第4話

 『今日、先生のとこでごはん食べて帰る』『了解、遅くならないようにね』

 『ばんごはん食べさせてください』『おう。手伝えよ』

 普通は逆だろうが、この順番でも割と問題ない。芳岡よしおかは、五年生の時の担任だ。今は異動先の小学校で、一年生の補助教員をしている。そして、母の恋人でもある。二人を結びつけたのはほかでもない、私だ。

 芳岡は二年前、駅前のコンビニ前でナンパ中の少年達を注意して暴行されケガを負った。その時、少年達の中に教え子だった蓮士に似た姿があったと証言したのだ。

 噂はすぐに駆け巡り、私の元まで届いた。いてもたってもいられなくなって情報を掻き集め、入院中の芳岡の病室まで押し掛けて再会した。

 でも、しばらくして捕まった少年達の中に「蓮士に似ている少年」はいたが、本人はいなかった。蓮士と同級生の少年もいたものの、「事件の前から会っていない」と隠蔽も関わりも否定した。

 その頃には私だけでなく母との親交も深まり、老齢で体が不自由な芳岡の母親には難しいリハビリを手伝ったり、家に行くようになったりしていた。芳岡の家は北高の東側、旧武家屋敷の立ち並ぶ東鞍寺とうあんじ一丁目にある。芳岡邸も山を背に門を構えた古くて広い大屋敷だ。敷地内には母屋のほかに離れや蔵まである。ちなみに我が家は東鞍寺五丁目、そこから五百メートルほど東にある地区の古びたアパートだ。2LDKで家賃は六万円。県職員や教員には宿舎があるが、転勤しても知れている市職員には準備がない。

 今のところは私も公務員試験を受けて高卒で働くつもりでいるが、母とは意見が割れていた。

 薄闇に沈んでいく武家町の細い道を、山に沿って自転車を走らせる。高齢化の進むこの辺りは、朝も夜も早い。午後六時近くにもなれば通りに住民達の姿はほぼ見えず、古びた街灯が消えかかった道路の白線をぼんやりと照らしている。白壁や石垣が続くせいか、数百年前にタイムスリップした気分だ。

 到着した門前に自転車を止め、一旦降りる。先に長屋門の通用口を開けて戻り、自転車を抱えて乗り越えた。仕方ないことだが、江戸時代にバリアフリーの概念はない。

 くぐり抜けると、今日は前庭や式台玄関の灯りが点いていた。もう日が落ちて色が沈んでいるが、今の時期は緋色のツツジが満開で美しい。少し離れたところには、老齢の松が重たげな枝を垂らしていた。

 芳岡の話では、屋敷は住みやすさを優先して拒否したが、長屋門と白壁は文化財の指定を受けているらしい。ここに来るまで、住んでいる家が文化財指定の打診を受けることや、文化財の中で暮らす人がいるなんて知らなかった。

「先生、ただいま」

「おかえり。なんだ、学校から直帰か。遅いな」

「いや、学校はいつもどおりだったんだけど、共田さんの家に手を合わせに行ってて」

 台所でコンロへ向かう芳岡に答えつつ、袖をまくりあげて手を洗う。建物は古いが、台所だけは新しい。料理が趣味の芳岡が三年前、彼女に振られた勢いでリフォームした結果だ。

 まるで厨房のようなキッチンはオールステンレスでコンロはガスの四口、シンクは二つでサイズも違う。床はタイル張りで排水溝も設置され、デッキブラシで洗い流せるようになっている。

――もう一生独身の都合で散財したんだよ。

 いつだったか、中華鍋を揺らしながら苦笑した。

 三年前ならまだ三十八だし、仕事だって安定の教員だ。そもそも大地主の家だから、働かなくても食べていける。いくらでもチャンスはありそうなのに、振られたのが相当堪えたのだろう。もしかしたら、二年前の事件も自棄が入っていたのかもしれない。

