第2話

 翌日は学校を休み、かかりつけの小児科へ向かう。昨日の一件については既に母から聞いているはずだが、トーマスはなかなか話題にしなかった。

「今年も一センチも伸びてなかったし、体重もほとんど変わらなかったし」

 胸も、と言い掛けた口を咄嗟に塞ぐ。それはやっぱりちょっと、恥ずかしい。

「今年で十六だし、女性ホルモンの治療はぼちぼち始めてもいいと思うよ。負担に感じるなら無理強いはしないけど」

 察したらしいトーマスに苦笑する。まあ今更といえば今更だ。

「今度は服用だし、二ヶ月に一回くらいと聞いてるので気持ちはかなり楽です。ただ副作用があったらいやだなあって」

「注射の負担感を十としたら、どれくらい?」

「うーん。一.七か八、くらいかな」

「刻むねえ」

 トーマスは笑いつつ、手元のカルテをめくる。総合病院はとっくに電子カルテなのに、ここはトーマスの好みで紙カルテらしい。私はこの丸椅子で、分厚くなっていくカルテを眺めて育った。

 あ、と気づいた私に、トーマスはカルテから顔を上げる。

 トーマスはいつも、まず私をぼんやり視界に映したあとで緩やかに視線を合わす、みたいな見方をする。焦点が絞り込まれて結びつく瞬間は、未だにどきりとしてしまう。

 戸増とます小児科の若先生、私がこっそり名付けた「トーマス」には、生後半年の頃からお世話になっている。母曰く、私の命の恩人だ。最初のかかりつけだった総合病院では風邪の悪化と流された私の症状を、腸重積だと見抜いてくれたらしい。

――あと数時間遅かったら、腸を切る手術しなきゃいけなかったのよ。

 不機嫌が収まらず少し眠っては泣く私を抱え、母は総合病院の夜間救急ではなく近くの小児科の戸を叩いた。そこで運命の出会いを果たしたのが、都会から戻ってきたばかりのトーマスだった、というわけだ。

 自己申告では当時三十歳、つまり今年で四十六になる。なるはずだが、まるで見えない。

 シミ一つない白い肌、物憂げに瞬きをする大きな垂れ目と長いまつげ、細く通った鼻筋、少し薄めな唇……は色が悪いのがちょっと気になるものの、美しい。長めの髪は緩いオールバックで、零れ落ちた髪が時々額や目元に影を作る。それが本当に色っぽくて、毎度見惚れてしまう。単純だが、私の初恋はトーマスだった。

「ここに通い始めて多分、十六年目に突入です」

「ああ、ほんとだね。いつもお金を落としてくれてありがとう」

 トーマスは分厚いカルテの一枚目を確かめて、にこりと微笑む。

「先生、言い方」

 物腰は穏やかだが、中身はなかなか手強い。

「ま、志緒しおちゃんのは心因性だからね。ただ月経は骨密度を上げるためにも必要だから、負担が二弱なら受け入れて欲しいな。五を越えたら注射の時みたいに治療自体がストレス源になるから、休んで様子を見てもいいと思うけど」

「そうなんですか。一度始めたら、二十歳まではずっと続けなきゃいけないのかと思ってた」

 安堵して押さえたブラウスの胸は、ぺたりと平たい。

 一五〇センチ、三十五キロ。小学校六年生からこの前終えたばかりの身体測定まで、私の記録はほぼ変わらない。一年ほど続けた成長ホルモンの注射で、身長が二センチ伸びただけだ。髪や爪は伸びるのに、その先はない。昔はおかっぱだった母譲りの茶色い髪は、今は胸の辺りで緩くうねっている。でも手脚は棒のように細いまま、顔立ちも十二歳のままだ。丸い顔に丸い目、目立たない鼻と口。困ったような下がり眉で余計、幼く見える。

 トーマスの指摘を受け、母が私を連れて大学病院へ向かったのは中一の秋だ。そこの小児科であらゆる検査を受けた結果、私は「成長を止めている」と判断された。ただその治療がどうしても合わず、中止したまま十五歳を過ごした。女子の成長ホルモン治療は、その辺りがリミットらしい。私もこのまま、トーマスみたいに時間軸を歪める存在になるのかもしれない。

「休める選択肢を知った今の負担感は、どれくらい?」

「〇.八くらい」

「視力検査みたいだね」

 トーマスはまた笑いつつ、カルテを置く。今日は白シャツにベージュのカーディガン、黒いパンツの組み合わせだ。白衣姿は見たことがない。

「ほかに、気になることは?」

 ようやく水を向けられた話題だったのに、俯く。膝の上で作った小さな拳が、きゅっと締まった。

「昨日は少し調子が悪くて、保健室に行ったんです。ソファでぼんやりしてる時、衝立の向こうから彼女が時々こっちをうかがってました。でもいきなり話し掛けて負担になったらいやだなって。教室にいられないから保健室にいるのに、保健室にもいづらくなったら行き場所がなくなるから」

 私がたまたま調子を崩して訪れた「あちら側」の生徒だったら、気軽に声を掛けていたかもしれない。でも私も、言うまでもなく「こちら側」の生徒だ。小学校の残り三ヶ月は不登校で、中学二年の前期までは保健室登校だった。あちら側の生徒のちょっとした言動に揺れては、抜け出せない自分に唇を噛んでいた。

「だから、手だけ振って帰ったんです。どうせ私もまた遠くないうちに来るだろうから、次の感触が良かったら話し掛けてみようって。でも、こんなことになるなら話し掛けておけば良かった」

