四幕 狐者異楼曲百鬼夜行
一
「琥珀が人攫いなわけないでしょ。それに、あいつが問題を起こしたからって、華座の興行許可を取り上げるなんて酷いじゃないか」
芝居小屋の前で、紅玉が不満をぶちまけている。相手は町触を出した与力だった。
看板役者の琥珀が、浅草で起きている人攫い事件の下手人として捕えられたせいで、華座の興行権を取り消すという通達が出たのだ。
江戸は、お上による監視と管理が行き届いた都である。
こと娯楽については厳しく、町人に悪影響を与えない内容と演出が求められる。
歌舞伎がたった四座しかお上に認められておらず、猿若町でしか興行できないのは、定位置に集まっていた方が管理しやすいからだ。
もしも悪しき評判が立てば、当然ながらお咎めが待っていた。
紅玉に詰め寄られていた与力は、うんざりした顔で言い放つ。
「闕所にならなかっただけよかったと思え」
そう言うなり、華座の軒に立ててあった看板を引き抜いて去った。
「大変な目にあったな」
瑠璃が近づいていくと、紅玉はくしゃりと顔をひん曲げた。
「琥珀のせいで商売あがったりだよ。なんだって人攫いなんてしたんだ」
「あいつは下手人じゃない。自分の側にいる人間が死ぬのを恐れて、木挽町に一人で暮らしているような男が、そんな真似するわけないだろう」
「へえ。ずいぶん信用してるじゃないの。琥珀ばかりが慕っていると思っていたけど、あんたも大概好き者だね」
鼻で笑う紅玉に、往来の人々から声がかかった。
「立女形が捕まったって本当かい」
「人攫いの下手人だって言うじゃないか」
華座の常連らしい男や丸髷の女たちに、紅玉は啖呵よく言い返す。
「うちのが人攫いなんかするものか。今日は休演するけれど、またすぐにやり始めるよ。どうせ琥珀は無罪放免。すぐに戻ってくるんだから」
流し目で微笑んだ紅玉は、瑠璃の背を押して華座の中に入った。
鼠木戸をぴっちり閉めると、途端に背を丸める。
「こんな目で見られるなんて、腹立たしいったらありゃしない。ねえ、あんた。琥珀が潔白だって言うなら、さっさと連れ帰ってきておくれよ」
「そのつもりだ。そこで相談なんだが、芝居小屋の櫓を貸してもらえないだろうか。往来のなくなった夜に、本物の下手人を捜したい」
「何するのさ」
「寄席だ」
今の瑠璃に出来るのは、浄瑠璃であやかしを呼び出す事くらいだ。
紅玉は、瑠璃に神仏祈祷の類いでも期待していたのか、「気休めにはなるね」と溜め息をついた。
「座元の許可は取っといてやるよ。好きにしな」
「あたしの師匠も来るから心配するな。絶対に、琥珀は取り戻す」
熱の籠った瞳を見た紅玉は、ごくっと唾を飲み込んだ。
「あんた琥珀に似ているね。あと……」
美味しそう。変な褒め言葉だと思いつつ、瑠璃は「ありがとう」と応えた。
子の刻の真夜中。
日が落ちて、すっかり往来の途切れた華座の櫓に、裃を着けた瑠璃は座っていた。
手には、化け猫の皮を張った三味線を構えている。
櫓の柱に器用にあぐらをかいているのは鞍馬だ。
修験者風の装いの背には、黒い羽根が生えている。初めから臨戦態勢なのは、これから瑠璃が、浅草にいるあやかしを呼び出すからである。
夏場にしてはひんやりした空気を吸い込んで、瑠璃は弦をつま弾いた。
――古えの神代の昔山跡の 国は都の始めにて妹背の始め山々の――
別名・吉野川とも呼ばれる『妹背山婦女庭訓』の山の段を口にする。
蘇我入鹿の誅戮に巻き込まれ、吉野川に別たれた背山の久我之助、妹山の雛鳥という恋人たちが、お互いの命を乞うために自害する。愛が招いた悲劇の話だ。
寝取の笛のヒュウドロドロという音がどこからともなく響いてきて、空に立ち込めていた厚い雲がぐるぐると回り出した。
四座が並ぶ通りを眺めていた鞍馬は、暗い雲が渦巻いている隅田川の方に顔を向けて、にんまりと口を引いた。
