第5話

 翌日、予定どおり保健室を目指す。本来なら休憩時間に行くべきところだが、生徒達がいる状況では話がしにくい。昨日だって一時間休んだし、今更だ。

「翡川さん、話を聞くために休んでるでしょ」

 隣に腰を下ろして、坂尾が尋ねる。年は確か、三十半ばになるはずだ。笑うと糸のように細くなる奥二重の目、なだらかな鼻筋、肉づきの良い頬。ふっくらとして角のない見た目は、いつも安心感を与えてくれる。それでもやっぱり、髪型やメイクには母と似た粗が見えた。

 坂尾はスクールカウンセラーから養護教諭に転職し、昨年度から北高で働いている。共田は北中で、東中の私と同じように坂尾のスクールカウンセリングを受けていた。私は一年半ほどだが共田は二年間、坂尾の世話になっていたらしい。

「そうです。自分の中で踏ん切りをつけないと、先へ進めなくて」

「まあ、そうかもしれないね。気持ちの置きどころがないのは、私も一緒だから」

 坂尾は寂しげに笑んで溜め息をつく。柔らかそうな手の左には、あの頃にはなかった指輪がはまっていた。苗字は変わっていないが、結婚したのだろう。

「私、警察の結論には疑問があるんです。事件性がないのは納得してるんですけど」

「そう。どの辺が気になるの?」

「御守を持って飛び降りた理由、です」

 坂尾は頷き、揃えた膝を少し私の方へ向けた。自分と意見が違っていても否定せず、いつもこうして聞いてくれる。トーマスは「事件のショックが消えないこと」と「学校に行けないこと」を分けて考えていて、前者の治療を優先していた。後者に触れることもあったが、基本的には坂尾の指導を補強するような診察だった。私の中には、二人がタッグを組んで助けてくれたイメージがある。

「私には、共田さんが御守を握って学校生活の挫折をアピールしながら飛び降りた、とは思えないんです。死を選んだのは、もうこれ以上どんなものにも傷つけられたくなかったから、耐えられなかったからですよね? それなら、あんな風に自分の傷口を拡げるようなことをするでしょうか。矛盾してませんか?」

「確かにそうね。でも自ら死を選ぶ時点で、言葉は悪いけど『普通の感覚ではなくなっている』の。正常な判断のできる状態では起こりえないことよ。彼女は、自責の念で追い詰められてたの。何を言ってももう、届かなかった」

 坂尾は声を揺らしたあと、俯いて鼻を押さえる。

――大丈夫、大丈夫だから。あの子はもう、どうしようもなかったの。

 あの日、取り乱した声を思い出す。普通の状態なら、生徒を「どうしようもなかった」なんて言わないだろう。坂尾も、普通ではいられなかったのだ。

「もし、もしですけど、共田さんが御守に対して違う意味を込めてたとしたら、どんなものがあると思いますか? 共田さんのお母さんは、あの御守を『勉強をがんばってた時にもらったものだと思う』と言ってました。私は、好きな人にもらったのかもしれないと思ってて。合格したあとも『合格御守』を持ち歩くくらいだから」

「じゃあ、『彼の期待に応えられなかった自分に絶望して』だと?」

「いえ、もっと単純に『くれた人に振られたから』かなと。好きな人と同じ高校に行きたくてがんばって勉強したのに、って」

 今の時点での予想を伝えると、坂尾は少し顔を強張らせた。相手がこの学校にいると言っているのだから、当然だろう。

「共田さんは中学校三年間、教室へ行ってませんよね。学校では、御守を渡してくれるような関係の人はいなかったと思います。可能性があるのは、適応指導教室へ通っていた生徒です。先生なら、誰が適応指導教室出身か分かりますよね?」

 ようやく本題へ辿り着いた私に、坂尾は視線を伏せて深い溜め息をついた。

「個人情報の保護を抜きにしても、私が教えるのは無理よ。もしその理由だったら、振った彼は今も黙っているわけでしょう? 誰にも言えず、今頃きっと自責の念で潰れそうになってるはずよ。そのうち、教室にいられなくなってここへ来たくなるかもしれない。でも自分の情報を流した先生のいる保健室は、もう安全基地じゃなくなる。行き場として機能しなくなってしまうの」

 ああ、そうか。確かに保健室は救われたくて来る場所だ。弱みを見せても受け入れてもらえる場所。救われ続けた私が、奪ってはいけない。

「それに、もし本当に彼女が適応指導教室出身の子に振られて飛び降りたのなら、次の悲劇を生むかもしれない。慎重に取り扱わなきゃいけない問題よ。できれば、彼が自らここにきて打ち明けられるまで待ってくれないかな」

 坂尾には、もう心当たりがありそうだった。ただまだ何か、引っ掛かる。言葉にできない小さな違和感が胸に湧いた。

「はい。分かりました」

 違和感はともかく、相手のことを考えれば今はそっとしておく方がいいのだろう。私は知りたいだけで、追い詰めたいわけではない。でも、時間は掛かりそうだ。

 翡川さん、と小さく呼ぶ声に口元をさする指先を止めた。

「納得したい気持ちは分かるよ。でも、あまり深入りして同調しないようにしてね。周りが理不尽や後悔を感じない死なんてないの。あなたは、前に進まなきゃ」

 多分それは、トーマスの言葉と同じ意味だろう。死者のために、生きてはいけない。

「そうですね、気をつけます」

 分かったような言葉を返したが、多分分かっていない。気を抜けば、そのことばかり考えている。事件の日や翌日は眠りすぎるほどだったのに、そのあとから眠りが浅い。目を覚ます度に、共田のことを思い出してしまう。

「残りの時間は、休ませてください」

「ええ、どうぞ」

 坂尾は頷き、腰を上げてデスクへ向かった。こちらが話を終えれば、あっさりと離れていく。つかず離れずの、ありがたい距離感だった。

 一息ついてソファへ凭れると、あくびが漏れる。トーマスの予約は明後日、しばらくはこまめに通う予定だ。今度行ったら、素直に薬の処方を受けよう。

 目を閉じると、ぼんやりとした眠気が訪れる。少し眠れるかも、と思った瞬間、落ちてくる彼女の影が脳裏をよぎった。

 すぐに目を開き、周りを見回す。……大丈夫だ。今じゃない。

 長い息を吐き、顔をさすりあげる。こめかみに滲んだ汗を拭い、荒く打つ胸を押さえた。

――彼女のためじゃなく自分のために調べるんだよ。

 トーマスの言葉を思い出しながら、衝立の方を眺める。共田はその向こうに机を構えていて、時折こちらをうかがっていた。今はもう、どこにも。どこを探してもいない。もう少し視線を奥へ向け、外を眺める。彼女の落ちた空は今日も、よく晴れていた。

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