「おふくろさん、どうだった?」

「やっぱり、すごく憔悴してた。慰めたかったけど、言葉が出なかった」

 何を言っても上滑りしそうで、選べなかった。私は親友を亡くした立場だが、それでも「分かります」とは言えなかった。

「亡くした経験は同じでも、悲しみは自分だけのもんだからな。安易な言葉を掛けるくらいなら、黙ってた方がいい」

 芳岡は答えて、フライパンを揺する。少しぶっきらぼうなところはあるが、嫌味はなかった。

「今日は何?」

 清めた手を拭い、立ち上る甘辛い香りを深く吸い込む。

「鹿肉丼と山菜の味噌汁、たけのこの煮物とサラダだな。適当に野菜出してサラダ作ってくれ。あと冷凍庫から刻みネギ出して」

 はーい、と答え、冷蔵庫へ向かう。大型の冷蔵庫は業務用、隣にはこれも業務用らしい冷凍庫が置かれている。マイナス八十度まで設定できて食材を瑞々しく保てると、自慢げに言っていた。男のロマンらしい。

「もう普通に食えるか?」

「うん、大丈夫」

 冷蔵庫からきゅうりとレタス、プチトマトを選んだあと冷凍庫の蓋を持ち上げる。重ねられたバスケットから、刻みネギの容器を選んだ。ほかのバスケットには、密閉袋に小分けされた猪肉や鹿肉がきっちりと収納されている。残り半分は、ドライアイス。新鮮さに拘る芳岡のお裾分けには欠かせないものらしい。お中元のドライアイスを貴重品扱いしていた幼き日の私を鼻で笑うかのような量がある。これも男のロマンなのだろうか。

 それはさておき、芳岡自身もかつては銃を構えて狩猟や害獣処理に出掛けていた人だ。でも、あのケガのあと狩猟免許と銃を手放した。今はもっぱら捌いてジビエ料理をこしらえ、私と母に振る舞う暮らしをしている。母屋の裏では、引いた鹿や兎の革がよく陰干しされていた。

「ただ、ちょっと引っ掛かるんだよね」

「食えないか」

「違う、共田さんのこと」

 野菜と刻みネギを抱えて戻り、刻みネギの容器を渡す。壁に引っ掛けられたザルをシンクへ置き、野菜を入れて水を出した。青白い蛍光灯の光の下で、緑と赤が水を弾く。

「共田さん、合格御守を手に飛び降りたらしいの。それで警察は『挫折を感じての自殺』って判断したんだって。でも、なんか違和感があって」

「どこに」

 きゅうりを洗いつつ視線をやると、芳岡も菜箸の手を止めて私を見た。母より五センチほど高いから、一七〇を越えたくらいだろう。細く見えるが、トーマスのように華奢ではない。骨は太そうだし、引き締まっている。

「挫折って、人に知られたくないものでしょ? 特に私や共田さんなんて、挫折だらけでぼろぼろだよ。共田さん、私が保健室にいても遠くから眺めるしかできないくらい傷ついてた。そんな繊細な子が、わざわざ御守握って『私が飛び降りた理由はがんばって合格したけど挫折したからです』なんて周りに知らせようとするかな。挫折してもう傷つくのが耐えられないから飛び降りたんなら、矛盾してない?」

 彼女はあちら側へ行けない劣等感や自分への怒り、絶望で潰れそうになりながら通っていたはずだ。これ以上傷つかないために死を選び飛び降りたのなら、そんな傷口を拡げるようなアピールをするとは思えない。

「その御守をくれた人と何かあってつらくて、握ったまま衝動的に飛び降りたって方が自然じゃないかな」

 トーマスも、強い衝動に支配されていたと言っていた。私も、その方がしっくりくる。

 芳岡は、そうだなあ、と返しつつ、隣の鍋を確かめる。たけのこは、うまく煮えただろうか。

「挫折が原因だと判断したのは、御守以外にも理由があるんじゃないか。まあ志緒の理由が正解だったとしても、事件性はないってことなんだろ。たとえ『死ね』って言われてたところで、一度じゃいじめ認定は難しいしな。警察は事件性のないものは深追いしない」

