二
やがて明かされたのは驚きの内容だった。
「高野がまだ与力であった頃、町奉行は拙者の父が務めていた。働きぶりは真面目そのものであったが、ある時、盗賊からの賄賂を受け取って無罪放免にしたと、高野がお上に訴えたのだ」
若狹の父は、即刻捕えられて盗賊と共に裁きを受け、死罪に処せられた。
町奉行の後任には、高野がついた。
五十日の閉門を命じられていた若狹は、後に高野が父を陥れるため、盗賊の頭領に小判を握らせて一計を案じたと知った。
仇討ちの機会を練ったが、証拠固めをするには先立つものが必要だった。
何とか同心に召し上げられたものの、一度家についた悪評は根深く、理由をつけては仕事を奪われる。貧乏暮らしの身では、食べていくだけで精一杯。
事情を知った七彩が、自ら身売りを申し出たのも必定であった。
「七彩のおかげで、当時の小人目付より、脅されて父の罪をでっち上げたという証言も取れた。もう少しで高野の悪事を暴けるところであった」
「それなのに、なぜ七彩はお歯黒どぶに落ちたんだ。あいつは、自分の足では堀を越えられないと知っていた。吉原の外に用事でもあったんだろうか……」
瑠璃はお歯黒どぶを見下ろした。苦海を囲むように作られた堀。
その土手が金色に輝いた。
目を凝らすと、それは文を返しに行った晩、瑠璃が七彩にくれてやった簪だった。柄には折り畳んだ文が結びつけられている。
「七彩から、あたしへの伝聞だ」
「なにっ」
若狹がお歯黒どぶに飛び込もうとしたので、瑠璃は羽織を引っ張った。
「待て。お前まで溺れたら大変だ!」
「だが、誰かが泳いで取りにいかねば」
「その必要はない」
瑠璃は、近くに誰もいないのを確認すると、背負っていた三味線を構えてつま弾いた。
捨てられたお歯黒で真っ黒になったどぶ水が丸く浮き上がって、泥に塗れた大きな頭が現われた。若狹は、その場に腰を抜かす。
「なっ、なにやつ」
「泥田坊というあやかしだ。泥田やどぶに棲んでいて、田を奪った仇を追いかけ回すがそれ以外の人間は襲わない。泥田坊。そこの簪を取ってくれ。代わりにお前が好きな音曲を弾いてやる」
瑠璃が交換条件を持ち出すと、泥田坊は塀から簪を引き抜いて、瑠璃の足下に投げた。
「ありがとう。何が聞きたい?」
泥田坊は、視線を横に流した。
そちらには一面の水田がある。青々とした稲が毛織物のように夜風にそよいで、引き水が月明りを反射して光った。
田が恋しいのだろうか。
それならばと、瑠璃は琵琶法師のように、平家物語の祇園精舎を語った。
軍記が中心の語りものは、農民が特に好む題材で、田舎浄瑠璃の題材にもなっている。
泥田坊は、娘特有の高い声に耳を澄ませると、満足したのかずぶずぶと沈んでいった。
若狹は、息を吹き返したように立ち上がって、尊敬の眼差しを瑠璃に送った。
「瑠璃殿。そなたは、あやかしと心を通わせられるのか」
「この三味の力だ。化け猫の皮を張っているから、あやかしにも響く」
瑠璃は簪から文を外した。折り畳まれていた和紙を開いて、松明の灯にかざす。
「これは……役者絵だ」
開いた紙には、赤い着物を身につけて、山ほど簪を差した女形が、指先まで淑やかな筆致で描かれていた。『本朝廿四孝』の八重垣姫を写し取ったものだ。
八重垣姫は、あやかしに憑かれる役だ。絵姿のみしか知らない許嫁に恋い焦がれ、その男の旧知を救うために、神精を己の体に降ろすのである。
絵の顔立ちは琥珀に似ていたが、
「あいつじゃない」
女形の顔には泣き黒子があった。これは紅玉の役者絵だ。
紅玉と琥珀は血縁なので面差しが似ている。女物の着物を着て並んでいたら、一瞬ではどちらかと見紛いそうになるくらいに。
「七彩は紅玉の馴染みだった。紅玉の何らかの秘密を知って、あたしに報せるために吉原を抜け出そうとしたんだ」
しかしお歯黒どぶに落ち、最期の力を振り絞って手がかりを残した。
若狹はこめかみに大粒の汗をたらりと伝わせた。
「紅玉殿は、高野の愛妾だ」
思わぬ話に、瑠璃は目を丸くした。
「それ、本当か」
「間違いない。高野は男色の気があって、紅玉殿を奉行所に呼びだしては仲睦まじく過ごしている。高野が何でも死罪にしてしまうのは、愛妾の助言があったからなのだ。より重い処罰を与える方が、やり手の奉行に見えるとおだてているのを、某も見たことがある」
私利私欲のために手段を選ばない高野と、それをたぶらかす美しき若女形。
江戸の町を舞台に、権力を振りかざす公家悪の正体が浮かび上がった。
「どうして紅玉は、高野をけしかけて死罪を増やしているんだ。あいつに得は何もないだろうに」
「おかしな事柄は他にもある。死罪になった死体が消えているのだ。刑場は順番待ちだというのに、野辺に死体の山が築かれていない。野犬か何かが食っているにしては、骨も残さず消えている」
「浅草では子どもが消え、刑場周りでは死体が消える……」
狐者異は死体を食うあやかしだ。
紅玉は、高野に取り入って死罪を増やしている。
死罪になった人間の数に対して、刑場周りの死体は増えていない。
七彩は何を伝えたかったのか――。
