「またよろしく」


 瑠璃は、茶屋の暖簾をくぐって陽の当たる参道に出た。

 仲見世の二階で寄席を開かせてもらったおかげで懐には銭がある。あと二軒も回れば、建て直された霜月長屋の店賃は払えそうだ。

 雷門を出て広小路を歩いて行く。

 ここらは火事が燃え広がらないように表の道幅が広くとられている。

 火事と喧嘩は江戸の華。とはいえ、振袖火事のように外神田から北は本郷、西は市ヶ谷見附まで焼き尽くされては困るからだ。

 講釈小屋や手妻の合間に、床几に腰を下ろして団扇で顔を仰いだり、冷や水の棒手振りに声をかけて喉を潤したりする人々が見えた。

 一席終えた瑠璃の喉も渇いていたが唾を飲み込んで我慢する。

 店賃の支払いは今月だけではない。向かいに住む浅草紙売りはよく踏み倒しているが、芸事を生計にしている義太夫が盆と大晦日に逃げ回っては笑い者だ。

 琥珀がいたら奢ると言い張るだろうが、夏の間は遠慮しておこう。

 夏は、歌舞伎にとって鬼門の季節だという。

 芝居小屋にこもる熱気を避けて、古参役者も客も舞台に居着かない。若手が頑張って怪談を興行しているが、あれは苦肉の策だ。普段の収益を賄えるような舞台ではない。

 その分、身一つでどこでも興行を打てる浄瑠璃は強い。

 義太夫たちは、風鈴を下げた一膳飯屋の座敷や屋形船の宴席に乗り込んで、今までの分を取り戻すように稼ぐ。

 瑠璃が茶屋で三味線を弾いているのも、その一環である。

 大抵は、座頭の贔屓や顔利きの斡旋を受けた者から席が埋まっていくが、瑠璃は娘義太夫という物珍しさから飛び入りでも座敷に通してもらえた。

 そういう場合は、本格的な浄瑠璃は求められていないので、撥を使わずに指で弦を弾く小唄を披露して、あとは客同士の雑談に頷いておく。

 それで稼げるのだから楽なものだ。

 店賃を差配に渡して銭が余ったら、琥珀にところてんでも食わせてやろう。

 のらりくらりと生きている美丈夫を思い出しつつ、名題看板のかかった華座の前を通りがかると、何やら人だかりが出来ている。


「医者はいないか」「お太鼓でもいいなら」と寄ってたかれの大騒ぎだ。

 巻き込まれたくないと歩みを早めた瑠璃は、次の声にはっとした。


「――倒れたのは立女形だってよ」


 華座の立女形は琥珀である。あいつ、倒れたのか。

 瑠璃は、どうにも気になって勝手口へ突進し、中を覗いていた留場に聞く。


「琥珀が倒れたって、興行中にか?」

「そうみたいでさ。姉幽霊をやってる最中に、口から血を吐いて倒れたとか。迫真だったので皆が演技だと思って、幕が下りるまで助けるのが遅れたんでえ」

「お客さん、悪いけど出て行っておくれよ」


 上がり框に、紫色の振り袖を着た瓜実顔の女が立っていた。

 紅をちょいと差した吊り目と華奢な体つきが美しいが、喉は彫り仏のように浮き出ている。女ではなく女形だ。

 留場は琥珀にするよりもいささか丁寧な口調で瑠璃を紹介した。


「紅玉様。この方は瑠璃殿にござります。琥珀様の思い人の」

「ああ、あんたが『お姫』とかいう娘なんだね。あの琥珀を殺した女だ」

「ころした?」


 瑠璃の頭から血が引く。いきなりの下手人呼ばわりに怒るどころではない。


「琥珀は、死んだのか?」


 青ざめる瑠璃を見下げてふんと鼻を鳴らした紅玉は、裾をさばいて踵を返した。


「残念ながらまだ死んでないよ。心配ならおいで」


 瑠璃は、下駄を脱ぎ捨てて小屋に上がった。

 楽屋の並ぶ廊下を通って舞台袖にたどり着くと、赤い着物をまとった琥珀が上を向いて倒れていた。

 血を吐いたという前評判通り、口端からツウと黒ずんだ雫が落ちている。

 顔は真っ青だ。白粉のせいなのか、肌から血の気が引いているのか分からない。


「おい、琥珀。おい!」


 呼びかけながら手を握ると酷く熱かった。もはや人の体温ではない。

 袖をまくってみると素肌は鬼灯のように真っ赤に染まっていて、その割に汗は少しもかいていなかった。


「反魂丹を持ってきたぞ!」


 頭巾を被った黒子が、水差しと越中富山の気付け薬を持ってきた。薬袋を破いて中身を琥珀の口に流し入れようとする紅玉を、瑠璃は手でさえぎる。


「必要なのは薬じゃない」

「は? あんた医者でもないのに何なのさ」

「医者じゃなくても分かる。これは酷い暑気あたりだ」


 立ち上がった瑠璃は近くにあった水桶に目をつけた。大の男が三人は入れそうな大きさで、川から汲んできた水が半分ほど入れられている。

 目減りしているのは、納涼舞台の演出で使ったせいだ。

 桶には柄杓がかけられていたが、熱を冷ますには汲んで浴びせる程度では足りない。

 瑠璃が脇を蹴りつけると、桶は倒れて大量の水が琥珀に降り注いだ。中途半端に空いた口に入ったので、紅玉は「溺れ死んじゃうよ」と叫ぶ。


「この男がこんなことで死ぬものか」


 しとどに濡れた胸ぐらをつかんだ瑠璃は、上下に揺さぶる。


