時計は二度凍らない

魚崎 依知子

一、

第1話

 じゃあ、と聞こえた声に怯えつつ視線を上げる。向かいのソファで、警察官がバインダー片手にうかがっていた。保健室には不似合いの存在だ。

「ゆっくりでいいから、今日の放課後の行動について話してくれるかな」

 まだ二十代半ば、くらいだろうか。穏やかに響く声は若々しく、棘はなかった。それでも湧く不安にぎこちなく隣を見上げると、宥めるように坂尾さかおが頷く。

「大丈夫よ、話せるところまででいいから。無理はしなくていいの」

 それでいいなら、できるはずだ。はい、と小さく答えた声が掠れて、握り締めていた缶を口へ運ぶ。甘いミルクティは、程よく気持ちを落ち着かせてくれた。

「今日は、朝から少し調子が悪くて。昼を過ぎても変わらなかったから、五限目の数Ⅰを欠席して、保健室で休みました。教室に戻ったら、数Ⅰの先生が休み明けテストの答案を取りに来るよう言ってたと、隣の子が教えてくれました」

 入学して、今日で一週間。詰め込まれていたイベントがようやく終わり、授業が始まったばかりだった。

 初めて訪れた保健室には、中学の時スクールカウンセリングで世話になった養護教諭の坂尾と、同じクラスの女子がいた。名前は思い出せなかったが、顔には見覚えがあった。週明けからクラスの席が埋まらないのは、彼女が保健室登校に切り替えたせいだろう。彼女も私に見覚えがあったのか、そこの衝立の向こうから時々私の様子をうかがっていた。でもいきなり距離を詰めていいのか分からなくて、帰り際に軽く手を振るだけにした。次に来た時には声を掛けてみようと、思っていたのに。

「放課後、掃除を終えてすぐ職員室へ行きました。ただ、テストを返して終わりかと思ったら欠課を注意されて、十分くらい説教を受けました。長いな、と思ってたまに時計を見ていたので覚えてます。三時四十五分くらいから五十五分まで、でした」

――高校の数学は、休んでたらすーぐ追いつけなくなるぞ。

 今日の欠課が気に入らなかったらしい教師は、乾いた声でひとしきり脅すような説教をした。銀縁眼鏡の、偏屈そうな五十半ばくらいの男だ。不登校や保健室登校を未だ甘えや怠けだと思っているのが明らかだった。膨らんだ腹を収めたシャツも、スーツの袖もはち切れそうで見苦しかった。

「時計を確かめたあと、職員室を出ました。教室に戻ったら担任の先生とクラスの子が面談中で、掃除道具のロッカー前にゴミ袋が残されてました。誰が捨てるとは決められてなかったけど、私も掃除当番だったので帰りに捨てて帰ろうと」

 あんな親切心を、出さなければ良かったのか。溜め息をついて、核心へ近づいていく記憶に再び缶を傾ける。手が小さく震えて、飲み口が揺らいだ。じわりと全身から汗が滲み出る。胸を打つ音も、少し速い。

翡川ひかわさん、大丈夫よ。ゆっくり深呼吸して」

 坂尾が、温かな手であやすように背をさする。頷いて、深く息を吸った。

「帰り支度をして、ゴミを捨てに行きました。予想以上に重かったので、引きずりながら」

 少し間を置いて答えたあと、数十分前の記憶にまた意識を移す。

 北高には第一校舎、第二校舎、第三校舎と三つの棟がある。第一校舎と第二校舎はL字型を組み合わせたような形で中に庭があり、第三校舎は第二校舎の北に独立していた。

「私のクラスは第二校舎の一階で、西側にあるドアから渡り廊下へ出ました。その時には何も、変わったことはありませんでした」

 第一校舎の一階西側には職員玄関と保健室、二階は職員室、三階には三年のクラスがある。ゴミ捨て場は、職員玄関前の通用口脇だ。ちなみに生徒玄関は第二校舎の一階東側、L字の短い方にある。

「重かったので手が痛くて、ちょっと休みました」

 そのあと、青草の茂り始めた敷地をゴミ袋を握り直しながら歩いた。吹奏楽部の練習の音や、校舎脇の道路を走る生徒達の声が聞こえていた。

「ゴミを捨てて来た道を戻っていた時、上の方から叫ぶような声がしました。見上げたら、『何か』が落ちてきて」

 黒い影、としか思い出せない。その先の記憶は、ごっそりと抜けていた。

「……すみません。そのあとは、思い出せません。気づいたらここで、坂尾先生と一緒にいました。飛び降りたのが同じクラスの共田ともださんだと、その時知りました」

 坂尾に言われてようやく、保健室で会った彼女と結びついた。私がためらって、声を掛けなかったあの子だ。あの時もし手を振るより話し掛ける選択を選べていたら、どうなっていただろう。友達になるきっかけを、もっと伝えられていたら。

「亡くなったんですよね?」

 涙目で見上げた坂尾が、苦しげに小さく頷く。

 また、何もできなかった。

 今頃になって湧き出した涙に顔を覆い、ひとしきり泣いた。

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