正午になる前に二人は起きた。

 寝ぼけ頭で粥をかき込み、屋敷を出て猿若町に向かう。

 琥珀が倒れたため華座は休んでいるが、他の三座は興行していた。

 通りには絵入りの芝居番付が掲げられ、その前には高麗屋格子に芝翫縞と役者文様の着物が群れる。役者の紋を入れた根付や扇子、手ぬぐいが山と並び、役者の顔が見栄えする大首絵やら台詞本である鸚鵡石が飛ぶように売れていく。

 芝居で成り立つ町ではあるが、その熱狂ぶりがたまに恐ろしい。平然と周りに手を振る琥珀を見つつ、瑠璃は黙って後に従った。


「それじゃ、僕は皆に顔を見せてくるね」


 琥珀と華座の前で別れた瑠璃は、一人で仲見世を目指していく。

 目の前を小間物売りの女が横切った。

 何気なく頭に手をやって、普段使いの簪は七彩にやったのだと思い出す。

 娘義太夫が手絡だけというのも寂しい。

 男のような裃に若衆髷で男装いをするのが定番だが、瑠璃は薄暗いヒラキでも見劣りしないように、銀杏返しに鹿の子留、時には芸者らしいびらかんや吉丁までも挿していた。


「少し見せてくれないか」


 担箱を下ろした女は商品を広げた。瑠璃はその中から、摘まみの簪を持ち上げる。

 ちりかんの根元に摘まみ細工の花がくくり付けられた品だ。

 花の色あいは琥珀と瑠璃。一目で気に入ったがなかなか高価だ。

 いつまた稼げるか分からないし、安い玉簪を選ぶべきである。だが、いつまたこんな風に二人の色が並んだ小物に出会えるかも分からない。

 結局、瑠璃はそれを買ってしまった。


「まいどあり」


 高級品が売れて嬉しかったのだろう。女は雲を踏むような足どりで去って行った。

 黄昏に染まった川を鏡にして簪を挿した瑠璃は、急にむすがゆくなった。

 何があいつの色だ。こんなもの本物には遠く及ばない。

 気を取り直して雷門に向かう。

 陽は落ちて、提灯が点けられた仲見世からは、段々と人が減っていく。

 行燈の油代も馬鹿にならないので、多くの町人は陽が昇ったら起きて沈んだら眠るだけの暮らしをしているのだ。

 顔見知りの団子屋で、売れ残りの串を恵んでもらっていると、声をかけられた。

 相手は鞍馬だった。交渉事でもあったのか、長着に羽織をまとっている。

 無視して歩き出すが、無理やり隣に並んできた。


「奇遇だな、瑠璃。ここいらで浪花因講の席を設けちゃくれないかと、名代や香具師に話をしてきたところだ」

「素人義太夫ならまだしも、浅草くんだりで因講は認められない」


 お上の意向で、浄瑠璃や芝居小屋もまた猿若町に移動させられた。

 名代はそこの関係者だ。浪花因講のような旅の一座に客を取らせては、自分たちの実入りは確実に減るため、興行の許可を出しはしないだろう。


「お見立て通り拒否されてきたぜ。どうせ古臭い上方仕込み、千住の旦那衆に紹介してやるから袖の下を振れと馬鹿にされちゃあ、頭を下げる気も失せらあ」

「それでどうしたんだ。取っ組み合いでもしたのか」

「本気でやったら人死にが出ちまう。耐えたよ、俺様は」


 鞍馬は、瑠璃の手元から草餅の串をかすめとって食らいついた。


「騒ぎを起こして、浪花因講を解座させられたらかなわねえからな。渡世稼業といえど、一緒にやってきた義太夫、三味線弾き、人形遣いや奥役を放り出すわけにはいかねえ。そろそろここも潮時かね」


