翌日、瑠璃は若狹がいる番屋に向かった。

 罪人を裁くのは町奉行だが、それまでの取調べは同心が担当する。琥珀は、余罪があるかどうかを含めて追求されているはずだ。

 正面から訪ねていくと、若狹が十手を腰に差して表に出てきた。

 同心の目印である黒紋付き羽織は、今日もぱりっと糊がきいている。


「瑠璃殿ではないか。どうなさった?」

「琥珀に、これ食べさせてやってくれないか」


 芝居茶屋に頼んで作ってもらった包みを差し出す。中身は、前に琥珀が瑠璃に持ってきてくれた三色の団子だ。

 若狹は、けなげな娘だと瑠璃を見つめた後で、首を横に振った。


「すまないが、琥珀殿はもうここにはおられない。奉行所に身柄を移されたのだ。何でも老中の遠山様からお尋ねがあったとか。拙者もこれから向かう」

「あたしも行く」


 瑠璃が息巻くと、若狹は困った風に眉を下げた。


「来ても、奉行所には入れてやれないが……それでも構わなければついてくるといい。昨晩、琥珀殿に事情を聞いたが、断じて人攫いはしていないと一貫していた。おせん殿はああ言ったが、拙者はどうにも下手人だと思えないのだ。もう少し取り調べる時間があったなら、無罪放免にしてやれたかもしれない」

「まだ罪状がつくとは決まっていない」


 落ち込む若狹を急き立てて、瑠璃は奉行所までの道を進んだ。

 男の歩幅は大きく息がきれる。離れずについていくのがやっとだ。琥珀と歩いている時分には、一度もこんな風にはならなかった。

 あいつ、こんなことでもあたしを気遣っていたのか。

 いくら大切にしても、瑠璃が相手では徒労で終わってしまう。打っても響かない鐘のような女を、琥珀は出会ってから半年の間、甘やかし続けた。

 つくづく馬鹿な男だ。それに気づけなかった自分は、正真正銘の大馬鹿だ。

 やがてたどり着いた奉行所は、堅牢たる御成門を構えた広い屋敷だった。

 とはいえ正門は将軍が使うもの。

 若狹は、御家人たちが使う小門の方へ進み、瑠璃を振り返った。


「ここで失礼する。裁きが下ったらすぐに報せよう。近くで時間を潰していてくれ」

「分かった」


 路地に一人残された瑠璃は、奉行所から離れる気が起きなくて、辺りをうろうろした。

 さすがに屋敷の内部で行われる申し開きの声は聞こえない。

 そうしているうちに、裏手に柳の日陰を見つけた。

 大きな置き石があったので、腰かけて背負ってきた三味線を手に持つ。

 心が落ち着かない時は演奏するに限る。

 手習い曲である鶴亀をつま弾くと、勝手口から女中が顔を覗かせた。


「上手いね。娘義太夫かい。中に入って一曲やっておくれよ」

「入ってもいいのか。ここは奉行所だろう?」

「奉行所にだって奉公人はわんさかいるさ。あんたが黙っていれば、誰も不思議に思わないよ」


 瑠璃は、女中に続いて勝手口を通った。

 武士がそこら中に詰めていると思っていたが、意外にも奉公人が多い。

 現在の町奉行である高野師宣という旗本が、私的な世話をさせるために大量に引き入れているのだという。


「給金をもらっているから、大声で文句は言えないけどね。愛妾のご機嫌取りまでさせられちゃ、さすがのあたしらも嫌になっちまうよ」

「それは……お気の毒さま」


 町人は夫と妻が一人ずつで添うが、武家では正室の他に側室を持つこともある。

 他に妾を囲ったりする事もあるらしく、仕える方は、主家族の関係がこじれないように苦心するらしい。

 通されたのは、奉公人が休憩するための六畳間だった。

 数名の女中が、黒い衿をくつろげて団扇片手に横たわっている。


「あんたたち起きなよ。この娘義太夫に一曲やってもらおうと思ってね」

「そりゃあいいわ」


 女中たちは起き上がって、下座に並んだ。

 上座に座った瑠璃が聞きたい曲を尋ねると、『恋娘昔八丈』がいいと口を揃える。

 城木屋お駒の、入り婿を殺してでも髪結い才三と添いたいという想いが、実に切なくて好きらしい。それならと、瑠璃は初段から四段目まで飛ばして、お駒が出てくる城木屋の段を語り出した。

 今日は親が決めた祝言の日。愛しき髪結い才三と結ばれたいが、傾いた家を守るには入り婿と添わねばならない。好きでもない男に抱かれて親孝行とするか、それとも一世一代の恋を選んで駆け落ちするか。ああ、そうしている間に揉み合いになった。婿の刀が才三に向く。いけない。あたしが、あの人を守らなければ。