「来たぞ来たぞ。大勢のあやかしが」
渦を巻く雲が漏斗のように地上まで降りてくる。
すると、そこからぬっと見上げ入道が現われた。
大きなあやかしに続いて、建物の正面に引いた廂布や天水桶の影からは、こぶし大ほどの小さな犬や、頭に冠をはめた猿、はたまた手足の生えた茶碗などが転がり出てくる。
動物や器物だけではなく、にょろにょろと首を伸ばすろくろ首や、網代笠を被った化け僧侶の姿もあった。
あやかしは、ぞろぞろと列を成して、瑠璃が語る華座の前に集まった。
語りが終わるまで待って、鞍馬は櫓に立ちあがった。
「よくぞ集まってくれた、浅草のあやかし共よ。西方より来たりし弧は鞍馬天狗、東都で人攫いを探しておる。見かけた者ぞあらんか」
禅寺問答のように呼びかけるが、あやかしは気もそぞろだ。
そもそも、人の言葉が分かる種類が少ない。目新しい仲間と意気投合してふざけ合ったり、体をぶつけて小競り合いしたりしている。
あやかしに、ここら辺で人攫いを見かけたか、聞き出すのは難しいか。
瑠璃と鞍馬が諦めそうになったその時、ろくろ首が首を伸ばして、櫓の中にいる瑠璃を覗き込んできた。
「声が似ていると思ったら、やっぱり。あんた琥珀といた娘義太夫じゃない」
「茶屋の娘じゃないか!」
ろくろ首の頭は、琥珀が馴染みにしている水茶屋の看板娘だった。
番付にも乗る美人で、夏場に差しかかってからは、瑠璃の頼みを主人に通して寄席を開催してくれた恩人だ。
「まさか、あやかしだったとは……」
「あんただって真っ当な人間じゃないでしょうが。琥珀に手を引かれているのを見て思ったのよ。化け猫の匂いがぷんぷんする女だって。その三弦のせいだったのね」
看板娘は、さらに首を伸ばして空に「の」の字を描くと、「琥珀が下手人じゃないの?」と笑う。
「顔のいい定廻同心に捕えられたって、仲見世はその話題で持ちきりだったわよ」
「人違いだ。誰か怪しい者を見ていたら教えてほしい。このままでは琥珀が裁きにあう」
江戸では、町人による殺しと放火は問答無用で死罪となる。
琥珀は人攫いの罪に問われているが、すでに何人もの女子どもが行方不明になっている案件だ。余罪が大きいとなれば、やはり重い刑を言い渡されるだろう。
それを阻止するためには、琥珀には犯行が出来ないと証明するか、本当の下手人を連れて行くよりない。
真剣に頼み込む瑠璃の様子に、看板娘は悪戯っけを出して絡んだ。
「あんた、琥珀を助けたいんだ。あいつは酷い男よ。誰にでも良い顔しておいて、口説きも連れ出しもしないんだから。そんな男、助けて何になるの?」
「華座が無くなったら、浅草の人通りは少なくなってしまうぞ」
琥珀の人気は凄まじい。他の三座も人気役者はいるが彼ほどではない。
大勢の客は琥珀目当てに遊びに来て、周りの店や芸事に銭を落としていく。
猿若町ひいては浅草は、琥珀の存在によって栄えていると言っても過言ではないのだ。
「琥珀さえ戻ってくれば、華座はお上に掛けあって再び興行を始められる。そうなれば客は自ずと戻るだろう。お前が働いている見世だって、琥珀がいないと困るはずだ」
「でもねえ。こっちには協力しても何の旨味もないわけで――」
瑠璃の周りを三周もしたろくろ首は、ふと鞍馬に視線を移した。
鞍馬は、濃い眉毛を上げて「何だよ」と口を曲げる。
「近くで見たらいい男! あんたも下手人を探してんのよね。ちょっと待ってて。怪しい奴を見ていないか、他に聞いてきてあげるから!」
下心が見え見えの顔で、ろくろ首はあやかしの群れに潜っていった。
程なくして、腹が茶釜になった狸がころころと前に転がり出た。
