三
浅草寺裏手の道を進み、日本堤を辿った先に、田んぼに囲われた吉原がある。
そこに一人で向かう瑠璃は、琥珀に届いた文を胸元に刺していた。病み上がりを押して返しに行くと聞かなかったので、代理を買って出たのである。
楽しげな男たちに紛れて、見返り柳を曲がり、立派な大門をくぐる。
見張番が疑いの目で見てきたので、寄席で貯めた金子をチャリと鳴らしてやった。
大門からまっすぐに伸びる大通りには、軒先に提灯を並べた引手茶屋がずらりと並ぶ。太夫など格の高い遊女と遊ぶには、まずこういった場で対面しなければならない。ややこしい訪いを経てようやく触れられる玉の肌は格別だろうが、ただの町人には夢もまた夢。
日銭で抱ける女は薄暗い小路にいる。朱色に塗られた格子の中で、中には美しい表着に身を包んだ娘が並び、白い指をひらめかせて指名を待っている。
垣間見する男たちの群れを追い越して、目指すは『有里屋』という揚屋だ。首をめぐらせて歩いていくと、京町二丁目の奥の奥、お歯黒どぶの匂いがわずかに漂う見世の端に建っていた。
「七彩という娘を」
玄関で言いつけると、眉尻がつり上がった遣り手の婆が格子内に声をかける。
「七彩。指名だよ」
「はあい」
妙に明るい声がして、螺子梅の着物を着崩した背の高い娘が現われた。衿をぐっと開いて白い胸元を晒し、裾から棒きれのような足を覗かせている。
白粉の薄い顔立ちを見るに、瑠璃と変わらない年齢だ。
「綺麗な主さん。あちきを買ってくださりんすか」
色っぽい廓訛りで手を出されて、瑠璃は困った。
文を渡したらすぐに去るつもりだったが、七彩に愛嬌たっぷりに笑いかけられたら、一銭も払わないで帰るのは罪悪感がある。
幸い、瑠璃の懐にはまとまった金があった。
悩んで一分銀を三枚渡すと、遣り手婆が急に笑顔になった。
「まあまあこんなに! どうもありがとうございます。七彩、しっかりやんなよ」
「はあい。あちきに付いてきておくんなんし。名前は聞いてもようござりんすか」
「瑠璃、という」
「名前まで綺麗やわあ」
七彩は瑠璃の手を取り、右褄を掴んでのそのそと二階に上がった。
小部屋に通された瑠璃は、赤い座布団に座らせられて、お猪口を握らせられたところで我に返る。
「さっきのじゃ多かったのか?」
「ほんざんすねえ。次にうちで誰かを買うんなら、銀一分で十分や。おかげで向こう一月は食べさせてもらえるから、あちきは多くて大助かりでござんす」
七彩が銚子を持ち上げたので、瑠璃は首を振る。
「酒は飲めないんだ」
「では、甘酒を用意させりんす。それとも薄茶の方がよろしうござんすか」
「茶で頼む」
障子の向こうに控えていた下男に茶と菓子を頼んだ七彩は、瑠璃の元に戻ってくるとしな垂れかかってきた。
弱い吐息が首にかかってくすぐったい。身を竦めると、甘えるように胸元に手を伸ばされて、唐突に理解する。
女が好きな女だと誤解されているようだ。
「待て。金は払ったが、あたしはお前とどうこうする気はない」
「あらまあ。払い損」
七彩はケラケラと笑った。
夜の色町よりも、活気のある昼間の日本橋が似合いそうな朗らかな娘だ。
「花見の季節には話すだけの女の客も来やんすが、夏場に買われるのは初めてでござりんす。むさ苦しい男の相手をしなくてようござんすな」
「お前は、好きでここにいるわけではないんだな?」
「当たり前でやんす。遊女にとっちゃあ、買われると一夜の苦痛、買われなければ食われぬ苦痛と言いなんし、ここには苦しいことしかござりんせん。お客さんも大門を通ってきたでありんしょう。あそこ以外は柵で覆われて、ろくに歩きんせん身では乗り越えらんないんでやんす」
着物の裾をつまんだ七彩は、棒のように細い足を出して、艶めかしく交差させる。
「いくら華やかに飾ろうと、ここは牢獄でありんす。あちきらは、借金を返すまでは一歩だって吉原の外に出られんせん。恋だってできんせん……」
遠い目をした七彩は、廊の気配に気づくと立ち上がって襖を開けた。
