三
小塚原刑場は、鈴ヶ森刑場と並んで二大刑場と呼ばれる。
火罪・磔の場所、獄門の場所、番小屋など、五つの区画に別けられていて、多い日には十もの人間が処刑される場所だ。
周囲は草が伸び放題の平原で死体の埋葬地になっているが、罪人は町人のように懇ろに葬ってはもらえない。浅い穴に放り込まれて、上にざっと土をかけて放置される。
土は風や雨で流れ、露出した死肉は動物に啄まれる。
死臭漂う刑場の牢屋に寝転んだ琥珀は、道すがら見た、何百もの鳥が群がる死体を思い出した。もうすぐ、自分もああなる。
死罪を申し渡されてから、今日で三日。
朝か昼か夕刻かは分からないが、今日のうちに琥珀の刑は執行されるだろう。
江戸一の人気を誇る立女形として舞台に立った。華やかな日常が一転して、着の身着のままで磔にされる日が来るなど想像もしていなかった。
罪人として死ねば、無間地獄に落ちる。
極楽へ渡ったはずの家族とは、あの世でも会えそうにない。
「せめて、最期に瑠璃に会いたいな……」
「華山琥太郎、出ろ」
処刑人が牢の錠を外した。荒縄で体をくくられた琥珀は、じりじりと熱い陽に照らされながら、磔場までを歩いた。
刑場を囲む柵の向こうに、数人の見物客がいる。
江戸の人間は、観劇に行くような感覚で死罪を見届ける。打ち首獄門になった大盗賊などは、首が晒される三日三晩、見物客が途切れなかったそうだ。
紫の着物を身につけた少女が瑠璃に見えて、琥珀は立ち止まった。
よく見れば、それは家族同然に育った紅玉だった。
泣き出しそうな切実な顔で琥珀を見つめている。養子でも一応、紅玉とは兄弟だ。
最期を見届けに来てくれたのだろう。
「お別れだね」
にこりと微笑んでやると、紅玉は口元を手で押さえて俯いた。
「もうすぐ、琥珀が死体になる……」
手で隠した口元で、紅玉は舌なめずりしていた。
琥珀に目をつけたのはもう十八年も前だ。
上方から江戸に来て、町中で塵を漁り食っていた頃、たまたま母親の腹のなかにいる琥珀の凄まじい生気に気づいた。
人の命は蝋燭の火のようなものだ。生まれたばかりの赤子は泣き声こそやかましいが、その命は油の尽きた灯心に残る小さな残り火である。一吹きで消える。
生後まもなく食べても良かったが、百万都市江戸で大勢の死体にありつき舌が肥えていた狐者異は、さらに旨味を蓄えさせてはどうかと思い付いた。
母を殺し、父を追い詰め、兄と姉を奪うと、琥珀の生気はさらに強くなった。
しかし、まだ食べ頃ではない。
琥珀は、生来の才能のおかげで家族と死別しても窮することはなく、木挽町の屋敷で暮らし始めると近づくのも難しくなったため、弟分の紅玉に取り憑いた。
取り憑いて初めて知ったが、歌舞伎役者というのは忙しい。死にかけの人間に張り付くのは難しく、死体が食えなくなってしまった。
市中での死人は、すぐにかすめ取らない限り棺桶に入れられて寺に運ばれる。たまに藪に捨てられる無縁仏を探して食らうのも限界だ。
飢えを癒やすために町奉行の高野に取り入り、刑場で量産される死体を食べては、琥珀が食べ頃になる日を待っていた。
青臭かった琥珀は、年明けになって急に熟した。
娘義太夫と出会い、恋をしたのだという。
頃合いだ。
琥珀に罪をなすりつける算段で、女形姿のまま浅草で人攫いを行った。思惑通り、疑いは華座の立女形にかかり、高野が死罪を言い渡した。
思わず笑ってしまう。
「あと少し」
琥珀は、磔台の前に立たされた。
磔刑は、立てた柱に手首、二の腕、足首と胸、そして腰をくくり付け、上半身の衣服を剥いで、槍で体中を切り裂く刑罰だ。
痛みと絶望に苦しんだ琥珀は、もっともっと美味しくなるに違いない。
紅玉は、うっとりと丸太に縛られる琥珀を眺めていた。しかし、弾左衛門が駆けてきて処刑人に耳打ちしたかと思うと、縄は切られた。
「どうして中断するのさ!」
「琥珀は下手人ではないからだ」
真後ろから、澄んだ娘の声が聞こえた。
振り返ると、三味線を抱えた娘義太夫――瑠璃が立っていた。
男のように裃を着け、髪には二色のちりかん簪と手絡を飾っている。