 女中は皆、涙の浮かんだ眦を押さえている。

 声を引き絞って歌い上げる瑠璃の胸も切なくなった。

 とっさに刀をつかみ、婿の腹に突き立てたお駒は、無我夢中だった。

 好いた男を守りたい一心で、なりふり構っていられなかったのだ。

 瑠璃が会えなくとも琥珀の近くにいようとするように、自己満足でしかない情熱を注げるのが恋なのだとしたら。


 ――あたしは、琥珀が好きなのかもしれない。


 語りが終わると同時に弦が切れて、瑠璃は物思いから返った。

 弦は鬱金で黄金色に染めた絹糸で出来ているので、撥で弾くごとに痛み、こうして演奏中に切れる事もある。


「悪いがここで張り替えさせてもらえないか?」

「いいよ。そろそろ休憩が終わるから、あたしらは持ち場に戻るわ。あんたは張り替えたら自由に出ていってね。はい、これお代」


 女中たちは、銭を出し合って結構な見料を支払ってくれた。

 六畳間に残された瑠璃は、弦を外そうと駒に手をかけた。しかし指が滑って力が入らない。手を洗って油を落とさねばならない。

 汲み水を別けてもらおうと廊下に出る。

 井戸の場所を教えてもらったが、屋敷が広大で迷ってしまった。

 焦って庭に下りると、勝手用の詰め所からはだいぶ離れた、詮議所の近くまで来てしまっていた。道を戻ろうと首をひねれば、遠くに人の列が見えた。

 畳廊下をぞろぞろと歩いているのは武士の一団だ。

 長袴を引きずる下ぶくれ顔の大男に、周りの武士が「高野様」と話しかけている。

 後列には若狹の姿もあった。あの男が琥珀を裁く町奉行のようだ。

 こっそり後をついていくと、高野は能舞台のような座敷の真ん中に座った。徒目付や吟味与力が左右に並び、砂利を敷いたお白州には若狹ら同心が控えている。

 ここで申し開きと詮議、沙汰の読み上げが行われるようだ。

 縄で縛られた琥珀が用人に引っ立てられてきたので、瑠璃は物陰に入った。

 着物や髪型に乱れはないが、俯いた顔色は驚くほど白く、暗い表情をしていた。

 砂利の上に敷かれた茣蓙に座らされた琥珀に、上座の高野が声をかける。


「そなたが科人の華山琥太郎じゃな、浅草で起きている人攫いの下手人よ」


 鳶の鳴き声のような上ずった声に、琥珀は顔を上げた。


「違います。僕は人攫いではありません」

「やった者は皆、やっていないというものぞ」


 高野は、高慢な表情でお白州を見下ろした。


「そなた、老中の遠山様と知り合いだそうだな。番屋での取調べではなく、きちんと町奉行が話を聞き、何があったか詳らかにした上で、裁きを下すようにとの命があったぞよ」

「遠山様が……」


 琥珀がほっとした表情を見せると、高野は嫌みったらしくおちょぼ口を曲げる。


「御老中が注目していると言うことは、ここで見事に大岡裁きを見せてやれば、儂の評価はうなぎ登り。旗本から一万石の大名となれるだろう!」


 高笑いする高野は、着物の袖を抜いてだるんと脂肪の垂れ下がった二の腕をさらし、長袴を飛ばす勢いで片足を前に出した。


「華山琥太郎、そなたは死罪じゃ。磔獄門に処すっ!」


 あまりにも乱暴な裁きに、琥珀の呼吸が止まる。影から見守っていた瑠璃は、思わず走り出そうになったが、それより早く若狹が立ち上がった。


「お待ちくだされ、御奉行。それでは余りにも早計でござる。下手人に似ているというだけで、科人が数々の人攫いを起こしたという証拠はどこにもない。どうか再考なされよ」

「証拠などよいよい。町人など、江戸には掃いて捨てるほどいるからな。あやつらは考えなしに増えて、職にあぶれて貧しくなり悪さをするものよ。先んじて間引いてやるのも、上の者の仕事であるぞ」


 高野は、まるで琥珀を死罪にするのが善行のように宣って、若狹に命じる。


「その下手人は牢にぶち込んでおけ。今は刑場が満杯じゃ。三日は待たされるであろう」

「刑場の順番が押しているのは、高野様が軽い罪の者まで死罪になさるからであろう」


 立ち向かう若狹に、高野はやれやれと首を振る。


「沙汰を決めるのは儂だ。それとも何か。お主、父親が処刑されても一族に責が及ばぬようにしてやった儂に逆らう気か?」

「……滅相もございませぬ」


 若狹が消沈して膝をつくと、高野は「これにて一件落着!」と幕を下ろして、目付たちを引き連れて去って行った。

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