三幕 吉原天狗と名無しの恋文

「もう無理。死のう……」


 琥珀は、華座の楽屋であおむけに伸びていた。板張りなので、痩せた体で寝転がると体が痛いのだが、心の方が痛い今は気にならなかった。


「あんた邪魔だよ」


 傾城の衣装のまま力尽きていた琥珀を、通りがかった女形が蹴っ飛ばす。

 琥珀と似たり寄ったりの着物の裾がめくれ上がり、白い脛が露わになった。


「死ぬんなら自分の屋敷でやって。あんた一応うちの看板役者なんだから、汚い方法で事切れるのはやめてよね。俺に迷惑がかかる」

「紅玉(こうぎょく)。僕は一応お前の兄様だよ。もうちょっと労ってくれない?」

「養子のくせに何を偉そうに。華山宗家の跡取りは俺なの。あんたは養子で雇われの立女形でしょうが。十八歳にもなって、まだ上下関係が分からないのかい」

「はい……すみませんでした……」


 琥珀は起き上がった。

 お説教体制に入った紅玉は怖い。

 紅玉と並んで肌を白く塗り、目元と口元に紅を刺して髢を付ける。

 女形としては琥珀の方が上。しかし養子であればこそ、華座での立場は座元の息子である紅玉屋こと華山紅之助(くれのすけ)の方が高い。

 凜としたつり目と右にある泣き黒子が色っぽい紅玉は、名題下から上がったばかり。

 彼が名跡になるまでは、琥珀の人気で華座を維持するのが一族の総意だ。

 そうでなければ、琥珀は裏方にさえ置いてもらえないだろう。

 例え才能があろうと、周りが次々と死んでいく死神体質からは、距離を取りたいのが普通である。

 楽屋での主従関係もはっきりしていて、紅玉のふかふかした座布団は上座に設えられている。それから少し距離を置いて、琥珀のぺたんこの座布団。

 琥珀が使うのはいつも使い古しだ。


「お気楽馬鹿のあんたが思い悩むなんて珍しい。一等良い屋敷に住んでいて、人気も総取りだろう。いったい何が不満なわけ?」

「人生をかけて口説いている女子に好きな男がいたんだよ……」

「なにそれ、だっさ」


 紅玉が吹きだした。

 嗤いたくもなるだろう。琥珀だって、こんな展開は予想していなかった。

 瑠璃が告白を受け入れてくれない理由が別の男のせいだったなんて。猿若町に琥珀屋ありと謳われた、江戸一の人気を誇る歌舞伎役者の名折れである。


「僕、やっぱり舞台には上がらず死ぬ。瑠璃が僕以外の男と仲良くしているのを想像しただけで、墨田堤の桜を染め上げるだけの血を吐けるもの」

「吐くならいっそ舞台で見せてよ。今やってる怪談にはちょうどいいじゃない。血糊だってタダじゃないんだし、節約節約」

「僕の命は血糊より下かあ。知ってたけど切ないね」


 琥珀は、額に浮いた汗を手ぬぐいで抑えた。

 夏の暑さは容赦なく浅草を温める。人が詰めかける芝居小屋は特に蒸れて、一刻も居れば地獄の釜で茹でられているように肌が真っ赤に染まる。

 それが分かっているから。古参役者は夏に長い休暇を取る。

 若者にとっては絶好の機会だ。

 平時であれば古参がやるような大きな役をもらえるのである。

 しかしそこは芸事。

 基本的に若手は演技が下手なので、見るに堪えない演目になってしまう。下手な芝居を見たい人間はいないので、客入りが少なくなるのも道理と言えよう。

 そこで考え出されたのが納涼興行だった。

 幽霊やらあやかしやらが派手に登場する筋書きを用意して、白く塗った顔に血糊を垂らし、舞台から風を送ったり水を撒いたりして客を驚かせる、演出頼みの怪談芝居を行っているのである。

 琥珀は人気で言えば古参並みだが、若いので休暇を取らずに出演していた。


「御客も飽きてきただろうし、そういう演出にするのも面白いね。試しに、口に血糊を含んでいって、花道でべろんと吐いてみようか。受けたら常設に取り入れよう」

「衣装が汚れるからやめてよね。やるなら、あんたの自前の着物にだけかけて。こっちに飛沫一つでも付いたら板の上で殺すから」

「幽霊役を殺さないでよ。筋書きが狂う」


 今夏の華座の見物は、琥珀と紅玉が二人で現われる双子の花魁だ。

 情夫と駆け落ちして死んだ、切り前髪の色っぽい姉役が琥珀。

 生き残った情夫に復讐するために、姉の幽霊の振りをして近づくのが妹役の紅玉。

 情夫は、恐れ戦いて花町を逃げる途中で姉の幽霊を目撃していく。

 その正体は妹なのだが、いつしか妹に寄り添うように姉の幽霊が現われて、最期は足を滑らせて川に落ちて溺死。妹は上がった死体を見て、ここまでするつもりはなかったと泣き、姉の幽霊は満足そうな笑みを浮かべて幕は下りる。

 美女二人の悲喜こもごもでぞんざいな筋を誤魔化す大団円なのに、妹が姉に私怨を募らせたら『仮名手本忠臣蔵』に並ぶ大作になってしまう。


「紅玉が僕を殺そうとすれば、御客は、はてはこの妹、密かに姉の情夫に片恋でもしていたのではないかと邪推するよ。そうすると怖さが半減しちゃう」

「あんた本当に舞台馬鹿だね。客の反応より死ぬ心配をするものだよ」

「そう?」


 琥珀は、ぼんやりと自分が事切れる瞬間を思ってみた。

 息ができなくなり、体は脱力し、意識は薄れて、心の臓が止まる。

 それだけだ。なんの感慨もない。


「僕、死ぬのは別に怖くないんだよね。だって、生きている者はみんな死ぬもの」


 琥珀の母は、琥珀を生んですぐに産褥熱で死んだ。

 悲しみのあまり父が後を追い、十も上の兄は本番中に奈落に落ちて、二つ上の姉は舞踊の師匠が飲ませた甘酒に当たって死んだ。

 わずか五年の間に、琥珀の家族はすっかり死に絶えてしまったのである。

 琥珀にとって死は背後にぴったりとくっついているものだ。『春興鏡獅子』で舞う弥生のそばに寄り添って、差し金につけた蝶を操る黒子のように、確かにそこにいる。けれど皆、見えない振りをしている。


「僕が怖いのは、人に好きになってもらえないことだよ。僕のお姫を誑かしたのはどこのどいつだ、ちくしょうめ!」


 幽霊さながらの迫真で頭を振り乱す琥珀に、紅玉は「くだらない」と浴びせかけた。


「振り向かない女なんか諦めなよ。吉原か深川辺りで器量のいいのを見繕ってくれば」

「瑠璃の他に興味はないよ。遊女といえば、木挽町の屋敷に変な文が来ていたな」


 琥珀は、懐から花色に染められた漉き紙を取り出した。

 手頃に切った菖蒲の葉が添えられていて馨しい香りがする。


「今朝、網笠茶屋の小僧が持ってきたよ。華座の女形宛だって。また逢いたいって書いてあったけれど僕が知らない太夫なんだ。誰と間違われたんだろう?」

「そうやって気を引いて見世に呼ぶんだろうさ。あっちだっておあしが無けりゃ、飯も食えなきゃ借りた金も返せないからね。人気自慢はよしておくれよ。腹立たしい」


 紅玉が不機嫌になってしまったので、琥珀は「ごめん」と告げて文を帯に忍ばせた。

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