんなことが起きるなんて心では思っていなかった。だから、強く言えなかったのだ。

「その後悔で、成長が止まったのか」

「ショックもあるけどね。また伸び始めたのは、位坂くんと万里さんのおかげで前を向けるようになって、『私にはどうにもできなかった』ってことに心が納得し始めたからだと思う。頭では分かってても、心が言うこと聞かないことってよくあるでしょ」

 また傘をもたげ、ちゃんと位坂の顔を映す。位坂は少し伏し目がちに私を見下ろして、ああ、と答えた。

「うまく言えるか分からないが」

 続けて切り出した位坂に頷き、再び前を向く。少し強くなった雨足に白ばむ街の景色を眺める。すぐ傍らの県道を、パトカーが通り過ぎて行った。北高が緊急下校になるのだから、この辺りで起きた事件かもしれない。じわりと滲むいやな感覚に、何度もつばを飲み込んだ。

「俺の世界は、翡川の出現で大きく変わった。『友達』の感覚が腑に落ちるようになったおかげで、理解できるものが激増した。記号として社会に溢れる『友達』がこちらに何を訴えかけているのか、今は分かる。ポアロとヘイスティングスの間に流れているものも読み取れるようになった。月並みな言葉だが、翡川には感謝している。翡川がいなければ知らなかった鮮明で奥行のある世界に、今の俺はいる」

 確かに世間には、「友達」が溢れている。私が特別意識しなかったのは「友達」の感覚とともに育ってきたからだろう。意識しなくても、分かっていたからだ。でも、位坂はそうではなかった。

「だからこの前、翡川が離れようとした時、急に恐ろしくなったんだ。離れたら今ある全てが崩れていくような気がした。気づけば翡川の心境を思いやる言葉を選ぶより先に、自分の欲が表出していた。失礼なことをして、申し訳なかった」

「失礼なこと?」

「いきなり腕を掴んでしまった」

 言われてようやく思い出すようなことだ。私は全く気にしなかったが、紳士の位坂には許せないことだったのかもしれない。

「気にしないで、忘れてたくらいのことだから」

 見上げた位坂が明らかに安堵したように見えた。大げさ、ではないのだろう。分からなければ不安だ。

「今日も、メールを出していいのかと思いはした。時間が欲しいと言われてからまだ数日、翡川が三日四日の猶予を望んでいたわけではないのは俺にも分かる。でも、不審者の危険性は天秤に掛けるまでもない。押しつけがましいのは承知の上で出した」

「嬉しかったよ。今日は誰も来られないから、途方に暮れてたとこだった。メールを見た時、すごく救われた気になったの」

 周りに置き去られていく自分が、不意に掬い上げられたような気がした。誰にでもできるとは思わない。

「誘ってくれて、ありがとう」

 呟くように礼を言い、視線を少し遠くへやる。

 国道まではもう少しだが、迎えの車が来始めたのか細い道は渋滞し始めている。電話一本で馳せ参じる親、か。羨ましくないと言えば嘘になるが、今は一人ではなかった。

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