 ヒラキに入りかけた鞍馬が足を止めた。瑠璃が押しのけて中に入ると、奥まった位置にある舞台の上に、小さな女の子が蹲っていた。


「おせんちゃん?」


 瑠璃が呼びかけると、女の子は顔を上げた。


「お瑠璃ちゃん!」


 霜月長屋で隣に住む、大工の夫婦の一人娘だ。

 浄瑠璃に興味を持っていて、常磐津の師匠に三味線を習いに行っている。

 家業を継ぐのが当たり前の男の子とは異なり、女の子は御殿女中に召し上げられれば一生飢えずに暮らしていけるため、複数の習い事をさせるのが当たり前だった。

 おせんも、舞や華道、女筆指南に通って毎日忙しそうにしている。


「どうしたんだ、こんなところで」


 瑠璃がしゃがむと、おせんは黒目がちな瞳をうるりと揺らした。


「怖かったよぉ。舞の稽古からの帰りに女に追いかけられたの。お姫様みたいな真っ赤なおべべ着て、あたしの後を付いてくるのに周りの大人は誰も気づいていないのよ。このままじゃ食べられるって一生懸命に走って、お瑠璃ちゃんの小屋に隠れたの」


 若狹が言っていた人攫いの話は、本当だったらしい。

 瑠璃は、おせんの背をゆっくりと撫でた。


「よく逃げたな。偉いぞ。すぐに、とと様とかか様のところに連れてってやるからな」


 ぐずぐずと泣くおせんを抱き上げた瑠璃は、出口に立っていた鞍馬に呼びかけた。


「あたしは長屋に帰る。今ごろ、子どもがいなくなったと大騒ぎになっているはずだ。師匠は勝手に帰ってくれ」

「瑠璃。お前、自分がどう見えるか忘れてるだろ」


 鞍馬は、衣紋から抜いた風車をおせんに渡し、軒にかけていた提灯に息を吹き込んだ。

 ふっ。その一息で、鬼灯色の提灯の内側に火が灯る。


「人攫いにしてみれば、瑠璃もお嬢ちゃんもそう変わりゃしねえよ。逃がした鴨が葱背負って現われたと、二人まとめて誘拐されてもおかしくねえ。俺様が送ってやる」


 先導して歩き出した鞍馬の後を、瑠璃は黙ってついていった。

 赤い着物の女は見えない。しかし、相手があやかしならば、隙をついて襲いかかってくるはずだ。人ならもっと安心できない。

 いくら鞍馬がいるとはいえ油断は命取りである。


「おせんちゃん、人攫いはどんな人間だった?」

「綺麗だったよ。肩が丸くて、背がひょろっと高くて、顔が真っ白なの」


 脳裏にぼんやりと浮かんだのは、赤姫に扮した琥珀の姿だった。

 違う。あいつではない。

 琥珀は今頃、華座の芝居者や奥役、留場と語らっているはずだ。昨日のお礼を伝え、ぴんぴんした姿を見せて安心させているところだろう。

 たどり着いた霜月長屋には、不安そうなおせんの両親ら住人と、この辺りを見廻る岡っ引き、定廻同心の若狹、それに加えてなぜか琥珀がいた。


「おせん、無事だったか!」


 瑠璃がおせんを両親に渡すと、駆け寄ってきた琥珀が泣きそうな顔を見せた。


「無事だったんだね。ヒラキにいなかったんで霜月長屋に走って来たら、皆して女の子がいなくなったと大騒ぎしているんだもの。まさか瑠璃もと思って不安になったよ」


 琥珀はそう言うと、ぐすりと鼻を鳴らした。

 こんな事で、泣くほど柔な男ではないと思っていたが……。

 すぐに思い直す。琥珀は瑠璃に死んでほしくないのだ。顔色悪くおせんの帰りを待っていた両親のように、心の深いところで瑠璃を想っている。

 口だけの冗談ではなかったのかと戸惑って、瑠璃は買った簪を隠したくなった。


「なんだ瑠璃。お前、男と暮らしてたのかよ」

「この人は?」


 鞍馬の口うるさい父親のような態度に、琥珀はきょとんとした。


「こいつは、あたしの師匠だ」


 瑠璃が説明してやると、琥珀はぽんと手を打った。「あの天狗の!」と叫ぶ口を押さえると、「もごごごもご」と変な声が漏れた。

 住人らは、おせんと両親の再会に涙を浮かべて、こちらには気づいていない。


「おせん殿。某は若狹という同心だ。思い出すのは辛かろうが、人攫いの風貌を教えてもらえないだろうか。浅草では人攫いが頻繁に起きているが誰も下手人を見ていないのだ」

