六
夜が更けた井戸の真裏で、橋本は息を潜めていた。
視線の先には、昼間こしらえた座敷童用の罠がある。
逆さにした笊を木の切れ端で支えているだけの簡素な作りだ。座敷童が下にもぐり込めば、切れ端が倒れて中に閉じ込める仕掛けになっている。
梅雨空は今夜も曇りだ。ジイジイと鳴く虫が足を上ってきたので払い落とす。水場の近くは空気が湿気り、草も虫も悪質に大きくなっていた。
座敷童を捕まえたら、井戸は埋めてしまおうと橋本は思う。
どうせ使っていないのだ。
以前は盛んに水を汲んでいたが、家で食事を取らなくなってから近づいていない。
「はて。いつから組んでいないのだったか」
橋本は、おぼろげに女を思い出した。
恥ずかしげもなく乳を出して、下半身を血で真っ赤に染めた女だ。
顔色は悪く、脱力した体にも血の気はない。お産で力尽きてしまったようだ。
力ない腕に抱いた赤子は、癇癪でも起こしたように泣き叫んでいる。
ゴウゴウと、井戸に入り込んだ迷い風の音が聞こえる。
産婦。赤子。
大量に必要だった井戸水。
ゴウゴウ。囂々――。
「知らぬ。某は、そんな女は知らない」
首を振って罠を見ると、何と笊が地面に伏せっているではないか。
座敷童がかかった!
急ぎ足で駆け寄った橋本は、刀に片手をかけて笊を持ち上げる。
しかし、中には何もいない。
「風で落ちたか……」
ふと横を見ると、隣家の囲いの前に、前髪だけ残して剃髪にした子どもが、でんでん太鼓を手にして立っていた。
「そこにいたか座敷童め!」
声を上げると相手は逃げた。
囲いの破れ目をくぐっていったので、橋本は大股で乗り越えた。
太鼓の音を響かせながら、座敷童は隣家の縁に上る。
琥珀の屋敷の最奥にあたる部屋だ。武家屋敷では、妻が住まう座敷である。
あそこには御新造である瑠璃が寝ているはず。
座敷童に取り憑かれでもしたら一大事だ。
若い夫婦には、これからたくさんの未来があるのに。
――我が身とは違って。
「琥珀殿、お内儀、座敷童であるぞ!」
聞こえたのは返事ではなく、べべん、という弦の音だった。
目指していた座敷に、明かりが一つ、二つ、三つと点いていく。
まるで怪談語りを始める芝居小屋のようだ。
怪しげな光に誘われて座敷に近づいていくと、桜の襖絵を背負った娘義太夫が、太棹の三味線を構えて座っていた。
「瑠璃殿……」
男のように裃をつけた瑠璃の傍らには琥珀が座り、座敷童はその膝の上にちょこんと座っていた。
「こ、琥珀殿。動いてはならぬ。その子どもこそ座敷童だ」
「そんなもの、どこにもいませんよ?」
「いるではないか! 其方の膝の上で、でんでんこでんでんこと玩具を回しておる!」
説明しても琥珀は奇妙そうな顔をするばかり。
瑠璃に至っては、橋本をまっすぐに見たまま動かない。
あやかしに魅入られてしまったか。橋本は刀に手をかけた。
「お二人を騙すとは、許せん!」
「動くな」
べべんと三味線が鳴ると、橋本の体は金縛りにあったように重くなった。
ぐっと息を詰めていると、瑠璃は朗々と語り始める。
――落人の為かや今は冬がれて 薄尾花はなけれ共――
流れてきたのは『冥土の飛脚』。真面目な飛脚問屋の養子忠兵衛が、郭で関係を持った梅川という遊女と逃亡するが連れ戻され死別する、憐れで一途な恋の物語だ。
雲雀にも勝る美しい声が響くと、橋本の首筋がひやりとした。
後ろから何かが近づいてきている。
足音もなく脇を通っていったのは、腰から下を血でしとどに濡らした女だった。
あんな恐ろしいものが近くにいたのか。
武士らしく斬ってかかれと思うのに、橋本の体は動かない。
――世を忍ぶ身は跡や先 人目を包む頬被り――
女が座敷に上がると、蝋燭の火が左右に揺れた。
瑠璃と琥珀は見えていないのか平然としている。橋本の額には脂汗が浮かぶ。
この女をどうにかしなければ、二人は不幸に見舞われる。
自分と、最愛の妻のように。
女は、青白い両手を琥珀に伸ばし、座敷童を抱き上げた。
そして――愛おしげに頬ずりする。
「あ……」
母親らしい表情が記憶と結びついて、橋本は踏み石に膝を突いた。
「そなたは、お松……。お松なのか?」
血だらけの女の顔は、亡き橋本の妻と瓜二つだった。
そして抱かれている座敷童をよく見れば、妻が命に換えて生んだ我が子だ。
「ようやく思い出されましたね、橋本様」
琥珀は、子どものいなくなった膝に両手を置いて微笑んだ。
「橋本様は、現実をお忘れになっていたようです。そのため、我が子が見えなくなっていた。大きな悲しみに取り憑かれたせいです」
悲しみ。橋本は、記憶の大波に呑みこまれた。
妻が産気づき、奉公人と協力して井戸から汲んだ水を沸かしていた橋本は、元気な赤子の声を聞いて安堵した。男の子でも女の子でも大切に育てようと決心したが、いつまで経っても産婆が呼びにこない。
これはおかしいと思って白い布を張った奥座敷に行くと、妻は下半身を血だらけにして事切れていた。いつでも花のように可憐な笑みを浮かべている女だったのに、表情は辛そうに歪んだまま。
せめてもの慰みにと産婆が腕に抱かせた赤子が、白い乳房の上で泣いている。
「なぜだ、お松!」
