二、

第18話

 報告があります、と切り出した私に、隣で位坂は箸を止めた。

「なんと、身長が一五三センチになりました。半年で三センチも伸びてた」

「良かったな。薬を飲んでいたわけじゃないんだろ?」

「うん。中学の時はホルモン治療で無理やり二センチ伸ばしたけど、今回はなんにも。自分でもびっくりした」

 でも、伸びた理由は分かっている。トーマスが言ったとおり、私の成長を止めていたのは私自身だ。何もできなかった自分への、怒りや絶望。でもそれが、位坂や万里と関わる中で少しずつ解れ始めている。

「金曜日に病院行って分かったんだけど、万里さんに電話で報告したら『良かったねえ』って泣いちゃった」

「あの人は感情表現が豊かだからな」

 位坂は頷きながら、生姜焼きをつまむ。今日は二人揃って賭けに出た日替わり定食は、生姜焼きだった。当たりだ。

「でも位坂くんも、口元や目元に結構出るようになったと思うよ。私、分かるもん」

 汁椀を手にしつつ眺めた位坂は、少し日に焼けて健康そうな肌色をしていた。半袖シャツから伸びた腕も、引き締まって健康そうだ。あと数日で九月も終わり、十月になれば合服で長袖に覆われる。

 女子の制服はずっとセーラーだが、冬服が紺一色に対し、夏服と合服は白地がベースになる。セーラーとカフス部分、リボンが紺色で、かわいいと評判だ。この辺では一年を通してセーラー服なのは北高だけだから、それを理由に受ける女子もいるらしい。

「そうか。確かに、以前より人が話し掛けてくるようになった気はする」

「はっきりと表情に出なくても、雰囲気で伝わるんだよ。前は黙って見下ろされたら冷ややかで怖かったけど、今はそんなことないしね」

 以前の凍てつくような波動を発す位坂を思い出しながら、味噌汁を飲む。

 結局、位坂とは月曜と木曜、万里とは火曜と金曜に食べている。まだ三人揃って食べたことはないが、文化祭の二日目は模擬店を一緒に回った。つかず離れずが、ちょうどいい距離感なのだろう。

「翡川のおかげだな」

「お互い様だよ。私の背が伸びたの、万里さんと位坂くんのおかげだから」

 乱れのない箸使いでキャベツをまとめる位坂に笑い、最後の生姜焼きを口へ運ぶ。

 私の背が三センチ伸びたように、位坂は少し感情を表に出せるようになった。関わり合う中で、少しずつ傷が癒えていく。

「そういえば文理選択、結局どうしたの?」

「あのまま文系で、選択は地理と物理で提出した」

 位坂は法学部志望だから、文系を選ぶのは間違っていないだろう。ただし本人は数学と物理が得意な、完全なる理系脳だ。そのため提出した文理選択票がすんなり受理されず、差し戻されて教師との折衝を繰り返していた。

 法学部を目指す理由は聞いていないが、父親のように警察官になるのかもしれない。離れていても、繋がりさえ確かならうまくいくのだろうか。その割に、一度も話題に上らない。

 今日もきれいに平らげた皿を前に、揃って手を合わせる。おいしかったね、と笑えば位坂も頷く。僅かに緩んだ目元を確かめ、腰を上げた。

 返却口に盆を返し、校舎への道を行く。満たされた腹をさすりつつ、少し迷う。何があって成長が止まっていたのか、万里にも位坂にもまだ言っていない。反応が気にならないわけではないが、二人のおかげで歩み出せたのは確かだ。できればちゃんと、打ち明けて心からの礼が言いたかった。

