第19話

 何度かそれらしいメッセージを打っては消し、諦めたのは0時過ぎだった。思うところがあるにしたって、突然不躾なメールを送って万里の安眠を妨げて良い理由にはならない。でも朝になっても結局送れず、気づけば昼だった。

 今日は火曜日、万里と弁当を食べる日だ。昨夜降り続いていた雨は止んだが、今晩からまた雨らしい。見上げた空は、朝から重苦しい曇天が広がっていた。弁当を食べる前か後か、どちらにしてもこのまま黙っているのは難しい。隠しきれる自信はないし、何も知らない万里を一方的に攻撃する可能性だってある。そんな卑怯なことは、したくなかった。

 ただ、今日は万里が遅い。いつもなら十二時四十五分には食べ始めているのに、もう過ぎていた。もしかしたら、位坂に聞いて離れたくなったのかもしれない。蓮士を信じているのなら、慕っているのなら、私は敵のようなものだろう。

――今の警察に捕まえられないのなら、俺があの人を捕まえる。

 敵ではなくても、突き動かすものが違う。位坂と私の、蓮士を捕まえたい理由は重ならない。

 志緒、と小さく呼ぶ声に、譲葉から視線を移す。

「遅くなってごめんね!」

 明るく続けて、万里は隣へ腰を下ろした。先生と喋っててさ、と続けて息を切らせた胸を押さえた。何も、聞いていないのか。

「どうしたの?」

 明るい笑みでうかがういつもの万里に、迷いが湧く。私があの話をすれば、この笑顔は消えてしまうだろう。もしかしたらもう二度と、私には向かなくなるかもしれない。それならこのまま黙って、友達のふりを続けた方が。……「ふり」ってなんだ。ふりなら、しない方がマシだ。

「この前、私が三センチ伸びた話、しましたよね」

「うん。ほんと、良かったねえ。この調子ですくすく伸びればいいね」

 嬉しそうに答えながら、万里はバッグから弁当箱を取り出す。食べ終えてからは吐きそうになるかもしれないから、多分、早い方がいい。

「その成長が止まった理由を、話したいんですけど」

 意を決して切り出した途端、万里の手が止まる。ゆっくりとこちらへ移った視線が、揺れていた。もしかして、万里も気づいていたのか。

「……もしかして、気づいてました?」

「うん、なんとなくだけどね。でも、聞けるようなことじゃないから」

 万里は開けかけた弁当の蓋を閉め、気持ちを落ち着けるように長い息を吐く。

「四年前のあの事件で殺された子、私の親友だったんです。そのショックで私は成長が止まって、学校にも行きづらくなりました。万里さんも、ですよね」

 位坂の時に比べて穏やかに話せているのは、二度目だからだろうか。万里は頷いて、長い息を吐く。

「私ね、小さい頃はぽっちゃりしてて引っ込み思案で気が弱くて、それをどうにかするために剣道道場に通わされてたの。でも自分からは誰にも話し掛けられないし、動作は遅いし。コンプレックスの塊で、いつも道場の隅で暗くいじけてた。そんなだから周りの女子を苛つかせちゃって、荷物運びとか片付けとか、押しつけられてたの。でも腹が立つより、自分はこういう扱いを受けて当然なんだって考えの方が強くって。自分なんかどうせって、いつも思ってた」

 以前少しだけ聞いた、今とはまるで違う昔の姿を語り始める。性格的なものは、今でも残る繊細さに感じ取れる部分はあった。ただ、「ぽっちゃり」は全く想像できない。まな板に棒切れをくっつけたような私の体型とは違い、万里は細身ながら凹凸のはっきりしたメリハリのある体型だ。姿勢の良さとしなやかな手脚は、剣道で培われたものだろう。

「でも、小二の頃かな。聞きたくないと思うけど、道井先輩が道場に入って来たの。いろいろと押しつけられてる私を見て『なんか悪いことしたのか』って。してないって言ったら『なら堂々としてろよ』って追い払ってくれてね。今まで助けてくれた人いなかったから、びっくりした。それからいろいろ話をするようになって、気づいたら好きになってたの」

 予想どおり、蓮士は万里の初恋の相手だった。位坂に聞いたあと、パズルのピースがはまるように繋がっていった結果と同じ。澱む胸に、深い息を繰り返す。

 分かっている。蓮士だって幼い頃から殺人鬼だったわけではない。

「でも、私だって証拠が出てるのに違うって言うつもりはないよ。年々素行が荒れていったのは知ってたしね。どうしてあんなことをしたのかは、知りたくてたまらないけど」

 万里は沈んだ声で話したあと、弁当箱の上で重ねた手で拳を作った。

「私が今みたいな感じになって北高に来たのも、堂々としていられるように努力した結果なの。先輩が捕まった時に、『私をここまで引っ張ってくれた人が何やってるんですか』って言える自分になっていたくて」

 それは万里の心だし希望だから、私が文句をつけることではないだろう。でも位坂と同じだ。万里も、蓮士が「やり直す」ことを前提に話をしている。私とは、絶対に相容れない道だ。

 位坂とは読書の趣味で繋がったが、万里は違う。『海底二万里』から名付けられていながら、あまり好きな内容ではなくて最後まで読んでいないらしい。驚いたが、その一方で私は万里の趣味である音楽鑑賞についていけない。でも趣味や好きなものが違っても、同じ場所で同じ方を向いていられる。考えが違っても、多少のことならすり合わせていけるはずだ。でも。

 これだけは、どうしても無理だ。

 私は更生なんて望んでいない。希絵の命も夢も全部奪ってあんな殺し方をしたのに、少年法に守られて実名報道さえされない。四年も逃げてる時点で、罪を償う気なんてない。そんな奴を、どうして生かさなきゃいけないのだろう。

「位坂くんにも、頼んだんですけど」

 切り出した私に、万里は少し怯えたようにこちらを見る。万里や位坂は少しも悪くないのに、加害者側にいるだけで罪悪感を抱えてしまう。

「少し、距離と時間をください」

 これが、私にできる最善の決断だ。

「位坂くんも万里さんも、当たり前だけど何も悪くない。憧れたり好きだったりしたことを、責めるのは間違いだと分かってます。でもそれを分かってても、ひどいことを言いそうで怖いんです。こんなことで、大事にしたい関係を壊したくないから」

 どうだろう、ちゃんとうまく言えただろうか。気を抜くと吹き出しそうな恨みを抑え込むのに精一杯で、余裕がない。

「分かった。私も位坂くんも、志緒と友達でいたい気持ちは」

 ふと揺らいだ声に視線をやると、万里が泣いていた。

「……ごめんね、志緒」

 顔を覆い涙声で詫びる万里に、何を言っていいのか分からなくなる。これも全部、あいつが希絵を殺したせいだ。あいつが悪いのに、どうしてほかの人間が謝らなければいけないのだろう。何も悪くない人が。

 気づくと私の視界も揺らいでいた。でも、万里の涙と私の涙の理由は違う。

「先輩は、何も悪くありません。ごめんなさい。私、行きますね」

 押し寄せる居たたまれなさに、弁当を掴んで立ち上がる。深く頭を下げて、泣いている万里を置いて逃げ出した。最低だと分かっていても、足は止まらなかった。

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