「ええっと、そうね。あの人みたいに、頭に布を載せてたわ」


 おせんが指さしたのは琥珀だった。琥珀は、ぽかんと口を開けて驚く。


「僕?」


 琥珀は女物の小袖を着ているし、肩はなで肩だ。女形は、少しでも女性らしく見えるように、肩甲骨を寄せて肩を落とす姿勢が身についている。

 それに、結った若衆髷には、月代を隠すための野郎帽子を被っていた。

 若狹は、微塵も疑っていないような顔で琥珀に向き合った。


「ここに来るまでの間、琥珀殿はどちらにいた?」

「昼まで木挽町の屋敷にいました。それから猿若町の華座に行って、浅草裏のヒラキの辺りを歩いて回り、霜月長屋に来たのが夕刻です」

「なんでそんなにぶらぶらしてらぁ。あんたが子どもを攫ってんだろ!」


 前のめりになった岡っ引きは、白雪駄を履いた足を踏み出して、歌舞伎の荒事さながらの見得を切った。


「べらんめえ。若狹の旦那は甘えが、おいらの目はごまかせねえぞ!」

「部下がすまんな。無実だと証言できる人間はいるか」

「…………いません」


 若狹は、腰から十手を引き抜くと、琥珀の腕をとって後ろにひねった。


「取調べのため、番屋までご同行いただこう」

「待ってくれ!」


 さすがの瑠璃も焦って若狹に抗議した。


「その男が人攫いなんかするはずがない。金も人気も十二分にある。屋敷だって立派だ。子どもを攫ってどうするっていうんだ」

「人攫いの思惑は多様だ。単なる幼子への興味で、武士の子を連れ去った事件もある」

「そんなはずない。そいつが執心しているのは、あたしなんだから!」


 負けじと言い返すと、若狹は手を刀にかけた。


「肩入れすれば、瑠璃殿もお縄に頂戴致す」


 同心といえど若狹は武士。町人の瑠璃が楯突いてどうこうなる相手ではなかった。

 だからといって、このまま琥珀が連れて行かれるのは嫌だ。


「そんな横暴に屈するものか。あたしは、むぐ」

「いやあ、弟子が迷惑かけました」


 瑠璃の口を塞いだのは鞍馬だった。


「二度とこういうことが無いように叱っておきますんで、ここは穏便に頼みます。ほら、瑠璃。頭を下げな」


 鞍馬の手で力いっぱい押されると、嫌でも頭が下がってしまう。

 じたばたと身をよじると、鞍馬は「静かにしな」と囁いた。


「子どもの目撃談だけじゃ、奉行所だって裁かねえ。この同心、捕まえるにしては少しも疑ってねえよ。部下の手前、ひとまず身柄を渡して番屋で事情を聞くだけだ。ここで問題を起こせば、その機会も失うぞ」

「……騒いですまなかった」


 鞍馬の勧めを飲み込んで頭を下げれば、若狭は踏み込んでこなかった。

 おせんの両親にまた話を聞きに来ると言付けて、琥珀と共に木戸をくぐって霜月長屋を出ていく。始終、琥珀はうな垂れて、うんともすんとも言わなかった。

 しゅんと曲がった背を見送る瑠璃は、切なく痛む胸を押さえた。

 この苦しみには覚えがある。

 後朝に去って行く牛若丸を、御簾の中から見送った時と同じだ。

 あの日、振り返らずに去って行った恋人は、二度と会いには来なかった。

 待ちわびるうちに、遠い浜辺で死んでいた。


「琥珀……」


 瑠璃は走り出した。体の奥でうぞうぞと蠢く感傷が、行かせてはならないと騒ぐ。

 行かないで。戻ってきて。

 そうでないと、あなたさまは――。

 若狹が通りに出ると、戸は閉じられてしまった。

 勢い余って、瑠璃は硬い木戸に手を突いた。

 あいつが下手人なわけがない。おせんちゃんは人違いをしている。他に人攫いの目撃者がいたら、下手人が琥珀ではないと証言してもらえるのに。

 涙がじわりと浮かんで視界がぼやけた。

 木戸の湿った木目が、あやかしのように見えて、はっとする。


「浅草にいるあやかしなら、本物の下手人を見ているかもしれない」


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