「おで、あやしい奴、見たぞ。浅草のあちこちを歩き回っている、背が高くて、色の白いきれいな女だ。煮売り屋の丼を買い占めて、物陰で全部食ってて、それから、迷子に声をかけて、連れて行った川縁で、それも全部食っていた」
「何でも食っちまうのか。それは、狐者異(こわい)って奴だな」
「知っているのか、師匠」
鞍馬は、懐から出したあられ菓子をばらまきながら、狐者異について教えてくれた。
「食い意地の張ったあやかしだ。上方で死体や塵を食っていたはずだが、ここ二十年ほど噂を聞かないようになったと思ったら、東都に来てたんだな」
地面に集まったあやかしは、あられ菓子の雨に大歓声を上げている。
人の食べ物は、ごく稀にありつけるご馳走なのだ。
狐者異が出てこないところを見るにつけ、人の食べ物ではなく人間の味を覚えて、浅草の子どもを攫って食うようになってしまったのだろう。
「狐者異を捕まえて、おせんちゃんに下手人だと証言してもらおう」
「そんな簡単じゃねえ。相手は何でも食っちまうが、見た目はただの小綺麗な女だぞ。あわよくば捕まえても、どうやって下手人だと証明する?」
「人を食っていれば、衣に血が付いているはずだ」
閃いた瑠璃のおでこを、鞍馬は指先で弾いた。
「この頭は飾りか。何のために攫った子どもを川縁で食ってんのか考えろ。血を流しちまうためだ。人の振りする能があれば、着物だって脱いで楽しんでるさ。瑠璃、もう諦めようぜ」
「あたしが諦めたら、あいつはどうなる」
琥珀には、未だかつてない程の危険が迫っている。瑠璃の耳には、張りの弱い弦みたいに、びいんびいんと間延びした音を立てて近づく、死の足音が聞こえる気がした。
「ねえ、あたし役に立ったでしょ?」
文福茶釜を見つけてきたろくろ首が首を伸ばして、鞍馬にまとわりついた。
「助かったぜ、別嬪さん。集まりし同胞たちよ。感謝しんぜる」
鞍馬が礼を告げると、あやかしは方々に散っていった。
ろくろ首は鞍馬に住処を耳打ちされて、ほくほく顔で仲見世の方へ向かう。あの調子だと明くる日の宵にでも落ち合って懇ろな仲になっているだろう。
渦巻いていた雲は元に戻り、辺りは再び静けさに包まれた。
「下手人の正体が分かってよかったな。さ、帰るぞ」
羽根を広げて瑠璃を抱え上げた鞍馬は、真下を見て首をひねった。
「残ってんのがいるな」
櫓の真下には、川獺が三匹いた。川獺とは河に棲んでいるあやかしだ。ひくひくと鼻を動かす仕草は動物のそれなのに、二本足で立っている。
瑠璃は、鞍馬に下ろしてもらい、しゃがんで川獺と目を合わせた。
「あたしに話があるんだな」
「うちら見たことあるよ。狐者異」
「どこで?」
「墨田川のそばさ。裸で子どもをムシャムシャ食べたあと、担ぎ手が四人もいる駕篭に乗り込んだの。お武家様の乗る上等なやつ。ねえ、あられ菓子をもうちょっとおくれよ」
ねだられた鞍馬は、「嘘だったら蹴飛ばすぞ」と言いつつ一袋くれてやった。
「嘘じゃないよ。赤いおべべを着た綺麗な男だった」
「男? 女じゃないのか」
「男だよ。だって胸の頂がなかったもの」
瑠璃はふと思う。おせんも言っていた。人攫いは野郎帽子を被っていたと。
つまり、下手人は女の格好をした男なのだ。
「琥珀のように、女形なんだろうか?」
「かもなあ。駕篭を使ったってことは移動代を支払う当てがあるはずだ。武士か名うての商人にでも囲われてんじゃねえの」
「あやかしを愛妾にする男が、この江戸にいるのか」
びん、と弦が跳ねる音がした。見れば、川獺の赤子が爪で三の糸を弾いていた。
聞こえていたのは死の足音でも何でもない。単なるあやかしの悪戯だ。
「ありがとう。狐者異は、あたしが絶対に見つける」
感謝を聞いた川獺たちは、あられの袋を握ったまま隅田川の方へ消えていった。
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