とっさに退けた瑠璃の前に着地したのは、ざっくばらんに切った黒髪と、菊綴を施した結袈裟をかけた男だった。

 山伏のような装いだが、法螺貝も経文も身につけていない。その代わり、抜いた衣紋に赤い風車を差している。

 修験道を納めたように装って、病人や気落ちした人々に祈祷を行う通り芸人だから、信心の品はいらないのである。


「くっそう。銀七六匁も詰んだのに、手も握らしてくれねえとはな……」


 愚痴る顔だちは、中々の勇み肌。

 面が良いので岡惚れする娘も多いが、江戸っ子でもなければ侠気もない。

 つくづく見た目を裏切る男だと瑠璃はよく知っている。


「師匠……」

「おっ。誰かと思えば瑠璃じゃねえか」


 にやりと笑う男は、上方から来た義太夫集団〝浪花因講〟の座頭で名を鞍馬という。

 瑠璃が娘義太夫として独り立ちする前に世話になっていた育ての親である。


「何してんだ、こんなところで。金に困って身売りでもしに来たか?」

「芸は売っても身は売らない。そっちこそ何をしているんだ」

「ここは吉原だぜ。遊女遊びに決まってんだろうが。でも抱けなかった。大枚はたいて一番上等なのを呼んだら、初回は顔合わせだけで触れるのは三度目からだとさ。俺はそんなに待てねえって迫ったら、煙管を額にじゅうと押しつけやがった」


