足下に火の消えたぶら提灯を転がし、羽織をかき合わせて琥珀はしゃがみ込んでいた。


「どうして表で待っていた。ちゃんと眠って体を治せと言っただろう!」

「瑠璃が心配で。……何もなかった?」


 駆け寄ると琥珀は立ち上がり、心配そうな顔つきで瑠璃の体を見下ろす。

 格子の向こうをねぶるように見る男たちとは違う、好色のこの字も見えない純粋な眼差しで。


「見ての通りだ。暴漢にはあわなかった」


 天狗には遭遇したが黙っていることにした。

 冷えた手を引いて門をくぐる。歩きはじめた赤子のようについてきた琥珀は、瑠璃の髪に引っかかっていた鳥の羽根を抜いた。


「瑠璃の簪が羽根に変わっている。ずいぶん大きいけれど、何の鳥?」


 隠し事は出来ないようだ。瑠璃はしぶしぶ答えた。


「それは、師匠の……天狗のものだ」

「師匠が天狗って牛若丸みたいだ。瑠璃はやっぱりすごいや」


 荒唐無稽な話に、琥珀は笑顔でのってきた。

 何を感じて何を思っているのか明け透けに分かる。

 琥珀には心がある。とびきり元気で、喜べば飛び跳ね、悲しければだらりと伸びる、立派な心が身のうちに宿っている。

 瑠璃は初めて人を羨ましいと思った。その思いは、胸をぎゅうと締めつける。


「お前、どうしてあたしがいいんだ」


 振り返った瑠璃は、黒々とした眼で羽根を振る琥珀を見た。


「あたしは無様な語りしかできない。しおらしくも出来ないし、愛想も金子も心もない、ろくでなしだ」


 苦しい胸に、ずぶりと刃が刺さった。

 語りをこき下ろされて、瑠璃が抱いた自責の念は、胸の辺りに見えない匕首を作りだした。匕首は、いつも何をしていても瑠璃の胸をちくちくと刺す。

 深手にならないように気を付けていたのに、まさか琥珀のせいで貫く羽目になるとは。

 胸が苦しい。目を伏せた瑠璃の視界に映るように、琥珀は腰を落とした。


「それでも、僕は瑠璃がいいよ」


 答える声は澄んでいた。表情も安らかで、瑠璃は苛立つ。


「だから、どうしてだって聞いている」

「初めてお姫に会った時、やっと見つけたって思ったんだ。僕の直感がこの子だって言った。己の半身だと自然に分かった。それで十分さ」

「そんなの」


 理由になってないじゃないか。でも、瑠璃には不思議と琥珀の気持ちが分かった。

 音曲に誘われて現れた男を見て、ああ、あたしはこいつを待っていたと思ったのだ。

 前世の義経にも、今生の琥珀にも、酷く胸が熱くなったのだ。それを覚えているから望みを捨てきれない。ちゃんとあたしにも心はあるんだって。

 琥珀に促されて屋敷に入る。水で足を濯がれて、支えられて歩く。

 自分の部屋に着いた琥珀は、明け六つを報せる鐘の音を聞きながら、敷いたままの布団に腰を下ろした。そして、白魚にも似た指をひらめかせて瑠璃を手招く。


「おいで」


 水蜜桃のように甘く艶めかしい仕草に逆らえず、瑠璃は彼の隣に寝転んだ。

 狭いので自然と肩がくっつく。真白い綿に染みついた、汗とも白粉とも付かない男の匂いに包まれたら、もう瑠璃は耐えられなかった。

 知ってほしい。あたしがどういう女なのか。


「……あたしは、生まれてから師匠に見出されるまで、河原の菰張りで『腹裂き娘』として見世物になっていた」


 播磨の山中で、身重の女が化け猫に食われ、腹の中で子どもを産み、その子が腹を裂いて退治したという触れ書きで、弾けもしない三味線を持たされていた。

 見世物小屋というのは狭苦しい場所である。来る日も来る日もうす暗い菰の下にいて、興味本位で覗きに来る人間に見られるのだ。

 罵倒されることもあった。瑠璃の存在は、御客にとっては詐欺も同じだからだ。

 見料を払って、どんな化け物がいるかと小屋に入ってみれば、小柄な子どもが三味線を抱えて座っているだけ。音曲も弾けないので見応えは全くない。

 客を怒らせても興行主は瑠璃を手放さなかった。顔が整っていたので、成長したら女衒にでも売ろうと思っていたのだろう。

 晴れの日も雨の日も、罵られても笑われても、瑠璃はひたすら座っていた。

 心のない人形のように笑いも泣きもしなかった。

 ただ胸のうちには前世の思い出があった。夜な夜な義経を思い出し泣くだけの日々が、彼を助けられなかった己に与えられた運命なのだと全てを諦めて生きていた。

 そんなある日、霊山を下りて人里観光と洒落込んでいた鞍馬が小屋に入ってきた。


「すげえな」


