第3話

 北高は今年で創立百四十年、藩校の流れを汲む県内屈指の進学高だ。かつて城を構えていた鴛緑山えんりょくざんの麓にあり、北に山と城跡を眺める。文武両道を掲げて部活動にも力を入れ、剣道や薙刀は全国大会の常連らしい。生徒数は約九百人、人口十八万のど田舎地方都市の中では大規模校の扱いだ。

 そんな高校にどうして私や共田のような保健室組が合格できたのか、理由は入試の当日点と内申点の比重にある。県内の全日制普通科がみな五対五を採用する中で北高だけは七対三、つまり内申点の比重がダントツで低い。つまり不登校だろうが保健室登校だろうが、「当日点さえ良ければ合格できる」のだ。とはいえ偏差値は六十七、そう簡単に越えられる門ではない。共田もきっと、強い意志を持って目指したのだろう。でもその努力をかき消すほどの衝動に襲われて、命を絶った。

 共田が飛び降りたのは第一校舎の三階、三年一組の教室からだった。坂尾の話では、共田が一日を終えて保健室を出たのはいつもどおりの四時。いつも生徒がある程度掃けるのを待って帰っていたらしい。私は三時五十五分に職員室を出てすぐ脇の階段を下り、保健室の前を通って教室へ戻ったからニアミスだ。もし会えていたら、道は変わっていたかもしれない。でも会うことはなく、共田は三年一組に走り込み、デイパックを投げ捨て、開いていた窓から飛び降りた。四時五分頃、だ。

 練習中だった吹奏楽部のトロンボーンパートが、その様子を目撃していた。私が聞いた声は、彼らのものだったのだろう。


「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」

 か細い声で私を迎えてくれたのは、母親だった。顔色は悪く、束ねられただけの髪が痛々しい。当たり前だが、母とは比べものにならない憔悴具合だった。共田には、弟がいるらしい。小さな玄関のたたきには、小さな運動靴が揃えてあった。

「いえ、こちらこそありがとうございます。休んでいてお葬式に出られなかったのが気になって」

 坂尾に頼んで連絡してもらい、訪問の許可をもらった。どうしても、手を合わせておきたかった。

「お加減、もう良くなられました?」

「はい。今日から復帰しました」

「そうですか、良かった」

 肩越しに振り向いた母親が、ほっとした表情を浮かべる。私が休んだ事情を知っているとはいえ、よその子を心配している余裕なんてないはずだ。何も返せず、俯いた。

 通された和室の一角には即席で設えられた仏壇があり、共田の遺影と骨壷の入っているらしい白い箱が置かれていた。遺影の彼女は、私が覚えているものとそう変わらない。優しい顔立ちと、肩につく長さの髪。最後の姿はまだ、思い出せない。

「入学した時に、撮ったんです。写真なんて久し振りでした。北高に行けるのが、本当に嬉しそうで」

 少し上擦った声に頷いたあと、線香を上げて手を合わせる。今の私にはもう、安らかな眠りを祈ることしかできない。少し滲んだものに洟を啜り、ゆっくりと目を開く。ふと、遺影の脇にある御守に気づいた。

「この御守は?」

紗弥さやの手元にあったらしいんです。警察の方は、思うように過ごせない自分に挫折を感じて飛び降りたんじゃないかと。ずっと不登校や、保健室登校だった子ですから」

 母親は正座の膝で手を握り締めながら、警察の結論を告げる。挫折を感じて御守を握り締めて飛び降りた、か。

「実は、私も似たような状況だったんです。六年生の残り三ヶ月くらい、不登校でした。中学へ入学したあとも、二年生の前期までは、保健室登校とスクールカウンセリングでどうにか通ってました」

