四
瑠璃が唱えると、辺りに一陣の風がごうっと吹いた。
風はつむじを描きながら狐者異を取り巻いて、琥珀の前に押し出した。
狐者異は、ふらつく足で踏み止まる。
「なんなんだい、この浄瑠璃は!」
「厄払いだよ。僕のね」
琥珀は、両手で振り上げた刀を一息に振り下ろす。
ざっくりと斬られた狐者異は、信じられないような顔で琥珀を見た。
倒れる体は、徐々に死肉と変わっていき、地面に落ちた時には黒い血水となっていた。
地面に残るは、気を失った紅玉の体だけ。
厄払いを終えて撥を下ろした瑠璃は、ぜいぜいと息を乱す琥珀を見た。
黒く汚れた地面を見下ろしていた瞳から、ぼろりと涙が零れ落ちる。
「僕が殺したんじゃなかったんだ……」
母も父も兄も姉も世話人も、自分が前世の因果に呪われているせいで死んだと思っていた。この手で殺していなくても、自分の咎󠄁だと信じざるを得なかった。
しかし因果は前世ではなかった。
下手人だったあやかしは死に、やっと呪縛から解き放たれた。
琥珀は、刀を地面に突き立てると、撥を握る瑠璃の手を両手で包んだ。
「ありがとう、瑠璃」
「別に。成り行きでこうなっただけだ」
瑠璃がつんと横を向くと、地面に下りた鞍馬が膨らんだ頬をつつく。
「素直になれよ。せっかく探していた男と出会えたんだぞ」
「師匠、余計なことを言うな」
瑠璃が睨むと、鞍馬はひゅうと口笛を吹いて、紅玉の体を抱き上げた。
渦中の琥珀は、不思議そうな顔で瞬きする。
「前世って?」
「……酷い男を愛したんだ。そいつはあたしの心を奪っておきながら、二度と逢いに来なかった。だから、今生で見つけて殴ってやると決めた」
「それが僕なの?」
「そうらしい。証拠はないが、あたしの心がそう言っている」
心がない娘義太夫。
戯作者に評された時に、自分を責めはしても相手を恨みはしなかった。もしも向こうの家に怒鳴り込めば、きっと心があると認められたはずだ。
瑠璃の心は、闇中にある買い置きの蝋燭のように、存在が見えなかっただけ。
そこに火を点けたのは琥珀だ。
熱くなったり冷えたり爆ぜたり、琥珀の相手をしていると胸が忙しなくて仕方がない。
あたしにも心はあるんだ。ちゃんと、あったんだ。
胸に手を当てて感じ入る瑠璃に、琥珀は「そう。僕を探していたの」とはにかんだ。
「こんな頬で良かったら、一発でも二発でもどうぞ」
琥珀が目を閉じて頬を差し出す。
瑠璃は、空いた手を振り上げたが――張り飛ばすのは何かが違う。
結局、薄い頬に手の平を押しつけるに留まった。
「こんな状態のお前をひっぱたいたってすっきりしない。元気にぴんぴんしているお前でないとだめだ。屋敷に帰って飯を食って眠って、また舞台に上がれるようになったら、あたしの方から殴りに行く」
「瑠璃の方から来てくれるの? それは楽しみだな」
幸せそうな琥珀を見て、瑠璃は言葉を噛む。
小憎らしいのに死なれたら嫌なんて、どうにも恋心というのは複雑で難しい。
捕縛された高野は、余罪多数につき打首獄門となった。
代わりに町奉行となったのは若狹だ。
遠山に慧眼を認められた彼は、早くも名奉行の片鱗を見せ始めている。
霜月長屋の木戸をくぐった琥珀は、裏店の端まで歩くと勢いよく木戸を開いた。
「お姫、今日こそ僕と夫婦になろう」
「帰れ」
畳の上に正座して床本を読んでいた瑠璃は一息に言い放った。
琥珀が贈った赤い小袖を来て、鹿の子の手絡を飾っている。
「そう言わずに。華座が興行権を取り戻したお祝いの団子を持ってきたんだ」
「そういうことなら、上げてやらないでもない」
琥珀は、意気揚々と畳に上り、瑠璃の膝に三色団子を載せた。
「遠山様が町触を出して江戸中に報せてくれたおかげで、僕についた人攫いの汚名は雪がれた。いつから興行を再開するかって、御客からの問い合わせがひっきりなしだよ」
「再開したら、紅玉も舞台に上がるのか?」
団子を食べながら尋ねると、琥珀は「うん」と頷く。
「腐っても宗家の跡取りだから、座元が端役を踏ませたいんだ。でも、記憶が子どもの頃のままで、芸も華もあったもんじゃない。名題下まで降ろしてそこから修練を積ませるみたいだね」
紅玉は、狐者異に取り憑かれた日で記憶が止まっていた。
浅草での人攫いはおろか、高野をたぶらかして死罪を増やしていた一切合切を覚えていない。
華座の宗家は、気が触れたと早とちりして、紅玉を座敷牢に幽閉しようとした。
それを止めた琥珀は、彼を木挽町の屋敷に引き取って、生活の面倒を見たり、演技や舞の稽古をつけて暮らしている。
「一からやり直しとは、大変だな」
「大変でもちゃんと育てるよ。僕の近くにいる人間が死ぬ心配はなくなったしね。瑠璃の方こそ浪花因講には戻らないの。鞍馬天狗に誘われていたのに」
「断った。あたしの道は師匠とは別たれたんだ」
鞍馬は、成功した義太夫と三味線弾きを江戸で独立させ、芽が出ないのをまとめて上方に引き上げていった。
今頃、通り道の宿場で一席設けて稼いでいるだろう。
「そっか。瑠璃は僕のそばに残ってくれたんだ」
幸せそうに微笑む頬を、瑠璃はぎゅっと抓ってやる。
「誤解するな。お前のためじゃないぞ。あたしは」
食べ終えた串と笹をどけて、手入れしたばかりの三味線を構える。
「この江戸で、娘義太夫として生きていくって決めたんだ」
撥を振って、べべんと弦をかき鳴らす。
心を取り戻して分かったが、浄瑠璃は難しいだけではなく、楽しいものだった。
人を感動させる語りが出来なかったのは、瑠璃自身が浄瑠璃を楽しめていなかったからだ。これからは、町人も武士も批評家さえも感動させる語りを響かせられる。
前途は多難だが、瑠璃の心はわくわくと弾んでいた。
その気持ちが演奏にも乗ってきて、琥珀は自然と笑顔になる。
「瑠璃の語り、とても素敵になったね」
浅草雷門そばのヒラキから、人気の娘義太夫が生まれた。
人形のように白い肌と赤いくちびるを持つ娘の名は、瑠璃。
噂では、化け猫の皮を張った三味線で、あやかしを操るという。
その語りは、江戸一と謳われた華座の立女形と並んで、浅草界隈の名物となっている。
おしまい
むすめ浄瑠璃 浅草あやかし芝居 来栖千依 @cheek
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