橋本は膝からくずおれて咆哮した。
泣き喚いて妻の名を呼ぶ主人を、奉公人達が抱え上げて別室へ連れていき、無理やり寝かせて七日も目覚めなかった。
その間に、妻の亡骸は懇意にしている寺に運ばれ、葬られていた。
ようやく目覚めた橋本の元には、自分に似た子どもだけが残された。
妻がいないのに、なぜ赤子がいるのだ。
橋本は子の顔が見られなかった。見れば嫌でも血だらけの妻を思い出す。
乳母をつけて育てていたが、言葉を話し出したとか一人で歩いたと聞いても、少しも興味が湧かなかった。
同僚から後妻を娶れと勧められて、妻は死んでいないと言い返した事もあった。
真面目な主人の変わり様に、奉公人は一人また一人と去って行った。最後の一人が辛そうな顔で接してくるので、怒って追い出してしまった。
「某がおかしくなっている間、赤子は誰が育てておったのだ」
「その産女だ」
答えたのは、語りの手を止めた瑠璃だ。
「産女は、産後直ぐに亡くなった母が転じたもので、水場に孤児を抱いて現われる。子どもの泣き声を聞きつけて、橋本家に吸い寄せられたんだろう」
「食べ物は、周りの屋敷から恵んでもらっていたようですよ」
普通は、いきなり訪ねて来た子どもを食わせてやらない。だが、橋本家の事情を知っていたご近所は、子どもを座敷童という体にして門の内側に引き入れたのだ。
「では、周りで起きていた災難はなんだったのだ」
「偶然です。座敷童というのは、家を隆盛させて没落させるもの。心中も強盗も可哀想ですが、お家が傾いてはいないでしょう。座敷童なんてのはいなかったんです。不幸を聞いた橋本様が、自分の周りをうろちょろする子どもと結びつけて、そう思い込んでしまっただけ。産女も、あなたには愛妻に見えているのかもしれませんが、僕の目で見ると全くの別人ですよ」
「そうか……そうだろうな。お松は子を残して死んだ後、皆がきちんと葬った。化けて出るはずがない」
橋本は、すっかり落ち着きを取り戻して、産女に頭を下げた。
「産女殿。今まで育てていただいて感謝致す。しかして、その子は某の子。橋本の家を継がせる大事な跡取りにござる。返してはいただけないだろうか」
呼びかけられた産女は、橋本に近づいて抱いていた子どもを差し出した。
橋本は、両手で恭しく受け取る。
「なんと重たい……。こんなに大きくなるまで、よく元気でいてくれた」
涙ぐむ橋本を見て安心したのか、産女の姿が薄くなる。
瑠璃は、撥を振り下ろした。
――一文の銭と違ってあやかしもの。こいつは春から縁起がいいわえ。
突如、ゴウッと吹き込んできた風が蝋燭の火を消した。
橋本は、子どもを守るように身をかがめ、琥珀は袖で顔を守りながら目を凝らす。
強風は産女を一巻きにする。瑠璃は赤いくちびるを開くと、ふうと息を吐いた。
すると、産女の姿は風に乗って、天高く舞い上がっていった。
「消えてしまった……」
空を見上げる橋本に、瑠璃は鈴よりも透明な声で言う。
「産女は、手ずから子どもを人に渡すといなくなる。もうここには現われない」
「そうか」
腕の中ででんでん太鼓を鳴らす子どもを、橋本はぎゅうと抱きしめた。
「今まですまなかった。立派なとと様になるから許しておくれ。琥珀殿、瑠璃殿、手を貸していただき感謝いたす。おかげで家族を取り戻せた」
涙を流す橋本は、何度も何度も礼を告げて、自分の屋敷に帰っていった。
瑠璃が桜の間にいると、でんでんこの音が聞こえてくるようになった。
太鼓の音に合わせて三味線を弾いて過ごしている内に梅雨が明け、霜月長屋の普請が終わったと連絡がきた。
「出て行っちゃうの?」
「もう長雨は降らないだろう。ヒラキを立て直して興行を打てば、店賃も払える。お前に世話になる必要はない」
「ここにいなよ。ご飯は勝手に出てくるし、掃除もしなくていいし、店賃の心配だってしなくていい。最高じゃないか」
「しつこい」
瑠璃は、三味線を入れた袋を背負って、土間に立ち上がった。
「あたしは一人でも生きていけるようになるんだ」
「一人は寂しいよ。それとも何。他に添いたい男でもいるの?」
「………………」
「なにその間。まさか、本当に好きな男がいるの!?」
琥珀が狼狽えだしたので、瑠璃は慌てて言い捨てた。
「好きなんかじゃない。ただ、因果があるだけだ」
表に出ると、後ろから琥珀が慌てて追ってくる。
詳しく教えろだとか、江戸に自分よりいい男がいるはずないとか叫んでいるが無視だ。
瑠璃だって探している相手をいい男だとは思っていない。
相手は、酷い男なのだ。年頃の姫の心をかき乱して一夜を共に過ごしたら、行く場所があると姿を消して、次に会った時は死んでいた。
無論、今生の話ではない。
瑠璃の前世、浄瑠璃の元祖である浄瑠璃姫の話だ。
相手は、聞くも名高い牛若丸――源九郎義経。
瑠璃は、自分と同じく生まれ変わっているだろう、昔の恋人を探しているのである。
別に前世の悲恋を叶えようとしているのではない。
ただ一発。鬱憤晴らしに頬を殴りたい。
瑠璃は、そのためだけに生きているのだ。
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