 芳岡は鍋の中を菜箸でちょいちょいとつつきながら、大人の見解を返す。見た目の印象にそぐわない、至って常識的な意見だった。

 横顔の凹凸は滑らかで、彫りの浅いなだらかな造りだ。涼やかな一重の目尻は少し吊って、尖った鼻先は下を向いている。顔立ちは悪くないが、眉間の皺と眼光の鋭さが問題なのだろう。育ちも良いはずなのに、黙っていると悪人に見えてしまう。専門教科は理科だが、実験で白衣を着るとマッドサイエンティストのようだった。いつだったか、高学年ばかり回されて低学年を受け持てないのが悩みだと話していた。

 図らずも一年生を担当している今を、どう感じているのだろう。来年からはクラス担任に復帰するつもりらしいが、無理はしないで欲しい。

「多分、保健室の先生や周りの証言じゃないかな。『二日しか教室で過ごせなかった自分を責めてた』『環境が変わったのに戻れなかったって絶望してた』って言ってたし」

「御守はその無念を象徴するもの、か」

「筋は通ってるんだけど、なんかね」

 坂尾には明日も話を聞くつもりだが、挫折説は覆らないだろう。納得できないのなら、自分が事実を辿っていくしかない。

「調べるのか」

 言い当てられた思惑に、レタスをちぎる手を止めて俯く。

「友達に、なれるかもしれないって思ったの。次に会ったら声を掛けようって」

「調べれば、記憶も戻るぞ」

 芳岡は目の前の棚からまな板を取り出し、壁に貼りつけていた包丁を置いた。持ち手と刃が一体になった銀色の包丁は、よく研がれて光を弾く。

 節の目立つ指で洗い終えたきゅうりをまな板に引き受けたあと、払うように軽く左手を振った。芳岡の負ったケガは左手首と肋骨、鼻の骨折と全身打撲、裂傷。一通りのリハビリは終わったが、左手は今もたまにどこかがズレた感じになるらしい。それでも彼らに厳罰は求めず、教育による更生を望んだ。芳岡は多分、蓮士にも同じことを思っているのだろう。でも私は違う。トーマスほど過激ではないが、私は死刑にして欲しい。もちろん少年法に守られているから、実際に無理なのは分かっている。

「思い出した方がいいんじゃないかな。これ以上不自然を抱えるのは、いいことじゃないと思う。彼女の影に怯えて生きるなんて失礼だしね」

 思い出せないのは多分もう、落下したあとの彼女の姿だけだ。そこだけが埋まらない。でもそれを「不幸中の幸い」だとは思いたくなかった。

「分かった。でも無理はするなよ。母さんが泣くし俺も泣くぞ」

 芳岡は、私より遥かに慣れた手つきできゅうりを刻んでいく。一度は反対されると思っていたのに、意外だった。

「……いいの?」

 ちぎり終えたレタスの水を切りながら、隣を見上げる。

「どんなに心配でも、ずっと前にいて露を払ってやるわけにはいかないだろ。その方が遥かに楽だけどな」

 芳岡は太く疎らな眉尻を下げて苦笑したあと、作業台のサラダボウルを私へ差し出す。

「ありがとう」

 ふと揺らいだ姿に、目元を拭いつつサラダボウルを受け取る。弱っているせいか、優しい言葉にすぐ涙が出てしまう。でも、後悔や悲しみで流す涙よりずっといい。

 ガラスボウルへレタスとプチトマト、薄切りにされたきゅうりを入れる。結局、ほとんど働いていない。

「丼出して、メシ入れてくれ」

 物足りなさを埋める指示に、頷いて食器棚へ向かった。

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