 感動した風な口調に黒い目を動かして見れば、鞍馬は、瑠璃の目の前にしゃがみ込んでいた。だが、注目しているのは三味線の方だ。


「本物じゃねえか。こんなの今まで見たことねえ」


 本物とはどういうことだろう。覚束ない声で尋ねた瑠璃に、鞍馬は「その三味、播磨の化け猫の皮を張ってある」と教えてくれた。


「その化け猫は京の白拍子狐と双璧でな。好んで人を食うと有名だったんだよ」


 となれば、自分が化け猫の腹を裂いて生まれたというのは、真実だったのか。

 母は臨月で化け猫に食われ、その体内で瑠璃を生んだのだ。

 ぼんやり物思う耳に、鞍馬の耳障りのいい声が入ってくる。


「その三味線には化け猫の妖力がある。あやかし退治でもものにすりゃ、こんなところで見世物になってなくとも食っていけるぜ」

「おあし、かせげる?」

「ああ。つっても稼ぐのは飯のたねじゃなく、飯そのものだがな」


 あやかしはな、滋養がつくのさ。 

 そう言って、鞍馬はあやかしを食う方法を教えてくれた。

 人に取り憑いたあやかしは食べやすい。化け猫の三味線で払ったのを食らえば、一月は生き長らえられるという。


「なんで知ってるかって? 俺様は鞍馬天狗だからさ。人に化けるも人を化かすも自由自在の天変地異。何でも出来るあやかしだ」


 鞍馬は茶目っ気を出して、一瞬だけ鼻を長く伸ばしてくれた。

 瑠璃の胸に、稲光にも似た戦慄が走った。

 あやかしは、本当にいるのだ。

 恐ろしいのになぜだか安堵して、瑠璃は木を削って作った飾り撥を振る。


「はらう、おしえろ」

「悪いがそいつは経験がねえ。歌舞伎役者みたいに、決め台詞でも持てばいいんじゃねえか。女がやるとなると芝居より浄瑠璃かねえ。習いに行ってみりゃいいぜ」

「おしえろ」


 真顔で迫ると、鞍馬はうっと息を詰めた。首の後ろをかいて、しまいには降参する。


「関わったのが運の尽きか。ちょっと待ってろ」


 そして、見世物小屋の興行主にまとまった金子を渡し、瑠璃を買い入れてくれた。

 化け猫の皮を張った三味線を背負い、鞍馬の手に引かれて河原を歩きながら見上げた黄昏は、息の根が止まりそうなほど美しかった。

 その後、瑠璃は鞍馬が贔屓にしていた太夫から三味線を習った。

 一方の鞍馬は、上方の義太夫を集めて浪花因講という興行一座を結成した。


「三味も語りも上手くなったな、瑠璃。次は興行しながら、あやかし食いを覚えろ」


 鞍馬は、歌舞伎の厄払いと呼ばれる台詞を教えてくれた。

 盗賊のお嬢吉三が披露するものだ。人探しに行った江戸で観て気に入ったらしい。

 なぜ歌舞伎なんだと思ったが、瑠璃が磨いた浄瑠璃の腕を、あやかし払いの道具にしないための親心でもあるのだろう。

 上方は席巻したから次はお江戸と洒落込んで、東都に来たのが二年前。

 瑠璃が一座を離れたのが一年前だ。

 浅草界隈の興行権を持っている名代に頼み込み、雷門裏にヒラキを建てる許可を得て、霜月長屋を紹介されたのは幸運だった。

 でも、幸運だけでは芸事はやっていけない。


「心がなければ、どれだけ稽古を積んでも、人を感動させる語りは出来ない。浄瑠璃を続けられないかもしれない。早くあいつを見つけて殴ってやらないと、あたしは……」


 両手で顔を押さえる。

 腕枕で話を聞いていた琥珀は、布団の上からとんとんと瑠璃の胸元を叩いた。


「疲れていると落ち込むよね。少し眠ろう」


 こんな悲惨な話を聞いても、琥珀は瑠璃を抱こうとはしなかった。体が痛むほど滅茶苦茶にされたら、きっと瑠璃は夢を諦められたのに。

 とん、とん、とん、とん。琥珀は、布団の上から瑠璃の胸を優しく叩く。

 一定で刻まれる調子は、黒御簾から聞こえてくる鳴物のようだ。目を閉じると鼓動のようにも聞こえてくる。

 まるで化け猫の腹の中。目が独りでに閉じる――。

 寝息を立てる瑠璃をひとしきり眺めた琥珀は、黒い羽根を取りだした。

 二年前の江戸で、三人吉三を興行していたのは華座だけだ。

 不評でお蔵入りした作品を三十年の時を経て再演し、大衆人気に火を付けたので、他の小屋ではないと断言できる。


「鞍馬天狗は、僕のお嬢吉三を見て、瑠璃に厄払いを教えたんだ」


 自分の演技が惚れた娘の身を助けている。

 それだけで嬉しくなって、琥珀は幸せな気持ちで眠りについたのだった。


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