瑠璃が唱えると、辺りに一陣の風がごうっと吹いた。

 風はつむじを描きながら狐者異を取り巻いて、琥珀の前に押し出した。

 狐者異は、ふらつく足で踏み止まる。


「なんなんだい、この浄瑠璃は!」

「厄払いだよ。僕のね」


 琥珀は、両手で振り上げた刀を一息に振り下ろす。

 ざっくりと斬られた狐者異は、信じられないような顔で琥珀を見た。

 倒れる体は、徐々に死肉と変わっていき、地面に落ちた時には黒い血水となっていた。

 地面に残るは、気を失った紅玉の体だけ。

 厄払いを終えて撥を下ろした瑠璃は、ぜいぜいと息を乱す琥珀を見た。

 黒く汚れた地面を見下ろしていた瞳から、ぼろりと涙が零れ落ちる。


「僕が殺したんじゃなかったんだ……」


 母も父も兄も姉も世話人も、自分が前世の因果に呪われているせいで死んだと思っていた。この手で殺していなくても、自分の咎󠄁だと信じざるを得なかった。

 しかし因果は前世ではなかった。

 下手人だったあやかしは死に、やっと呪縛から解き放たれた。

 琥珀は、刀を地面に突き立てると、撥を握る瑠璃の手を両手で包んだ。


「ありがとう、瑠璃」

「別に。成り行きでこうなっただけだ」


 瑠璃がつんと横を向くと、地面に下りた鞍馬が膨らんだ頬をつつく。


「素直になれよ。せっかく探していた男と出会えたんだぞ」

「師匠、余計なことを言うな」


 瑠璃が睨むと、鞍馬はひゅうと口笛を吹いて、紅玉の体を抱き上げた。

 渦中の琥珀は、不思議そうな顔で瞬きする。


「前世って?」

「……酷い男を愛したんだ。そいつはあたしの心を奪っておきながら、二度と逢いに来なかった。だから、今生で見つけて殴ってやると決めた」

「それが僕なの?」

「そうらしい。証拠はないが、あたしの心がそう言っている」


 心がない娘義太夫。

 戯作者に評された時に、自分を責めはしても相手を恨みはしなかった。もしも向こうの家に怒鳴り込めば、きっと心があると認められたはずだ。

 瑠璃の心は、闇中にある買い置きの蝋燭のように、存在が見えなかっただけ。

 そこに火を点けたのは琥珀だ。

 熱くなったり冷えたり爆ぜたり、琥珀の相手をしていると胸が忙しなくて仕方がない。

 あたしにも心はあるんだ。ちゃんと、あったんだ。

 胸に手を当てて感じ入る瑠璃に、琥珀は「そう。僕を探していたの」とはにかんだ。


「こんな頬で良かったら、一発でも二発でもどうぞ」


 琥珀が目を閉じて頬を差し出す。

 瑠璃は、空いた手を振り上げたが――張り飛ばすのは何かが違う。

 結局、薄い頬に手の平を押しつけるに留まった。


「こんな状態のお前をひっぱたいたってすっきりしない。元気にぴんぴんしているお前でないとだめだ。屋敷に帰って飯を食って眠って、また舞台に上がれるようになったら、あたしの方から殴りに行く」

「瑠璃の方から来てくれるの? それは楽しみだな」


 幸せそうな琥珀を見て、瑠璃は言葉を噛む。

 小憎らしいのに死なれたら嫌なんて、どうにも恋心というのは複雑で難しい。



 捕縛された高野は、余罪多数につき打首獄門となった。

 代わりに町奉行となったのは若狹だ。

 遠山に慧眼を認められた彼は、早くも名奉行の片鱗を見せ始めている。

 霜月長屋の木戸をくぐった琥珀は、裏店の端まで歩くと勢いよく木戸を開いた。


「お姫、今日こそ僕と夫婦になろう」

「帰れ」


 畳の上に正座して床本を読んでいた瑠璃は一息に言い放った。

 琥珀が贈った赤い小袖を来て、鹿の子の手絡を飾っている。


「そう言わずに。華座が興行権を取り戻したお祝いの団子を持ってきたんだ」

「そういうことなら、上げてやらないでもない」


 琥珀は、意気揚々と畳に上り、瑠璃の膝に三色団子を載せた。


「遠山様が町触を出して江戸中に報せてくれたおかげで、僕についた人攫いの汚名は雪がれた。いつから興行を再開するかって、御客からの問い合わせがひっきりなしだよ」

「再開したら、紅玉も舞台に上がるのか?」


 団子を食べながら尋ねると、琥珀は「うん」と頷く。


「腐っても宗家の跡取りだから、座元が端役を踏ませたいんだ。でも、記憶が子どもの頃のままで、芸も華もあったもんじゃない。名題下まで降ろしてそこから修練を積ませるみたいだね」


 紅玉は、狐者異に取り憑かれた日で記憶が止まっていた。

 浅草での人攫いはおろか、高野をたぶらかして死罪を増やしていた一切合切を覚えていない。

 華座の宗家は、気が触れたと早とちりして、紅玉を座敷牢に幽閉しようとした。

 それを止めた琥珀は、彼を木挽町の屋敷に引き取って、生活の面倒を見たり、演技や舞の稽古をつけて暮らしている。


「一からやり直しとは、大変だな」

「大変でもちゃんと育てるよ。僕の近くにいる人間が死ぬ心配はなくなったしね。瑠璃の方こそ浪花因講には戻らないの。鞍馬天狗に誘われていたのに」

「断った。あたしの道は師匠とは別たれたんだ」


 鞍馬は、成功した義太夫と三味線弾きを江戸で独立させ、芽が出ないのをまとめて上方に引き上げていった。

 今頃、通り道の宿場で一席設けて稼いでいるだろう。


「そっか。瑠璃は僕のそばに残ってくれたんだ」


 幸せそうに微笑む頬を、瑠璃はぎゅっと抓ってやる。


「誤解するな。お前のためじゃないぞ。あたしは」


 食べ終えた串と笹をどけて、手入れしたばかりの三味線を構える。


「この江戸で、娘義太夫として生きていくって決めたんだ」


 撥を振って、べべんと弦をかき鳴らす。

 心を取り戻して分かったが、浄瑠璃は難しいだけではなく、楽しいものだった。

 人を感動させる語りが出来なかったのは、瑠璃自身が浄瑠璃を楽しめていなかったからだ。これからは、町人も武士も批評家さえも感動させる語りを響かせられる。

 前途は多難だが、瑠璃の心はわくわくと弾んでいた。

 その気持ちが演奏にも乗ってきて、琥珀は自然と笑顔になる。


「瑠璃の語り、とても素敵になったね」


 浅草雷門そばのヒラキから、人気の娘義太夫が生まれた。

 人形のように白い肌と赤いくちびるを持つ娘の名は、瑠璃。

 噂では、化け猫の皮を張った三味線で、あやかしを操るという。

 その語りは、江戸一と謳われた華座の立女形と並んで、浅草界隈の名物となっている。


                                  おしまい

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むすめ浄瑠璃 浅草あやかし芝居 来栖千依 @cheek

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