「幽霊役が実際に死んでどうする! お前が死んだら華座はどうなる! 起きろ!」


 すると琥珀は、目蓋をぱちりと開けて咳き込んだ。

 口から吐かれた水は赤い。独特な匂いから、血ではなく血糊だと分かる。

 蘇った――いや、違う。生きていたのだ。

 琥珀は、寄せては返す白波に打たれて斃れていた義経ではない。

 ないはずなのに、なぜか姿が重なって見えた。


「る、り」

「お前が倒れて幕は下りた。しびれはないか?」


 高熱は体の末端を動かす神経を焼くことがある。ばくばくと跳ねる鼓動を気取られぬように尋ねると、琥珀は指を握ったり開いたりした。


「平気みたいだ……。本番中に頭がぐらぐらして、幕が下りたら塩舐めて水を飲もうと思っていたら、いつの間にか倒れていたんだね。うわあ、衣装が水浸しだ」


 琥珀は、びしょ濡れになった体を見下ろして素っ頓狂な声を上げた。

 まるで水揚げされたばかりの白魚みたいに元気だ。ぴんぴんしている様を見たら、なぜだか瑠璃の目が熱くなった。


「衣装は換えればいいだろう。命はなくなったら終わりなんだぞ……」


 いけない。今日の瑠璃は、どうにも前世に引きずられている。

 高熱を出して仲間に見捨てられた義経の元に駆けつけたら、とうに事切れていた。波が打ち寄せる浜で亡骸を目にした浄瑠璃姫の悲哀が内からあふれ出してしまう。

 涙をそっと袖で隠すが、それを見た琥珀は二拍ほど固まった。


「る、瑠璃、泣かないで。死にかけてごめん。本当にごめんね」

「あやまるな。まだ寝てろ」

「瑠璃が泣いているのに寝ていられないよ。紅玉。女子ってどうしたら泣き止むの。僕、ずっと独りだったから分からないよ」

「はぁ? 急に初心ぶらないでくれる」


 濡れた裾を絞ってやっていた紅玉は、取り乱す琥珀に舌を出した。


「吉原から恋文が届くような通のくせに」


 吉原といえば江戸で最大の色町である。浅草寺裏の田んぼの中にあり、遊女が二千五百もいて、やってくる男たちに春をひさいでいる。


「あれは人違いだよ。華座の女形宛って書いてあったけれど、僕は吉原に行かないし、七彩なんて娘は知らないもの」

「ななや?」


 誰だその女。瑠璃は問い詰めそうになったが、何とか言葉を飲み込んだ。

 琥珀とは恋仲ではない。どんな女と文をやりとりしていようが瑠璃には関係ないこと。だが、我慢すればするほど胃の腑がむかむかする。

 琥珀は、夏場の公演は体力を使うからと、しばらく霜月長屋に顔を見せなかった。その間、稽古ではなく遊女遊びに精を出していたのか。

 むっと顔をしかめると、琥珀は帯から文を引き抜いて瑠璃の手に握らせた。


「本当に何でもないんだよ。中を検めてみて」


 ぐっしょりと濡れた文は墨が滲んでいた。郭で彼岸花が咲いたとか、もう一度あなた様が見たいとか、良くも悪くも意味がない内容だ。

 手跡はお世辞にも上手いとは言えない。幼くして吉原に入り教養を積んだ禿ではなく、年頃になって売られてきた少女かもしれない。


「恋文ではないようだが……」


 文を睨んでいると、楽屋に通じる廊から人が入ってきた。


「もうし」


 現われたのは、黒紋付の羽織を着た若者だった。

 腰に十手を差しているところを見ると同心のようである。

 同心は、市中の見回りや捕り物を担当する武士で、騒ぎがあれば我先にと駆けつけてくる。江戸で生きていればお馴染みの存在だ。


「拙者、若狹由良之助と申す。ここで死人が出たと聞いたが……」

「それが残念、死んでないんですよ。芝居中に暑気あたりで倒れたんですが、水をおっかぶせたら気を取り戻しましてね。お役人様のお手を煩わせることはございません」


 紅玉が紅を引いた目を細めると、若狹はわずかに頬を染めた。


「夏場の芝居小屋は熱さが厳しい。気を付けなさい。騒ぎが起きれば、お上からの認めが取り消される場合もある。今の浅草は、きな臭いのでな」

「何か事件でもあったのか?」


 若狹は、口を出した瑠璃に視線を移した。


「人攫いが起きているのだ。よく親が子どもに言う、暗くなってから表に出るとあやかしに攫われるという筋書き通りに、浅草の子らが消えている」

「それは遊びたがりの子らを戒める与太話ではないのか」

「与太で済めばどれほどよかったか。攫われるのは子どもや若い娘が多い。そなたも気を付けなさい」


 話を終えた若狹は、能楽師のように静かに裏口に向かった。

 緊張が解けた裏方は、やれやれ人死にが出なくて良かったと笑い合って持ち場に散っていく。瑠璃は託す宛のない文を懐に入れた。


「僕は着替えてくる。瑠璃も来るかい」

「あたしは、ぶちまけた水を掃除している」


 瑠璃は留場の手を借りて床を拭った。

 その間、知らぬ遊女から琥珀に届いた文は、傾城が頭に飾る簪のようにちくちくと瑠璃の胸を刺したのだった。


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