「老中遠山は、町奉行の裁きに異論ありと名乗る、定廻同心の意見を聞き入れた」
「老中なんて偉いだけの部外者だろう。その意見を聞くなんてどうかしてる。高野様のお裁きに異を唱えた同心にも沙汰を言い渡すべきだよ」
「それは無理だ。琥珀を死罪にした町奉行は捕縛された」
「なっ」
紅玉は驚いた。高野が捕まるなんて、寝耳に水である。
「捕まったって、どんな罪でだい」
「浅草で起きた人攫いに加担した件。処刑場の周りの死体を隠した件。かつての町奉行だった若狹を追い落とした余罪も含めた、大罪だ」
高野の悪事を暴くため、若狹は奔走した。遠山に事の次第を知らせ、己が仇討ちのために高野を探っていたと明かしたのだ。
高野の気の触れた裁きを耳にしていた遠山は、かつて名奉行と呼ばれていた頃の慧眼ですぐさま命を下した。
今頃、北町奉行所をあげての捕り物が行われているはずである。
「どうしてこんなことに」
紅玉が混乱している間に、琥珀は柵の外に出された。
三日も捕えられていたのに健脚で、瑠璃と紅玉の方に走り寄ってくる。
紅玉は、思わず「来るな」と叫んでいた。
「どんな手管で老中を引き入れたかは知らないが、琥珀が下手人だよ。ここでそいつが磔刑になれば、何もかもが丸く収まる。そういう筋書きの方が受けるって、あんたも分かるはずだ。娘義太夫ならね!」
「あたしは娘義太夫の前に人間だ。お前が描いた下手な筋書き、ここで正してやる」
動揺する紅玉を見据える瑠璃は、いつにも増して冷静だった。
「人攫いから命からがら逃げた被害者が、琥珀は下手人ではないと証言した。琥珀とよく似た女だったが、右目の下に泣き黒子があったという。お前のように」
指を差されて、紅玉は、とっさに袖の先で右頬を隠した。
「泣き黒子がある人間なんか、江戸にはたくさんいるだろうさ。その女の子の見間違いなんじゃないのかい」
「どうして、被害者が女の子だと分かった?」
意表を突かれた紅玉は、しまったと顔をしかめた。
「やはり下手人はお前だな」
急に陽が陰り、暗がりに入った瑠璃の髪がふわっと浮いた。
紅玉が空を仰げば、太陽に重なるように黒い鳥が飛んでいる。
目を凝らすと、それは羽根を広げた天狗だった。
「厄払いさせてもらう」
瑠璃は、手に持った撥で弦をかき鳴らした。
――月も朧に白魚の、篝もかすむ春の空――
お嬢吉三が唱える台詞に合わせて、べべんと響く三味線の音。
寝取の笛のヒュウドロドロという音が、どこからともなく響いてくる。
音曲を聴いていた紅玉は、地面が揺れる気配に嘔吐いた。
「うえっ」
手で口を押さえる。
指の間からどろりと流れ出したのは、今まで攫って食べてきた子どもたちの血だ。
げえっと吐きだすと、血肉が、目玉が、指が転がり出る。肉がこそげた骨など、目を背けたくなるような悲惨な様相だった。
罪を吐きだすたびに、狐者異の意識は遠くなっていく。
江戸に入ってから食った死体まで吐ききって、ついに倒れた。
倒れたと思ったのだが――きちんと両足で立っていた。
「これは……」
厳密に言えば紅玉の体は倒れている。立っているのは、剥がされた狐者異だった。
狐者異の姿を見て、琥珀はごくりと息をのんだ。
「あやかしが、紅玉に取り憑いていたのか……」
「今さら気づいたか。家族も世話人も殺されておいて暢気なものだね」
狐者異は、紅玉と同じ顔でにやにやと笑う。
きっと目をつり上げた琥珀は、狐者異を殴ろうとした。だが、あやかしには触れられない。琥珀の拳は宙をかいた。
勢い余って転がった琥珀は、悔しげに狐者異を振り返った。
「ちくしょう」
「お若えの、これを使え」
天から降りてきた鞍馬が、琥珀の手に抜き身の刀を握らせた。
「憤怒を司る金比羅様から預かってきたのよ。大舞台で舞うのは役者、語るのは義太夫と決まってる。瑠璃、やってやれ」
娘義太夫はこくりと頷くと、赤いくちびるを動かした。
――一文の銭と違ってあやかしもの。こいつは春から縁起がいいわえ。
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