 打ち明けた私に母親は、ああ、と納得した表情を浮かべる。「クラスメイト」や「目撃者」以上の訪問理由を察したのだろう。

「紗弥は、小学校の頃にいじめに遭ってから不登校になりました。中学も、不登校のまま入学しました。一年目は全く通えなくて、スクールカウンセラーの先生に家庭訪問していただいて。二年目からは、適応指導教室と保健室登校で通いました。これまでにない刺激を受けてやる気になったのか、三年生になってから突然『北高へ行きたい』と言い始めて。三年目も教室には入れなかったんですが、適応指導教室でがんばってました。この御守は、その頃に励ましてくれたどなたかに頂いたものだと思います。励ましに応えられなかった不甲斐ない自分に、絶望してしまったんでしょうね」

 不甲斐ない自分に絶望。さっきからなんとなく、違和感が拭えない。しかし俯き目元を拭う母親に、言って良いものではないだろう。

 断りを入れ、御守をそっと手に取る。白い御守の表には『合格御守』、裏には『鵲寺かささぎでら』と金色の糸で刺繍されていた。鵲寺は、北高近くにある寺だ。

「あの日、調子を崩して保健室へ行ったら共田さんがいました。すぐに保健室登校だと分かったんですが、突然声を掛けたら負担になるかもしれないと思って。次に会ったら声を掛けるつもりで、手を振って帰りました。友達になれたらいいなと、思っていました」

 震えた声に唇を噛み、御守を置く。滲んだ涙に目元を拭い、遺影の笑顔に小さく詫びて座布団を下りた。

「ありがとう、ございます。あの子もきっと」

 堪えきれず泣き出した母親に、俯く。遺された母親の悲痛な声を聞くのは、これで二度目だ。二度目だって、何度目だってこんなもの、一生慣れるわけがない。

――志緒ちゃん、いつも来てくれてありがとう。でも、今年でもうおしまいにして欲しいの。勝手なことを言ってごめんね。もう、先へ進む志緒ちゃんの姿を見るのが、つらいのよ。

 思い出された去年の冬に、視線を落とす。改めて身に沁みる無力感をどうにもできず、拳を固く握り締めた。



 共田のアパートを出て自転車に乗り、思い立って南へ下る。ここからなら、五分も漕げば着くだろう。行ったからって別に何も変わるわけではない。私が再び育ち始めるわけでも、四年前に戻れるわけでもない。それでも、もう逃げ出さないために見ておきたい場所があった。

 目的地へ近づくにつれ、ランドセルを背負った子供達が連れ立って歩く姿が見え始める。そういえば、学童が終わる時刻だ。私もあの頃は無邪気な列の中にいて、他愛のない話を一大事のように話し合いながら帰っていた。掃除当番のほうき担当とか、次の席替えとか。この日常が崩れる日が来るなんて、考えたこともなかった。

 予想どおり五分で着いた土手に自転車を止め、荒れた息にセーラーの胸を押さえる。見下ろした先にあるのは、私が卒業した第一小学校の体育館側だ。体育館の北側にプールがあり、その手前には学級菜園が広がっている。以前は体育館とプールの間に温室があったが、今はもうない。

 四年前の十二月、その温室で殺人事件が起きた。殺されたのは、秋浜あきはま希絵きえ。同じ町区で育った、私の幼なじみで親友だ。

 犯人は道井みちい蓮士れんじ、私達と同じ第一小学校の卒業生で当時は十四歳だった。未成年でおおっぴらに捜査できないせいなのか、未だ捕まっていない。完全に消えてしまったのだ。

 ど田舎で起きた悲惨な事件に、地域は震え上がった。以来学校は厳重なフェンスで囲まれ、防犯カメラの数も増えたらしい。今更そんなことをしたって手遅れだが、次の犠牲を防ぐことでしか希絵の死を悼めない。もう二度と誰も犠牲にならないように、できることをするしかない。そうすることでしか、償えないのだ。

――僕達は、死者のために生きてはいけないんだ。

 あれからずっと、トーマスの言葉を胸で繰り返している。あと何回繰り返せば、私は心の底から理解できるのだろう。

 小学校へ向かい、今日二度目の手を合わせる。

 希絵ちゃん、私がんばるよ。もう逃げないから、見てて。

 手を下ろし、頑丈そうな高いフェンスを眺めたあと自転車に乗った。

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