「あの、私の成長が止まった原因、話してもいい? 気持ちのいい話じゃないけど」

 確かに私の成長を止めた原因ではあるが、この地域に住んでいる小学生にとっては悪夢でしかない事件だ。控えめに見上げた位坂は、真摯な表情で頷いた。

「位坂くん、六年生の時に第一小学校で起きた事件、覚えてる?」

「ああ。六年生の女子が殺害された事件だろう」

「あの事件で殺された子、私の親友でね。私はそのショックで、成長が止まってたの」

 打ち明けるのにはそれなりに勇気が必要だったが、位坂は、そうか、とあっさり受け入れる。驚いているのかどうか、表情からは読み取れなかった。

「なんとなく、そうじゃないかとは思っていた。六年生の残り三ヶ月が不登校だったと話していたし、坂尾先生との会話からも察せた」

「そっか。分かってて、黙っててくれてたんだね」

 確かに、それなりに情報は流していた。もしかしたら、万里も気づいているのかもしれない。二人とも気遣ってくれるタイプだから、黙って見守ってくれていたのだろう。

「いや、気遣って話さなかったわけじゃない」

 少し間を置いて否定した位坂を見上げる。見下ろす視線が一瞬、揺れた気がした。

「少し、いいか」

 後ろに迫る男子の群れに、位坂は中庭を指差す。頷いて、渡り廊下から中庭へ抜けた。

 緑美しい中庭はそれなりに寛げる場所だと思うのに、なぜか人気がなくていつも閑散としている。ベンチで弁当を食べるのも、私と万里を入れて三組ほどだ。わざわざ外に出て話をしようとは思わないのかもしれない。

 位坂は程よく視線を遮る譲葉の下で足を止め、振り向いた。

「その事件の加害者、道井蓮士は俺が通っていた剣道道場の先輩だった」

 初めて聞く事実に、足が止まる。一瞬ふっと何かが途切れて、戻った。土を踏む足元がふわふわと、覚束ない。

「いじめられがちな俺を唯一庇って、励まし続けてくれた人だった。中学生になる頃にはもう来なくなっていたけど、小学生の俺にとっては憧れの人だった。でも」

 位坂は呆然とする私を避けて、話し続ける。私を見ては「憧れ」なんて言えないからだろう。私の目を見てそんなこと、言えるわけがない。

「信じて、憧れていたからこそ余計に裏切られたと感じている。俺はずっと、あの人のようになりたいと励んでいたから」

 あの頃、「素行に問題のあった中学二年生」「半年前から家出をしていた」と聞いた。耳に入ったのは、補導歴や悪童ぶりの噂ばかりだった。その何割が事実だったかはともかく、「まさかあの子があんなことをするなんて」じゃないのだけは伝わった。

 そんな人が憧れだったと言われても、ついていけない。

「俺は将来、刑事になるつもりだ。今の警察に捕まえられないのなら、俺があの人を捕まえる。必ず捕まえて、罪を償わせる。北高に来たのは、その道に一番近いルートだからだ。いくらなりたくても、試験に落ちたら無理だからな」

 位坂にしては珍しく熱を感じる意見だったが、逆に私は熱が冷めて腹の奥で昏いものが湧いていた。

「償わせるって、どうやって? 殺したんだから、法律改正して死刑にすればいいんだよ。一度殺してるんだから、何十年刑務所に閉じ込めたって、出てきたらまた殺すよ」

「殺人の再犯率は一パーセント台だ」

「ゼロじゃない限り、誰かはまた殺してるってことでしょ。誰が殺して誰が殺さないかなんて、位坂くんに分かるの?」

 思わずきつく言い返した私に、位坂は黙る。

 ああ、しまった。違う。位坂が悪いわけではない。責めるべき相手を間違えてどうする。

 余裕のない胸で荒い息を吐き、冷たい汗の滲む顔を覆う。胸の内も腹の中も、混ぜ返されたようで気持ち悪い。生姜焼きなんて、食べなければ良かった。学食なんて。

 また道を逸れていく恨みを抑え、ゆっくりと深呼吸をする。手を下ろし、合わせられない視線を位坂の襟元にやった。

「ごめん。私だめなの、あの人には恨みと憎さで残酷なことしか言えなくなる。位坂くんが殺したわけじゃないのに、責めたくないのに抑えきれない。これ以上傷つけたくないから、行くね」

「待ってくれ」

 位坂は早足で離れようとした私を呼び止め、腕を掴んだ。

 驚いて向けた視線の先で、位坂は苦しげに顔を歪める。怒りのように、はっきりと分かる。でも、こんな感情が表出して嬉しいだろうか。

「……ごめん。言いたいことはあるのに、言葉が探せない」

 位坂は手を離したあと、視線を伏せて詫びた。

「少し、時間をくれないかな。今は話せば傷つけるのが分かってる。こんなことで、大事な友達を失くしたくないの」

 位坂を責めるのは間違っている。間違っているのに止まらないのは、私に原因があるからだ。これ以上、近づいて傷つけたくなかった。

 黙った位坂に踵を返し、走って校舎を目指す。繰り返し滲む涙を、拳で拭った。

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