 鞍馬が指で押さえた額には、赤い火傷が出来ていた。

 安値の遊女とは違い、太夫に相手をしてもらうには手順がある。

 初回は、目も合わせず口も聞いてもらえない。二回目で会話してもらえるようになり、三回目でようやく床入りが叶うのだ。


「師匠は馬鹿だな。そんなこと、あたしでも知ってる」

「俺様だって知ってるわ。押せば一度目でいけると思ったんだよ」


 がりがりと頭をかく鞍馬と瑠璃を、引手茶屋から走り出てきた下男たちが取り囲んだ。


「うちの太夫へ詫びてもらおうかい。それが出来ねえって言うならひっ捕らえるぞ」

「ああ? 捕らえてどうすんだ。桶伏にでも入れて見せしめか。困っちまうな。俺様みたいな男伊達を置いといたら、遊女は皆、気もそぞろで仕事にならねえだろうさ」


 鞍馬は、そう言うなり傍らにいた瑠璃を小脇に抱えた。


「何をする!」

「逃げるに決まってんだろうがっ」


 鞍馬は下男を蹴り倒した。走り出す足は俊足だ。

 人間離れした脚力で横丁へと入り、あっという間に端の番屋へたどり着くと、振り返って尖らせた唇から息を吐いた。

 ふっ。その一息が突風となって、連なる提灯が端からざざっと消えていく。

 突然の暗闇に、追ってきた下男は混乱している。


「人間様ってのは足が遅えな。そんなんだから、あやかしものに化かされんだよ」


 笑う鞍馬の背から黒い翼が生える。久しぶりに聞く羽根の音に瑠璃の目が冴えた。

 鞍馬は、人間のなり形はしているが別のもの。

 山伏の姿をしたあやかし、人呼んで天狗だ。

 強い羽ばたきで空へと浮かび、柵を乗り越えた鞍馬に瑠璃は言う。


「下ろせ」

「ここで手を離したらお歯黒どぶに直行だぜ。てめえはこのお師匠様が、安全なところまで運んでやる。そこで良い子にしてるんだな」

「今さら師匠面か」


 瑠璃は呆れた。こちとら袂を分かった瞬間に畏敬の念は消え失せたというのに。

 一年ほど前、上方で活動していた大勢の義太夫らと共に江戸入りした瑠璃は、両国橋にある上等な舞台に上がらせてもらっていた。

 江戸にも娘義太夫はいるので芝居頭取は出演を渋ったが、鞍馬が上手い口上で丸め込んでの出演だった。

 ひとたび瑠璃が語ると瞬く間に評判になった。

 人形浄瑠璃の人形のような娘が、自ら弾き語るのだから受けないはずがない。

 だが、語りを聞いた有名な戯作者は、『素人浄瑠璃評判記』でこうこき下ろした。


 ――瑠璃という娘義太夫、語りに心なし。


 そんなはずはない。瑠璃の胸のうちで憤然と火が燃えた。

 浄瑠璃は人生の悲哀そのものだ。

 恋の素敵と残酷を重ね、復讐に人情を溶かし、生死に色を添えて語る。

 瑠璃は、義太夫になると決めてから何万遍も床本をさらい、現われては消えていく登場人物の気持ちに寄り添って語ってきた。

 喜びも悲しみも表現できていたはずだ。

 瑠璃は、火のついた頭で、評判を否定するように日夜稽古に明け暮れた。

 声が枯れるまで語り、硬くなった指先が割れるまで弦を弾き、ついに倒れた。

 鞍馬が敷いてくれた布団に横たわって休んでいると、宿場の主人の一人娘が三味線を持って現われた。習い事の成果を聞いてほしいのだという。

 娘義太夫になりたいという娘は、『ひらかな盛衰記』の一の切を披露した。

 彼女が語る巴御前は、恋慕する木曽義仲のために戦う女武者とはほど遠い、なんとも可憐で柔らかな少女だ。楽しげに笑いながら語るものだからそう聞こえる。

 正直いって下手だったが、床に伏した瑠璃を楽しませるには十分だった。

 面白かったと伝えると、娘は弾けるように笑った。

 あたしは、こんな風に浄瑠璃を語れているだろうか。

 楽しい演目は楽しく、悲しい演目は悲しく、笑える演目は笑う。

 役に寄り添うならばそうあるべきだ。しかし、瑠璃はいつも冷静だった。

 ああ、あたしは本当に心がないのかもしれない。

 なぜなら、生まれてから長い間、真っ当な人では無かったからである。いや、今も違うのかもしれない。普通の娘義太夫は、あやかしを飲み込んだりしない。


「ここいらでいいか」


 鞍馬は、瑠璃を浅草寺の裏手で下ろした。

 まだ暁七つにも満たない時刻で、今から霜月長屋に行っても木戸は閉まっている。

 仕方なく瑠璃は立て直した自分のヒラキへと向かう。


「師匠、こっちに座れるところがある」


 菰張りの粗末な掘っ立てを見た鞍馬は、顔をしかめた。


「お前、俺様んとこ出て行ってこんな場所で語ってんのかよ。独りで小屋ぁ持つより、顔利きに寄席を組んでもらえばいいじゃねえか」

「座敷ではあの男を見つけられない……」


 瑠璃が口ごもると、鞍馬は面倒そうに首の後ろをかいた。


「義経の生まれ変わりだっけか」


 瑠璃がヒラキで興行を行う理由はここにある。

 玄人の義太夫は、芝居地の操座や寺社境内の宮地芝居、江戸中の寄席で語る。しかし、上等な座敷に上っていては、裕福な御仁としか出会えない。

 それに対して、浅草は様々な人間が行き交う。歌舞伎の江戸四座がある猿若町が呼び水となって、身分も年齢も関係なく江戸の人々が集う娯楽の聖地だ。


「俺様には分からねえ。前世で死に別れた男を捜して何になるんだ?」

「一発殴る。そうしたら、あたしはきっと心を取り戻せる」


 瑠璃だって年は取る。いつか娘でなくなる頃まで義太夫を続けるためには、心の籠った語りが出来なければ話にならない。

 心を得て、批評家に認められ、番付に載るのが瑠璃の目標だ。


「だから、師匠のところへは帰らない」

「なんでそう頑なかね。別に心なんか無くたって浄瑠璃はできるじゃねえか。娘義太夫は引く手数多だ。俺様んところに居れば、食うに困らない様にはしてやるし、何なら俺の嫁さんにでもなりゃいい」

「それは無理だ」

「無理ってなぁ。こら瑠璃、止まれ!」


 わめく鞍馬を放って、瑠璃は帰路についた。

 空が白んでくる頃には木挽町に着く。顔を上げれば、門の前に黒い人影がある。


「琥珀……?」

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