「そこにいるのは、先日の御客さんじゃないかい」
瑠璃の思案は、道の方からかけられた声に中断した。
見れば、有里屋の遣り手婆が、手に風呂敷を持って立っていた。
「うちの七彩が死んじまってね。部屋に残ってた着物や小間物を遊女で形見分けしたら、情夫に送り損ねた文がどっさり見つかったのさ。紙屑買いに売っちまうのも可哀想だ。御客さん、七彩に懐かれていたろ。その手で焼いてやってくれないかい」
「分かった」
押しつけられた風呂敷は重かった。
瑠璃は、霜月長屋に若狹を連れ帰り、一通ずつ文を検分していく。
恋文を覗く罪悪感はあったが、書かれていたのは好いた男への文面ではなかった。
多くが、紅玉へ近況について尋ねる文だった。贔屓に連れられて吉原に来た紅玉に買われた七彩は、彼が幼馴染みの仇の愛妾をしていると知り、探りを入れては突っ返されていたようだ。
いつでもまた見世に来て、といういじらしい文のついでに、高野はどうして死罪を増やしているのか、高野のよく行く場所を知らないか、と繰り返し尋ねていた。
「七彩は、拙者のために、こんなことまで」
若狹は、文を手にしたまま、またもや涙をこぼした。
直視してはいけない気がして視線を外した瑠璃は、木戸の隙間からこちらを伺う小さな目と目が合った。
「誰だ?」
「あたい」
からりと戸が開いて、姿を見せたのはおせんだった。
「若狭様にお話があるの。どうして泣いてるの?」
「瑠璃殿の語りが面白くて笑っていたのだ」
若狹は、袖で涙をぬぐうと頼もしい笑顔を見せた。「ここへおいで」と呼ぶと、おせんは畳に上がってきて、若狹の真向かいに膝を折った。
「人攫いに会った晩に、お瑠璃ちゃんと一緒にいたお兄さんが下手人に似ているって言ってしまったけど、後から考えたら別人だったような気がするの。人攫いは、右目の下に黒子があったんだけど、お兄さんは無かったよね?」
「そうなのか。瑠璃殿」
「ああ。琥珀の顔に黒子は無い」
木挽町の屋敷にいる間、毎日顔を合わせていたし、同じ布団にも入った仲だ。
瑠璃は、琥珀の顔や手や足の形はまざまざと思い出せた。
「右目の下に泣き黒子があるのは、紅玉だ」
紅玉は女の格好をしている美しい男。川獺の証言とも合致する。
「話してくれて感謝する、おせん殿。そなたが勇気を出してくれたおかげで、本当の下手人を捕まえられる」
若狹に頭を撫でられると、おせんは嬉しそうに笑った。
「あたい、琥珀兄さんに謝りたい。人違いで捕まえられて怒っているかなあ」
「そうだな。あいつは優しいから、きっと許してくれる。謝るときはあたしも共に行く」
おせんを部屋に帰し、瑠璃と若狹は声をひそめて計画を立てた。
「紅玉が真の下手人だと知らしめねば、琥珀殿が処刑されてしまう。しかし生憎、拙者は単なる定廻同心。父に良くしていただいた武家との繋がりも断たれている。高野の裁定をくつがえすような助力が得られればいいのだが」
「こちらの味方になってくれそうな者に、一人だけ心当たりがある」
「その御方の名は?」
瑠璃は、若狹に相手の名前を言い含め、急いで出掛けて行く背中を門前で見送った。
空はすでに白けて、遠くで一番鶏が鳴いている。
黒い羽根が降ってきたので顔を上げれば、表店の屋根に腰かけた天狗と目があった。
「師匠……どうしてここに」
「お前がにっちもさっちも行かなくなったら、助けてやろうと思ったんだよ。必要なかったみてえだけどな」
ばさりと翼をたゆませて、鞍馬は瑠璃の前に降り立った。
「大きくなったな、瑠璃。好きな男のために努力できるたあ、いい心を育んだ」
「あたしは別に琥珀のことなんか――」
はっとして、瑠璃は目を見開いた。
「今、心って言ったか?」
「ああ。泥田坊への語りを聞いていたが見事だったぜ」
心の底から安心した息を吐く鞍馬は、瑠璃の頭に手を置いた。
「よく頑張った。さすがは俺様の愛弟子だ。祝に、一つ教えてやる。お前の願いはとうに叶っていたようだぜ。相手は江戸市中にいる」
瑠璃の願いと言えば、源九郎義経の生まれ変わりを一発ひっぱたくことである。
だが、近くにいると言われても、瑠璃には全く心当たりがない。
「誰だ、そいつは。まさか高野じゃないだろうな」
鞍馬は「いずれ分かる」と付け加えた。
「あの同心野郎が上を動かすには時間がかかる。先に狐者異を見つけておきな。相手の検討はついてんだろうな」
「狐者異は、紅玉という華座の女形に成り代わっている。どこにいるかは知れないが、いずれ来るだろう場所は分かる。琥珀が磔刑になる、処刑場だ」
「死体を食らうあやかしには持ってこいの場だな。あれを退治するのは、少々骨が折れるぞ。特別な得物が必要だ。どっかから調達してくるかな」
「調達って……。手伝ってくれるのか、師匠」
「手伝いじゃねえ。俺様は勝手にやる」
そう言って、鞍馬は紫色に変わった空へと飛びたった。
小さくなっていく師に思いを託して、瑠璃もまた紅玉と向かいあうための準備を始めたのだった。
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