 あれから、少しだけ蘇った記憶がある。保健室の外付けドアから駆け出してきた坂尾が、呆然と立ち尽くす私を連れて保健室へ戻った場面だ。

――大丈夫、大丈夫だから。あの子はもう、どうしようもなかったの。

 抱き締める腕が、震えていた。

「酷に聞こえるだろうけど、どちらを選んでも彼女の選択は変わらなかったと思うよ。その時の彼女は家族の愛情や周囲との関わり、大好きな趣味やがんばってきたこと、死の恐怖までもが吹っ飛ぶレベルの『強い衝動』に支配されてたんだ」

 トーマスはもう少し椅子を回して、私と向き合う。

「強い衝動が、選ばせたってことですか?」

「うん。きっと、もう生きていたくないと思うほどの出来事があったんだろうね。僕の聞いた話では、迷いの果てに飛び降りたって感じじゃない」

 向きを変えた話に顔を上げると、トーマスは含んだような笑みで応えた。

「気になるなら調べてみたら? 警察はどうせ、事件性のない案件の捜査は適当だし」

 続いた評価に苦笑する。警察が聞いたら、苦虫を噛み潰したような表情をしそうだ。

「私が調べたら、少しくらい彼女は浮かばれるでしょうか」

「いや、彼女のためじゃなく自分のために調べるんだよ。これは遺された者が悔いや無力感を手放すための儀式みたいなものだから。目的を間違えちゃいけない」

 私のための、か。そういえば葬式も、亡くなった人を見送るためだけのものではないと聞いたことがある。最後のお別れをすることで、心に区切りを作るのだと。でも私は、まだ区切れていない。

「僕達は、死者のために生きてはいけないんだ」

 トーマスは私をまっすぐ見据えて言う。それがこの一件だけを差していないことは、私にも察せた。それでもまだ、どうすればここから抜け出せるのか分からない。

「まだ、私には難しいです」

「そうだね。その楔が抜ける日は、志緒ちゃんの時計が動き出す日にもなるだろうから。それでも、心の片隅に置いておいて。じゃあ今日は、こんなとこかな。復帰は週明けからで調整してね」

 穏やかな声に頷いて腰を上げ、頭を下げる。

「あ、あと一昨日、証川しょうがわ三丁目の裏通りで不審者が出たから気をつけて。志緒ちゃんちの辺りも不審者がうろついてるって噂があるし。春はやっぱりクズが湧いて来るねえ。はいこれ、最新版」

 顔を上げた私に、トーマスはプリントアウトした地図を渡す。不審者情報や危険な箇所がマーキングされた、手作りの防犯マップだ。

 子供達の見守りが趣味のトーマスは、毎朝毎夕「見守り隊」の蛍光色ブルゾンを着て通学路に立ち、子供達の安全を見守っている。院長の午後診は二時半からなのにトーマスは四時半からなのは、そのせいだ。十年以上も献身を続けている筋金入りだが、まるで問題がないわけではない。

「証川三丁目のやつは同じ場所を行ったり来たりうろうろして、あちこちの写真撮ってたらしいよ。学童の子供達が撮影された。やっぱり全員にゴルフクラブ配布したいよね。クズにフルスイングしても誰も悲しまないと思うし」

 思想が過激なのだ。口だけではなく実際、不審者情報のあとゴルフクラブを手に通学路へ立って、何度か警察官に窘められている。

「……持って出てませんよね?」

「持って出たいんだけど、最近警察がすごい早さで連絡してくるんだよね。まあ、見つけたら殺すって言ってるからだろうけど」

 目を細めて笑う姿は血生臭さとは無縁の天上人のようだが、台詞は冗談に聞こえない。何か返したかったがうまく言葉にできなくて、そのまま診察室をあとにした。

 ドアを開けた途端、本を読んでいた母が、はっと顔を上げる。早速蘇るさっきの言葉を噛み締めつつ、ぎこちない笑みを作って母の元へと向かった。

「どうだった?」

「特に変わった話はなかったよ。女性ホルモン治療、ぼちぼち始めてもいいと思うよって。あと最新の防犯マップもらった。一昨日、証川三丁目に不審者が出たんだって」

 そっか、と小さく答えて母は息を吐き、手元の小説をバッグへ戻した。

 少し伏せられた琥珀色の丸い目は、私とよく似ている。昨日は眠れなかったのか、目元にはファンデでは隠せないくまがあった。普段はきちんと整えられているショートヘアも、今日はおざなりだ。耳元にはピアスがないし、隣に座ってもいつもの香りはしない。

 まだ四十歳なのに、隠せない疲れのせいでもう少し年上に見える。トーマスが時間軸を歪めた存在なのは否めないものの、母の方が年下に見えないのはあまり良くないだろう。早く安心させて幸せになって欲しいのに、なかなかうまくいかない。

「帰りがけに本屋寄って、あとは何かお昼ごはん買って帰ろう。おいしいパン屋さん、教えてもらったの。ベーグルサンドがお勧めだって」

 きっと私より堪えているはずの母が、昨日も今日も私より明るい声を出す。防犯マップを畳みつつ、寄り添う肩に少し凭れて頷いた。

 私の家族はずっと母だけ、父とは私が産まれてすぐに離婚したらしい。ずっと私のことにかかりきりだったが、少し前に恋人ができた。もうすぐ「お父さん」ができるかもしれない。

――なんかあった時の逃げ場は、多い方がいいだろ。

 私は私を大切に思ってくれる人達の、生きている人達のために生きるべきだ。頭では、分かっている。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 呟くように伝えた礼に母は答えて、少し笑った。

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