第21話
私がバスに乗るまで見届けた位坂は、手を振る私に軽く手を挙げて応えた。これから反対車線へ移って位坂もバスに乗るのだろうが、心配がないわけではない。いくら体が大きくて体幹を鍛えていても、相手は不審者だ。
『今日はありがとう 気をつけて帰ってね』と送ってすぐ揺れた携帯は、母からの通話着信を告げていた。
すぐに着信を拒否したあと『今バスに乗ってる』とメッセージを送る。
『大丈夫なの? 一人?』『一人だけど大丈夫。友達にバス停まで送ってもらった』『気をつけて帰って ごめんね』
やりとりを終えた携帯をポケットへ戻し、溜め息をつく。謝られるとつらいが、仕方ない。私には、母しかいないのだから。
私がいなければ、母は楽になるだろうか。仕事で迎えに来られない罪悪感は消えるし、私がいるからできない仕事にも取り組めるようになる。そうすれば今よりもっと自分の好きなようにできて、昇格もできるかもしれない。
だめだ、どんどんいやな人間になっている。
『今、バスに乗った。俺は大丈夫だと思うが、気をつける。翡川もバスを降りてから気をつけてくれ。家に着いたら、念のために連絡を。』
届いたメールに少しだけ胸が楽になる。くもりガラスを拭い、まだ蕭々と降り続ける雨を眺めた。
午後九時を過ぎて届いた学校からの通知には、明日の前期修了式は保護者送迎による登下校とし、困難な場合は公欠扱いとあった。これなら休校にしてしまえばいいのに、対応が中途半端過ぎる。
理由として書かれていたのは、『不審者が女子中学生に危害を加えて逃走中』のみ。ただ、夕方のニュースで何が起きたかは分かった。
映像に映っていたのは、鵲寺だった。不審者は昨日の夕方から夜の間に市内の女子中学生を襲い、そのまま連れ去ったらしい。北高周辺をパトカーが行き交っていたのはそのせいか。こんな通知が来るのだから、まだ見つかっていないのだろう。ここの警察はまた、取り逃がすのだろうか。
――今の警察に捕まえられないのなら、俺があの人を捕まえる。必ず捕まえて、罪を償わせる。
位坂はあの事件がなければ警察官には、父親と同じ道は選ばなかったような気がする。でもそれを捻じ曲げるほどの感情が、位坂の中に湧いた。それだけ、蓮士を信じていたのだろう。
不意の揺れに視線を落とすと、携帯がトーマスからの着信を告げていた。どうしよう、風呂上がりで死ぬほど気を抜いている。
洗いざらしの髪を手櫛で整え、よれた部屋着の襟を撫でる。新しいのを買っておくべきだった。
後悔を噛み締めながら通話ボタンを押す。ごめんね夜に、と馴染んだ声が聞こえた。
「大丈夫です。お風呂上がってちょうどぼんやりしてるとこだったので」
「そっか。今日は大変だったと思うけど、ちゃんと帰れた?」
湿り気の残る毛先をまとめつつ、穏やかな問いに頷く。見えなくても、恥ずかしい。
「はい。バス停まで位坂くんに送ってもらいました」
バスを降りてからは一人だったが、パトカーや見回り隊の車が走っていたから安全だった。
「今回の話は、どこまで知ってる?」
「夕方のニュースで言ってた、不審者が昨日の夕方から夜の間に女子中学生を襲って連れ去ったってとこまでです」
なぜそう判断したのかまでは、語られなかった。もちろん被害者の名前も出ていない。場所から言って多分北中の子だとは思うが、分からない。
「これは、僕がお友達の警察官にオフレコで聞いたことなんだけど」
少しの間を置いて、トーマスが切り出す。「お友達の警察官」をどう脅したのだろう。「先に見つけても殺さない」契約でもしたのだろうか。
「連れ去られたのは、四年前に殺された志緒ちゃんの親友の妹だよ。あと、現場に落ちていた傘から、道井蓮士の指紋が出た」
一瞬、頭の中が真っ白になる。聞こえているのに、すぐには理解できなかった。親友、現場、指紋、と単語が頭の中を舞う。
美璃が、蓮士に連れ去られた。
理解した途端、全身から汗が噴き出す。携帯を持つ手が震え、立っていられなくなってベッドに座った。喉が干上がったように乾く。四年前の、事件を告げられた時と同じだ。
「僕は、志緒ちゃんには調べる権利があると思ってる。生きていくためにね。でも、もちろんだけど無理強いはしない。もし調べる覚悟があるなら、もう少し詳しい話もできるよ。その気になったら、院においで」
トーマスは私が小さく了承する声を聞いて、通話を終えた。
覚悟。覚悟、か。ベッドで横になり、落ち着かない体を丸くする。
私は蓮士の顔をよく覚えていないが、調べていたら偶然出会うかもしれない。私は気づかなくても、蓮士は容赦なく殺す可能性だってある。
それでも調べて明らかになれば、私の時は本格的に動き出す。不完全だとしても、もう十二歳の見た目ではなくなるはずだ。ただ、今は無理だ。決められない。
大丈夫、大丈夫だから。
荒く打つ胸を押さえ、宥める言葉を繰り返す。新しく楔が打ち込まれたのではなく、あの日に打ち込まれた楔が更に深く突き刺さったような感覚だった。終わっていないのだから、当たり前だ。
せっかく動き出したのに、また止まってしまう。
浮かんだ万里と位坂の顔に、涙が滲む。二人は、まだ何も知らないはずだ。知ったらどうするだろう。私が調べることに反対して、辞めるように説得するだろうか。それで、そのままもう二度と分かち合えなくなって終わるのか。
また、友達を失うのか。
綿毛布を被り、居間に背を向けて壁際へ寄る。母に聞こえないよう、声を殺して泣いた。
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