盆に載せられた茶と饅頭を受け取り、丁寧に瑠璃の前に出す。
「主さんはどうしてここへ?」
「木挽町の屋敷に間違って届いた文を返しに来たんだ」
瑠璃が胸元から文を取り出すと、七彩の顔色が変わった。
「なぜ猿若町でなく木挽町に届いたんでありんしょ。あちきは、華座の女形に届けなんしと言付けたのに」
「小僧を叱らないでやってくれ。その屋敷には華座の立女形が住んでいるんだ。琥珀という名前の。そいつに宛てた文ではないんだな?」
「ええ。あちきの目当ては紅玉様。ほら、絵姿がここに」
七彩は、部屋の隅に置いてあった行李から、紅玉の役者絵を出した。
何度も取り出して見返しているらしく根の深い皺がついている。
「渡したい相手は紅玉だったのか……」
瑠璃は後悔した。吉原まで返しに来なくても、華座で渡してしまえば済んだのに。
「お前、紅玉に文を出すのは初めてか?」
「初めてではござりんせん。いつもは車屋に頼むでありんすが、捕まらず仕方なく小僧に頼み申しんした」
小僧は、華座の人気女形と聞いて宛先が琥珀だと勘違いしたのだろう。
誤配達は仕方がないが、しかし疑問が残る。
何度か七彩の文を受け取っているはずの紅玉は、なぜ琥珀が七彩の名を出した際に、自分の知り合いだと話さなかったのだろう。
吉原に通っている事を隠したかったのだろうか。
考える瑠璃の手から、七彩は文を引き抜いた。
「散々なもんだね。どんだけ甘えて尽くしても男はすぐに浮気する。飲まないとやってられんわあ。今夜は付き合ってくれなんし」
「ああ」
その後、瑠璃は丑の刻まで、七彩の絡み酒に付き合わされた。
「幼い頃に馬に轢かれて足が悪いあちきを、それでもいいと嫁に乞うてくれた幼馴染みがありんした。あちきは、その男が仇討ちする金子を手に入れるために、吉原に身売りしたんでござりんす」
仇討ちは武士の特権だ。命より名誉が武士の一分。
浄瑠璃では、曾我兄弟で有名な『曾我物』が仇討ちの物語である。十郎、五郎がそうだったように、家についた汚辱はたとえ一族を破滅させても雪がねばならない。
許嫁のために身を売って尽くす七彩は、武家の御新造に相応しい度胸の持ち主だ。
感心する瑠璃は同時に、こんな女こそ琥珀には似合うのにと考えてしまった。
感じる痛みは重い、餅つきの杵で肺を突かれているようだ。
胸が、苦しい。
「ああ……。早く自由になりたい。あちきも主さんみたいに、好きなところに出歩きたいでありんす」
うっとりと呟いた七彩は、瑠璃の簪を指で弾いた。垂れの飾りが気に入ったらしく、何度も何度ももて遊ぶので、抜いて手に握らせてやる。
「こんなので良ければくれてやる」
「ようござんすか? ありがとうござりんした」
七彩は、嬉しそうに笑って簪を行灯の火にかざした。
仲良く布団に入った二人は、この簪にはこんな着物が似合うとか、花見の枝に上等な着物をかけて見せびらかしてみたいとか、女同士でしか成立しないような話をした。
といっても、しゃべっているのは七彩で、瑠璃はもっぱら聞き役だった。
七彩が寝入ったのを見届けて、そうっと布団を抜け、有里屋を出る。
客のほとんどが見世に入るか帰るかして往来が少なくなり、吉原全体が静かだ。
見世の目印として下げられた名入りの赤提灯が夜風に揺れる。
小路の左右にずらずらと列を成す火は、弱々としながらも美しく、まるで格子の奥に捕らわれた娘たちのようだった。
年季奉公を終える日を目指して生きる、彼女達も立派な炎だ。雪のように白い肌と痩せて骨張った体の奥には、信念の火が燃えている。
そうでなければ、誰が好きでもない相手に体を開かれる恥辱に耐えられるだろう。
仲の町通りを行くと、瀬戸物の割れる音が聞こえた。
音の出所は引手茶屋である。気配に顔を上げると、人が飛び降りてきた。
「ちょいと避けてくんな!」
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